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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

シリアとエジプトの違い 2011年3月9日

2018-07-03 23:32:51 | シリア内戦

 

2011年シリアの首都ダマスカスではデモは起きず、2012年以後の武装反乱においても、武装グループの支配地となることはなかった。シリア内戦を理解するうえで、ダマスカス市民がアサド政権を支持していたことを忘れてはならない。シリア内戦は地方の反乱だったのである。シリア第2の都市アレッポと第3の都市ホムスにおいても大規模デモは発生せず、デモが武装反乱に移行したとは言えない。シリア内戦は大衆運動を背景にした革命ではなく、大衆の支持が少ない状態で始まった武力革命である。多数の市民のデモが武装反乱に移行したのはダラアだけである。シリア全体として見ると、2011年の平和な大衆デモは低調に終わり、2012年になって武装闘争が始まったのである。エジプトでは大規模な大衆デモによって、平和的に新政権が誕生した。シリアはエジプトと非常に違う。2011年シリアでは革命と呼べる大衆運動は起きなかった。

米国バージニア州のジョージ・メイソン大学の教授はシリアとエジプトの違いについて書いている。シリアという国の特徴がよくわかる。

 

======《シリアで革命が起きない理由》=====

 Why Syria is Unlikely to be Next… for Now

           By Bassam Haddad

      Arab Reform Bulitin  201139

Carnegie Endowment for International Peace 

http://www.carnegieendowment.org/arb/?fa=show&article=42936&utm_source=Arab+Reform+Bulletin&utm_campaign=03474a3dc6-ARB+Weekly+%28English%29&utm_medium=email

 

アラブいくつかの国では、数万の国民が変革と新政権の誕生を求め、デモをしている。しかしアラブの中でも豊かな産油国ではこうしたことは起きていない。シリアは貧しい国であるが、大きなデモは起きていない。シリアはアラブの強国であるが貧しく、国民は多くの不満を抱えている。シリアの国民はチュニジアのような圧政とエジプトのような貧困に苦しんでいるにもかかわらず、怒りの声をあげない。

シリアの統治権力はヨルダンやモロッコのように世襲制であり、支持基盤は国民の10%に過ぎない。それでもシリアの大衆運動は低調である。なぜだろう。政府を批判した者には残酷な制裁が加えられる。その恐怖が抑止となっていることは確かである。しかし事情はもっと複雑である。

自国民に対する暴力は多くの場合不満を黙らせる手段として有効であるが、常に危険をはらんでいる。一か八かの賭けであり、一歩間違えばすべてを失うことになる。

 

       〈シリアとエジプトの違い〉

シリアのメディアが伝えることを見れば、またシリアについての報道を見れば、シリアの人々が近隣のアラブ国民の不満に共感していることは明らかである。そしてシリアでも24日デモが計画された。この日を「怒りの日」と呼び、参加を呼び掛けた。しかし集まった人数はとても少なかった。それでも警官は彼らを規制し、なぐった。最近の数週間も、時々デモが起きている。これらのデモは政権の打倒を叫ぶものではなく、エジプトなどの場合と比較にならないほど小規模だった。

エジプト国民は言論の自由、表現と団体運動の自由、完全に自由な多数政党制を獲得している。元祖イスラム原理主義グループであるムスリム同胞団さえ公認されている。もっともムスリム同胞団の中核は革命組織であり、政党は外郭団体に過ぎないが。このようにエジプトの社会は自由だったため、国民の抗議運動は大胆だった。

エジプトと違ってシリアには政治的自由が存在しない。130日アサド大統領はウォール・ストリート・ジャーナルとの対談で「シリアはエジプトとは違う」と述べた。彼が意味したこととは逆の意味で、これは正しい。アサドは国民から政治的自由を奪っておきながら、国民が自分を批判しないので、自分は国民に支持されていると錯覚していた。

ムバラク政権はシリア同様抑圧的だったが、エジプトの社会は自由で開かれていた。自由な新聞と複数の政党があり、最近10年間政治活動は活発だった。政治活動家は支持者を増やし、各種のネットワークを利用して動員をかけた。時間とともに大衆運動が拡大し、幅広い層の国民が大衆運動に参加した。20042010年、中規模ないし小規模の労働運動が全国で発生した。過去10年の間に、大衆運動を指導する人物やグループが登場し、彼らは大きな政治力を持つようになった。こうしてエジプトの大衆運動は極めて活発になった。これはシリアと対照的である。シリアには自由な大衆運動は存在しない。

シリアでは富裕層と貧困層の2極化が進み、極貧層が増えていたが、経済的なセーフティーネットが存在しなかった。シリアの社会経済状況はエジプトより悪かった。また政治によって生まれた貧困もある。長年のバース党政権カ下で政権と結びついた人びとは優遇され、それ以外の人びとはうち捨てられてきたため、現在両者は分断されている。シリア国民の多くが貧困に耐え、政権に不満を持っている。それなのに、なぜシリア国民の不満が爆発しないのだろう。

エジプトは単一民族であるのに対し、シリアは多民族・多宗派の複雑な社会である。さらにシリアの場合、地方の独立性が温存されており、国家統合が不完全である。このようにシリアの社会は多様で分断されているので、国民がまとまって不満を表明することがない。シリアで革命を起こすことは難しい。政権によって弾圧される恐怖も大きいので、シリア国民はおとなしくしている。

 

    〈シリアがチュニジアやリビアと違う点〉

チュニジアには自由な政党が存在せず、反体制的な政治活動が過酷に弾圧される点でシリアと似ている。にもかかわらずアラブの春と呼ばれる民衆革命はチュニジアから始まった。シリアの場合、政府・政党・軍が独裁者と密接に結びついており、それぞれが単独で反乱を起こせないようになっている。現大統領の父ハフェズ・アサドは統治機構のすべてに信頼できる者を配置した。それに対し、チュニジアの軍と警察は大統領からある程度独立していた。そのため軍と警察はベン・アリ大統領を切り捨てた。シリアではこのようなことが起きない。ハフェズ・アサドは空軍の将校であり、軍の実力者である。彼は軍に依拠して大統領になったのである。

リビアもチュニジアと同様であり、統治機構が反乱側に回った。カダフィは国家の頂点にあると思い込んでいたが、政府・政党・軍・経済人との関係が緊密ではなく、彼らは危機に際しカダフィと運命を共にする気がなかった。

これと対照的に、シリアの独裁者は宗派を超えたビジネス階級を支援してきた。これらの経済人の多くはダマスカスの伝統的な商業地区の出身者だった。従ってダマスカスで反乱が起きることはない。もしシリアで反乱が起きるとすれば、北部においてだろう。

 

     〈シリアの対外政策〉

 米国とイスラエルは中東で残酷な行動をしてきたので、アラブの民衆は両国を憎んでいる。シリアは米国とイスラエルに抵抗してきたので、正統な国家と理解されている。特にシリアがヒズボラとハマスを支援していることは、高く評価されている。ヒズボラとハマスはアラブの抵抗のシンボルである。親米的なアラブ諸国の指導者はアラブ世界で評判が悪く、反対にバシャール・アサドは非常に人気がある。

しかしながらアサド政権に対する国内の不満が解消されるわけではない。エジプトの民衆がムバラク政権に怒りを示したのは、彼の親米的な政策とイスラエルとの共謀が原因ではない。アラブ世界は新しい時代に入っており、親米的な政権も米国の影響から脱し、自立へ向かっている。そのためエジプト国民の不満は外交政策にはなかった。

エジプトの民衆がアラブ民族主義を重視していることに変わりはないが、かれらが求めたのは国内における民主政治の実現である。国民の声が政治に反映する社会を求めたのである。エジプトを始めアラブの新しい波はシリアに影響を与えずにはいない。これまで成功してきた恐怖政治が通用しなくなるかもしれない。

==================(カーネギー終了)

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穏健派から強硬に転じたアサド 2011年4月半ば

2018-06-24 22:38:12 | シリア内戦

2011年4月半ば、シリアでまだ革命は起きていない。いくつかの都市でデモが起きていたが、これらのデモは小規模だった。革命が起きたチュニジアやエジプトと比べると、その差は歴然としていた。ただし南部の小都市ダラアでは連続してデモが起きており、多いときは1万人の参加者があった。ダラアはシリア最南端の田舎町であったので、あくまで地方的な出来事だった。ダラアのデモが全国デモに発展すると予測した人は少なかった。

しかし英国の戦略研究所(Chatham House)の研究員が「ダラアでは後戻りできない変化が起きた」と指摘している。ダラアの問題を解決すれば、シリアは革命を避けることができたかもしれないが、4月半ばの時点で革命への止められない流れは始まっていたいたのかもしれない。


=======《冷静なシリア国民に変化》=======

          Twist in Syria’s Sobriety

                   By Rime Allaf

: http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1368

              BitterLemons-international.org  2011年4月14日

シリアのデモは小規模であるが、一か月近く続いている。この間改革を求める市民は大きな成果をあげた。国民が政権に圧力をかけ、いくつかの変革を実施させることに成功した。代償は大きく、多くの市民が死傷し、投獄されたが、これは大きな前進である。

チュニジアとエジプトの政権が倒れた直後、シリアでもデモが始まったことに、シリアの統治者は恐怖を感じた。一方でシリアの国民はこれまで不可能だと思われたことが現実になったので、驚いた。シリアのデモは政権が動員するデモに限られており、市民の自由なデモは禁じられていた。敢えてデモに参加し、逮捕されれば拷問されるので、デモをするには有機と覚悟が必要だった。しかし南部の小さな都市ダラアでは数週間デモが続いており、参加者は多い時で1万人を超えた。政権は動揺し、ダラア市民の要求の多くを受け入れた。このようなことはシリアの国民にとって初めての経験だった。

政権内にダラア市民の要求に応じるべきだと考える人びとがいて、結局大統領はこれを受け入れたようである。

シリアの国民は50年間戒厳令の圧政下で生きており、現実に順応してきた。彼らには「パンか自由化」という選択はなく、パンも自由もなかった。それでもシリアの国民は「レバノンやイラクの悲惨な状態に比べれば、自分たちのほうがましだ」と考えていた。シリアはイスラエルと敵対関係にあり、国内が混乱すればイスラエルとその同盟国が介入してくるに違いない。

しかし現在シリアと似たような境遇にあるアラブの国民が立ち上がり、政権を倒している。シリアの国民はこれを遠くから傍観するしかないと、あきらめるだろうか。むしろ彼らは近隣の国民の例にならい、自分たちの手で未来を切り開こうとするだろう。シリアで革命が起きるかはまだ不確定であるが、これまでにない変化が起きていることは確かだ。

例えば、政権の弾圧に対する恐怖が消えたことだ。弾圧への恐怖は政権の安定を保障してきた。しかし現在デモで多くの死傷者・逮捕者が出ても、新たに多くの市民がデモに参加している。治安部隊が残酷にデモを弾圧しても、次回のデモ参加者の人数は増えてしまう。そして反政府デモは他地域に伝播してしまう。恐怖による支配はもはや機能しない。

もう一つの変化は、シリアには安定政権が必要だという神話が崩れたことだ。政権が力を失った場合、宗派対宗派、民族対民族の戦闘が勃発する可能性が高く、シリア国民はこれまで反乱に懐疑的だった。

治安部隊が平和なデモを武力で弾圧し、死者が出たことに、人々は怒った。取り締まりを厳しくすれば市民はおとなしくなるだろうという作戦は失敗し、逆効果となった。デモの参加者はかえって増えた。

アサド大統領は改革を望んでいるが、彼の周囲の保守的な連中が改革を阻んでいる、とこれまで考えられてきたが、これ誤りだったのである。大統領の周囲には改革派が多く、むしろ大統領が改革を渋ったのである。大統領がいつから保守的になったのかは、わからない。ダラアの反乱への対応の中で、彼は用心深くなったのかもしれない。ダラアの反対派市民が注目していた3月30日の大統領演説は市民の期待を裏切った。反対派市民は端的で明確な変革を期待していたが、大統領は改革について検討すると約束しただけだった。大統領は政権内の改革派より慎重だった。大統領の報道官は一貫してダラア市民の要望に応えきた。大統領は市民への発砲を禁じている、と報道官は述べている。これはデモの自由を認めた発言である。しかし大統領は演説の中で戒厳令の廃止について検討すると述べただけだった。彼の演説は従来の政権の立場を繰り返すだけであり、最近のデモに現れた市民の不満に直接答えることはなかった。鈍感なのか、自国民を知らなないのか、3月30日国民が何を期待しているのか、理解していないようだった。それに比べ、政府内の改革派はデモに敏感に反応してきた。

政府は大統領特使をダラアへの派遣し、いくつかの譲歩をし、ダラア市民の怒りをなだめる努力をした。これが反対派市民を勢いづかせ、さらなる要求を実現させようという気持ちにさせた。

政権はダラアへの譲歩だけでなく、北部のクルド人に対しても急に譲歩した。シリア国籍を持たない数千人のクルド人にシリア国籍を与えた。

エジプトのメディアはデモで死んだ市民に追悼の意を表したが、シリアのメディアはそれをせず、ひたすら外国の手先である陰謀グループを非難するだけである。アラブの春が自国に飛び火し始めていることに、政権は怯え、平常心を失っているのである。

シリアで革命が始まったとは言えないが、現在の状況は革命前夜かもしれない。革命を避ける唯一の方法は政権が自ら根本的な改革をすることである。部分的な改革でごまかすことはできない。またデモを残酷に弾圧しても、大衆の怒りを大きくするだけである。

シリアのデモで死者が出ているにもかかわらず、アラブ諸国はアサド政権を支持しているようだ。アラブの国は反乱が自国に波及することを非常に恐れており、反乱の熱気を冷やさなければならいと考えているのである。アラブの国は、シリアでも革命が起きるなら、次は自分たちだと戦々恐々としている。

しかしトルコはアサド政権を批判している。トルコの首相はじめ政府要人が「シリア政府はただちに改革すべきだ」と明言している。トルコはシリアとの国境線が長く、シリアに直接影響を与えることができる。

==================(BitterLemons終了)

 

シリアのような独裁国では、冷酷な弾圧を続けなければ、滅んでしまう。独裁政権がいったん譲歩するなら、際限なく譲歩を迫られ、結局は崩壊してしまう。アラブの春のような強烈な民衆運動が起きた場合、独裁政権は倒れるしかないのだろう。

サド大統領はチュニジアやエジプトの例を見て、民衆に屈することは誤りだと考えていたようである。大統領が改革改革派であることに期待した民衆は大統領の本質を見誤っていた。知的で弱々しい大統領の雰囲気は穏健な改革派を思わせたが、実際は冷酷な権力主義者だった。しかし政権内に穏健派がおり、大統領と強硬派は穏健派を排除しなかった。そのためダラアへの政権の対応は矛盾したものになった。強硬派の政策と穏健派の政策がたびたび入れ替わった。

レバノンの政治評論家によれば、アサド大統領はエジプトとチュニジアの革命から学び、民衆のデモに屈してはならない、と考えるようなった。

 

======《シリアはもはや後戻りできない》======

     At the Point of No Return

            Nizar Abdel-Kader    

 http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1369

    BitterLemons-international.org  2011年4月14日

 

チュニジア、エジプト、リビヤ、イエメンでは、数百万の国民が抗議デモをし、改革を要求した。シリアではこのようなことはおきない、と多くの専門家が考えている。5週間前までシリアは域内で強力な国であり、国内は安定し、異変が起きる様子はなかった。

2005年アサド大統領は政府・議会で議論もせずに、経済の自由化を断行した。独裁国が自由経済を導入すると、政治改革が起きることが多いが、シリアでは政治改革は起きなかった。シリアの政治腐敗が極端だったため、経済の自由化により新しい特権階級が大統領の家族とその周辺に形成された。支配グループによる富の独占と国民に対する政治的抑圧は、国民の我慢の限界に達していたが、大統領はそれに気付かなかった。

3月半ばダラア市民の不満が爆発すると、大統領は市民の声に耳を傾けず、残酷にデモを弾圧した。そのため他の都市でもデモが起きるようになった。

3月30日の大統領の議会での演説は、国民の期待を裏切った。大統領の補佐官ブサニア・シャーバンがこれまで約束したことを、大統領は実行するつもりがないとわかった。大統領は戒厳令を廃止しなかった。そして大統領はデモをしている人たちを次男し、「連中はのは米国とイスラエルの陰謀の手先だ」と述べた。

アサド大統領はエジプトのムバラク大統領やチュニジアのベン・アリ大統領と違い、国民から支持されている。しかしデモが起きた時彼は対処を誤った。彼は治安機関に頼り、デモを鎮圧しようとた。大統領は市民の要望を理解することによって政権の正統性を維持すべきだった。市民に対する暴力は政府に対する批判を強めることになったが、民衆のデモに厳しく対応することは大統領の方針だったようである。

エジプトとチュニジアの革命についてアサド大統領は独自の見方をしていた。ムバラクとベン・アリは民衆に譲歩した結果、政権を追われたとアサドは考えた。譲歩は弱さを認めることであり、危険であることを彼は知った。自国でデモが起きた時、アサド大統領は断固とした姿勢を貫こうとしたのである。確かにこのやり方をすれば政権は生き延びることができるだろう。彼の父も冷酷な独裁者と呼ばれながら、長期安定政権を維持したのである。

 

エジプトやチュニジアほどではないとはいえ、シリア国民は不満を抱えている。一つは国民には政治的自由がなく、支配者には無制限の自由があることだ。もう一つは失業者が増加し、極貧層が増えていることだ。就業うしている場合でも賃金が安く、物価が高い。1995年の自由経済導入以後、貧富の差が開き、2極化が起きた。

3つ目の不満は、海外に住む亡命者が帰国できないことである。彼らは数千人に過ぎないが、有力者であり影響力がある。彼らは自国の政権が代わり、帰国できる日を待っている。

米国はシリアでデモをしている人々を支援するつもりがないようだ。アサド政権が倒れれば、もっと反米的な政権が誕生すると考えているからだ。ダマスカスにムスリム同胞団の政権が誕生することは米国にとって悪夢である。ムスリム同胞団は元祖イスラム原理主義集団である。

===================(BitterLemons終了)

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2011年4月半ばのシリアの状況

2018-06-12 23:45:52 | シリア内戦

 

20114月半ば、ダラアの反乱は終息の見込みがなくなっていたが、ダラアは最南端の小都市であり、全体としてみればシリアの政権が危機にあるわけではなかった。私がこの時期について書き続けているのは、シリアがどのような経緯を経て、2012年以後の内戦に突入したかを検証するためである。

武力革命は長引かず、犠牲が限定的である場合はよいが、革命に伴う経済破たんが長期にわたり、国民の犠牲も多大になる場合がある。後者のようになる危険は5分5分なので、できるなら漸進的な革命を選ぶのが良い。シリアの革命は武力革命の失敗例であり、革命の原因はアサド政権の腐敗と冷酷にあったのか、革命派の盲目と外国の陰謀にあったのか、厳しく問われなければならない。2011年の春ダラアの状況が悪化した経緯はについて判断する材料を与えてくれる。

今回はシリアをよく知る識者が20114月半ばのシリアの状況をどのように見ていたか、について2つの記事を取り上げる。

最初はシリアと米国と米国の大学で国際関係を教える教授の文章である。

 

=====《アサド政権は危機を乗り越えるだろう》===

     Weathering the Storm

              By Alias Samo

BitterLemons-international.org   2011414

: http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1366

 

チュニジアの青年の焼身自殺をきっかけに、アラブ世界に革命が燃え上がった。シリアの都市でも抗議デモが起きたが、大統領の退陣を求めるものではなく、この点でカイロ、チュニス、ベンガジにおける激しい抗議と異なっていた。またエジプト、チュニジア、リビアの場合、首都で大規模なデモが起きたが、シリアの首都ダマスカスでのデモは人数が少なかった。またイスラム主義者の拠点都市アレッポとハマでは、デモが起きていなかった。いくつかの都市でデモが起きているが、イスラム過激派が動いていないことは、政権にとって安心材料だった。1978-1982年のムスリム同胞団による激しい反乱はアレッポで始まり、ハマで終わった。

現在シリアでデモをしている人々は大統領に改革を求めているのであり、彼の退陣を求めているわけではない。人々が大統領に希望を託していることには、いくつかの理由がある。

①アサド大統領は多くの傲慢な独裁的指導者のイメージからかけ離れており、謙虚で親しみやすく、普通の市民のような性格である。

②アサド大統領は米国に屈せず、イスラエルに立ち向かうアラブの最後の勇士であり、国内だけでなくアラブ世界で人気がある。彼はアラブ民族主義の立場を捨てない最後の指導者である。

③これまでのデモで市民が死亡しており、政権にとって不吉な兆しはあるが、シリア国民の多くは現実的であり、チュニジアやエジプトと同じことは望んでも無理と判断しており、リビアアやイエメンに様になることは絶対避けたいと考えている。シリア国民の不満は大きいが、現実主義的な判断に基づき、穏健な改革で我慢することになりそうだ。彼らの不満は大きく、いくつかの改革を望んでいる。

①戒厳令を緩和し、政治的自由をある程度認める

②支配階級の腐敗を根絶。統治過程の透明化。

③政党の自由を認める。(現在バース党以外の政党も存在するが、真の野党は禁止されている。その結果、縁故主義がまんえんし、有能な人材に道が開かれない。)

デモが始まってから、大統領は改革を実行した。内閣を一新し、ダラアとホムスの知事を解任した。またクルド人へ市民権を与えた。これ以外の改革もできるだけ早急に実現したほうがよい。

エジプトのムバラク大統領の辞任はエジプト国民にとってだけでなく、シリアにとっても喜ばしいことだった。最近数十年エジプトとシリアの関係は急速に悪化していた。1961年のアラブ連合の解消により、両国の関係は友好から不信に変わった。1973年のアラブ・イスラエル戦争(第4次中東戦争)後に、両国の関係は最悪となった。エジプトのサダト大統領は米国の提案を完全に受け入れ、1979年イスラエルとの和平条約に調印した。これに対しハフェズ・アサドは米国から距離を置き、イスラエルに敵対的な姿勢を崩さなかった。サダトとアサドの対立は自世代のムバラクとバシャール・アサドに受け継がれた。

ムバラクの辞任は国内問題が原因だったが、エジプト国民は反米・反イスラエル的な感情が強く、新政権がこれに沿った外交に転ずるなら、イスラエルとエジプトの関係は悪化するだろう。シリアとエジプトが再び統一戦線を組み、イスラエルに敵対してくれば、シナイ半島とゴラン高原の平和が危うくなり、イスラエルの平和の条件が崩れるだろう。

ムバラクの退陣により、シリアとエジプトとの関係が敵対から友好へ変わる可能性が生まれたとはいえ、シリアを取り巻く国際環境は厳しい。特に最近10年年間米国からの圧力に直面してきたが、今後も続くだろう。

現在アサド政権は国内危機に直面しているが、チュニジア、エジプト、リビアのようにはならず、危機を克服するだろう。

==============(BitterLemons終了)

 

シリアの場合、最初にデモが起きたのは小・中の都市だけであり、首都ダマスカスと第2の都市アレッポは平穏であった。シリアは10か月かけて徐々に危機に突入していったのである。そして10か月後には収拾困難な事態になってしまっていた。20113月半ばにデモが始まっており、政権が夏の終わりまでに問題を解決できなかったことが、2012年以後の内戦を不可避なものにした。4月半ばは危機的な状況ではなかったが、一歩一歩破局に向かっていたのである。

 

======《外交を重視し、国民を軽視》======

Paying Lip Service to Resistance does not Provide Immunity

          By Karim Emile Bitar

     BitterLemons-international.org   2011年414

  http://www.bitterlemons-international.org/inside.php?id=1367           

 

2003年の米国によるイラク侵攻は大きな失敗だった、とアサド大統領は考えていた。シリアはイラクからの難民130万人を受け入れ世話をしたが、これは人口2200万人のシリアにとって重荷だったが、シリア国民はこの政策を支持した。シリアはイランとの戦略的な協力関係を強め、ハマスとヒズボラを支援した。2006年のレバノン内紛の際、シリアはヒズボラを支援した。シリアはイラクで戦争をするブッシュ政権に公然と敵対的姿勢を示した。これはシリアの孤立化を招く、危険な政策だったが、少数の友好国もあり、助け舟となった。トルコはアラブ諸国に対し、「もめ事を起こさない」方針を取っていた。またフランスのサルコジ大統領もシリアに対し友好的だった。

しかし現在(20114月半ば)シリア政府は国内問題に直面している。見せかけの改革や部分的な変革によって国民の不満をなだめることはもはや不可能である。

2000年代後半には少雨と無雨により、シリア東部の農家が農業を捨てた。雨水に頼る農業を営む農民はもともと貧しく、破産により都市に流れ最下層民になった。シリアの政権は外交を重視し、国内の貧困層に対する配慮が不十分だった。イラク難民はシリア政府に感謝したが、破産した自国の農民は不満だった。シリアの国民はアサド政権の外交を支持していたとはいえ、内政には不満だった。

貧しさと政治的自由のない環境は、若者にとって酸素が欠乏した状態に似ていた。48年間戒厳令が解除されないのは異常であり、圧制の象徴だった。農業従事者だけでなく、他の産業の労働者も貧困ライン前後の生活をしていた。就業者の大部分が非正規労働であり、セーフティ・ネットは存在しない。闇市場が栄えていた。特権的な少数の人々が、通信事業、農業ビジネス、商業、不動産業を独占していた。シリアの経済は総入れ替えを必要としていた。シリアの反乱は南部の貧しい田舎の小都市ダラアで始まった。他の地域にも、基本的人権を奪われ、貧しさから抜け出すチャンスを見いだせない若者が多い。彼らはチュニジアとエジプトの革命に刺激され、革命に活路を見出そうとしている。これらの若者の願望を無視することは、噴火に近づいている火山に注意を払わないのに等しい。

シリアの政府が勇気ある改革をするなら、若者の不満の爆発を避けることができ、健全な経済発展の道を歩むことになる。特権階級による富の独占という病根さえ切除すれば、シリアには経済発展のための好条件がある。

①シリア国民は識字率が高い。

②若年層が多く、労働力が十分にある。

③シリアは古代・中世の歴史的遺産が多く、観光業による収入が見込める。

④国家財政の赤字は少なく、新産業育成のための国家プロジェクトが可能である。

このような条件がそろっているにもかかわらず、シリアはこれまで改革に取り組んでこなかった。アラブの若者の間に改革を求める熱気があふれている現在、アサド政権がもし改革を後回しにするなら、命取りになるだろう。

シリアの国民は19781982年の反乱を忘れておらず、流血革命を望んではいないとはいえ、根本的な変革を願っている。そしてそれが将来でなく、今実現することを期待している。バシャール・アサド大統領が中途半端な妥協で切り抜けようとするなら、決定的な過ちを犯すことになるだろう。既得権を持つグループとの全面対決なしに、真の改革は実現しない。しかし残念ながら、アサド大統領には、そのような改革を断行する意志も能力も欠けているようである。したがってアサド政権は劇的な破滅に向かうだろう。

それでもアサド政権にとって唯一の希望がある。それはイスラエル、ヨルダン、サウジアラビアは現状維持を望んでおり、アラブの国で劇的な政変が起きるのを警戒していることだ。エジプトで革命が起きた時、これらの国は米国にムバラク政権を守るよう圧力をかけた。これが失敗に終わると、これらの国は「他の国おいて連鎖反応が起きないよう手を打ってくれ」と米国に願った。クリントン国務長官が「アサド大統領は改革派だ」と発言したのは、3国の要望に沿った結果である。

シリアと対立していた中東の国も、アサド政権の転覆を考えておらず、現状維持を望んでいた。ただしイスラエルはそうではないかもしれない。

アサド政権の外交政策を支持していたはずの国民は、現在政権を脅かしており、アサド政権が敵と考えてきた米国と親米アラブ諸国はアサド政権の安定を願っている。

===================(BitterLemons終了)

 

米国とシリアはハフェズ・アサドの時代から敵対関係にあり、2003年以後米国は民衆反乱によりアサド政権を転覆させる機会をうかがってきた。ところが2011327日クリントン国務長官はアサド大統領を称賛する発言をした。「シリアを訪問した(米国の)議員たちの話によれば、アサド大統領は改革者である」。この時期ダラアの反乱は収拾不可能なまでに悪化しており、アサド政権の転覆をうかがう米国にとって、ついにチャンスが来たのである。もちろダラアの反乱だけて政権が倒れることはないが、よい兆候である。ダラアで起きたことがホムスでも起き、徐々に他の都市に広がっていけば、アサド政権は危機に陥る。

アサド政権を応援する発言をしたクリントン国務長官は米国内で厳しく批判され、すぐに発言を修正した。「あの発言は議員の考えを伝えただけで、国務省の見解ではなく、私の考えではない。

シリアを敵国と考える米国の立場と矛盾する発言をしたクリントン長官の真意は謎である。民衆デモによりエジプトで政変が起きたことは、サウジアラビアやヨルダンを動揺させたようである。明日は我が身か、と震え上がり、アラブの反乱の火消しを米国に頼み、それに答えてクリントン長官はシリアで燃えかかった火を消そうとしたのかもしれない。しかしそれは米国の長年の方針に反することだった。

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民主化革命は欧米の利益のための国家破壊

2018-05-31 21:25:28 | シリア内戦

 

革命においては穏健派と過激派に分裂することが多い。シリア革命の場合2013年以後この分裂が顕著になった。反乱軍は3つに色分けできた。過激派はヌスラ戦線とイスラム国であり、中間にイスラム主義諸グループがおり、穏健派として自由シリア軍が存在した。

革命の最初期20114月ー5月は武力革命の時期ではなく、反対派のほとんどが穏健派だった。しかしこの時期にも過激派は存在した。穏健派の中にひとにぎりの過激なグループが紛れ込んでいた。彼らの存在を指摘するのはシリア国営放送だけだったので、政府による虚偽のプロパガンダかもしれなかった。しかし一部のジャーナリストが、警察官と兵士の死が多い点に着目し、死亡兵士の名簿を調べた。兵士の死亡についての政府発表は事実だった。これと関連し、デモ隊の中に、あるいは大集団から少し離れた場所に銃を持ったグループがいたとする証言が多数あり、警察官と兵士は彼らの銃撃により死んだことはほぼ間違いない。

第2次大戦末期のロシア革命の発端となった血の日曜日事件では、死亡したのはデモ行進をしていた市民だけであり、兵士は一人も死んでいない。シリアの最初期のデモは血の日曜日事件のイメージで理解されているが、それは誤りである。

20114月ー5月、デモに参加したほとんどの市民の頭の中には武力革命という発想がなく、平和的な政治改革を求めていたが、少数の過激派が存在した。彼らは最初から政権転覆を目的としており、中途半端な改革で妥協するつもりはなかった。彼らの存在がなければ、政権は内戦を避けることができたかもしれない。しかし少数であっても武器を持つグループがいる場合、平和的改革による決着は困難だった。国内の治安に責任がある秘密警察は政権の転覆を目標としているグループの存在に気づいており、国家は危険な状態にある、と感じていた。秘密警察は政権転覆をめざすグループを相手にして死闘を繰り広げていたが、ほとんどのデモ参加者はこれに気付かなかった。とは言え、デモのたびに死者が出た。市民だけでなく、警官・兵士からも死者が出た。シリアのデモには最初から陰惨な側面があり、平和的解決の困難さを物語っていた。

 

平和的な革命が成功しそうもない場合、武装グループを投入する例はいくつもある。ソ連崩壊時のルーマニア、2003年のロシア、2010年のタイとキルギスタン、そして2011のチュニジア、リビアである。シリアの場合もこれに属する。これらの武装グループは例外なく欧米の情報機関であるか、その援助を受けている。

1989年の東欧民主化の中で、ルーマニアでも革命が起きた。同年年12月、チャウシェスク政権が倒れた。東欧諸国の民主化はほぼ平和革命だったが、ルーマニアの場合少し暴力的であり、チャウシェスク書記長は処刑された。この際、西側の情報機関が暗躍した。ルーマニア革命を指導した手法について、欧米の情報機関がみずから語っている。

 

===《正体不明のスナイパーと欧米による体制転換》==

Unknown Snipers and Western backed “Regime Change”

    A Historical Review and Analysis

 <http://www.globalresearch.ca/unknown-snipers-and-western-backed-regime-change/27904>

    By Gearóid Ó Colmáin

         Global Research   2011年1128

 

フランスとドイツが共同で経営するテレビ局(Arte)が放送した「革命の方法(Checkmate: Strategy of a Revolution)」という番組の中で、フランスなどの情報機関の将校がチャウシェスク政権を倒した経緯を明らかにした。彼らは暗殺部隊を使用したと語っている。

このドキュメンタリーを見れば、欧米の情報機関・人権団体・メディアディアが大衆の不満を利用し国家を破壊する方法がわかる。そのやり方は計画的で組織的である。

フランスの元スパイがルーマニア革命における欧米の役割について語った。

「革命を始めるための第一歩はその国の反対派についてよく理解することだ。有能なスパイ組織であれば、国民に影響力がある団体を特定ことは容易だ。この団体が社会に混乱を引き起こせば、政権は不安定になる」。

元スパイがルーマニアへの干渉を隠そうとしないのは、革命はルーマニア国民に幸福をもたらすと信じているからだ。ルーマニア人の革命指導者も同じように考えている。

「自由な市場に基づく資本主義はルーマニアを豊かにするだろう。死者が出たが、やむを得ない犠牲だ」。

20年後の現在(2011年)、期待は裏切られ、ルーマニアはヨーロッパで最も貧しい国にとどまっている。大部分のルーマニア国民にとって、革命後の20年間は貧困が悪化した時代となっており、「チャウシェスク時代はよかった」という声が聞かれる。

ルーマニア革命に欧米の情報機関が関与したことについて、フランスのル・モンド紙は「民主主義への移行のための革命」に疑問を投げかけた。

 

       〈ロシア 1993年〉

199310月、新憲法制定をめぐってエリツィン大統領と、ハズブラートフ最高会議議長・ルツコイ副大統領などの議会派勢力が対立した。議会派は国会議事堂を占拠した。エリツィンの命令により、戦車が国会議事堂を砲撃した。ロシア政府は死者187人と発表したが、実際には2000人以上が死亡した。国会議事堂に対する本格的な攻撃の前から、多くの市民が死んでいた。国会議事堂の周囲には、議会派を支援する市民が集まっており、彼らは近くの建物の屋上のスナイパーによって狙撃され、死傷した。米国大使館付近にもスナイパーがいた。スナイパーからの銃撃を避けるため、彼らは国会議事堂に逃げ込んだ。その後国会議事堂に対する攻撃が始まった。最初は重機関銃による連射があり、続いて戦闘ヘリと戦車による砲撃が始まった。

議会派を攻撃したのはエリツィンの部隊ではあるが、外国の部隊も参加している。攻撃側がイディッシュ語で無線連絡していた。(イディッシュ語はユダヤ人が話すドイツ語である)。セルビアの作家ドラゴス・カラジッチは「米国とエリツィン政権が国民を代表する議会と市民を武力攻撃した」と書いている。

「欧米の指導者は民主主義の理想を掲げながら、平然と他国の市民を虐殺する。CIAの中佐が傭兵部隊を指揮し、イスラエルの狙撃師団のスナイパーが補助部隊となり、国会議事堂に結集したロシア国民を殺害した」。

国会議事堂の攻撃終了後、多くの議会派が処刑された。彼らは国会議事堂を防衛していたコサック、民兵、ロシア軍将校であり、壁際に立たされて銃殺された。奇跡的に絶命しなかった者が6名いて、老婆が彼らを自分のアパートに運び、手当てをした。

1997年セルビアで民主化運動が起きたが、作家ドラゴス・カラジッチは民主化運動の実態を知っていたので、民主化運動には参加しなかった。

 

        〈2011年 チュニジア〉

20111CNNが伝えた。「16日、武装グループが治安部隊と交戦している」。チュニジアの反乱で死亡した市民のほとんどは、正体不明のスナイパーに狙撃されて死んだ。狙撃用ライフルを持ったスェーデン人数名がチュニジアの治安部隊によって逮捕された。ロシア・トゥデイがこの映像を放映している。チュニジア・エジプト・リビアの革命は純粋に国内的で自発的な民主化運動ではなく、米国が計画し、指導した革命である。

1月から2月にかけてチュニジアで起きたことを見れば、英国・フランス・米国の大使館と情報機関がベン・アリ政権を倒すために計画した陰謀であることがわかる。

ベン・アリは欧米と友好的な関係にあったため、多くの人は欧米による陰謀に気付かなかった。国際政治の専門家チュスドフスキーなどが指摘していたにもかかわらず、多くの人が理解できなかった。

 

        〈2011年 シリア〉

シリアでは3月にデモが始まったが、武装グループとスナイパーが大きな役割を果たした。数百人の兵士・治安部隊員がイスラム主義者とムスリム同胞団によって殺害され、拷問され、身体を切断された。4月私はハマを訪問した。ハマは美しい町である。市民の話によると、以前は平和な町だったが、最近武装グループが街路を歩き回っており、住民はこわがっている、という。果物店の店主は暴力事件を目撃した、と私に語った。ハマに滞在中シリアのテレビを見た。ニュース番組で、ワシントン・ポストの記事を紹介していた。記事の表題は「CIAが反対派を支援」というものだった。CIAの支援とは、軍事訓練と資金を与えることだ。それは米国の利益のためだ。

数日後私は文化的な古都アレッポに行った。複数のホテルを経営するビジネスマンに話を聞くと、彼はアサド大統領を支持している、ということだった。彼はいつもアル・ジャジーラTVを見ているが、最近その報道内容に疑問を持つようになった、という。「兵士がデモををする市民をなぐったり、拷問したりして知る映像を見ると、あんなことをしてはいけないと思う。ただし、映像は偽物かもしれない。自分には判断できない」。

彼の言うように、政府軍兵士の犯行とされている残虐行為の犯人は武装グループかもしれない。ハマで起きたことだがが、切断された死体が川に投げ捨てられた。誰の犯行か、解明は難しい。

ところでアサドを支持する多くの市民が国営放送に洗脳されているわけではない。シリアの人々はインターネットにアクセスできるし、西側の衛星放送を見ることができる。アル・ジャジーラだけでなく、BBCCNNなどの国際放送を見ていいる。またニューヨーク・タイムズやル・モンドをネットで読んで読むことができる。

ハマとアレッポで、人々の話を聞いた限りでは、大部分の市民が政権を支持しているようだ。

==============(Global Research 終了)

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兵士9人が死亡 バニアス 2011年4月10日

2018-05-15 22:42:03 | シリア内戦

 

  

シリアの北西部は地中海に面している。この地域はアラィ派住民が多数を占めており、アサド政権にとって信頼できる支持基盤となっている。しかしこの地域の中心的な都市にはスンニ派も居住している。ラタキアとバニアスの住民の約半分がスンニ派である。ラタキアとバニアスでは、シリアで最も早くデモが起きている。地中海岸の北部にラタキアがあり、南部にタルトゥスがある。その中間に小さな港町バニアスがある。

ラタキアとバニアスでは早い時期にデモが始まっていたが、デモ参加者があまり多くなく、欧米のメディアが取り上げることはなかった。しかし2011年4月10日バニアスでシリア軍兵士9名が死亡し、いくつかのメディアがこれを報じた。死亡した市民は4名であり、市民の死よりも兵士の死のほうが多い、驚くべき結果になっている。

 

======《命令を拒否した兵士が射殺される》====

  Syrian soldiers shot for refusing to fire on protesters

            <https://www.theguardian.com/world/2011/apr/12/syrian-soldiers-shot-protest>

         Guardian 2011年4月12日

     〈4月10日〉

バニアスでは治安部隊がデモを容赦なく鎮圧している。そうした中、デモをする市民に発砲することを拒否した兵士が、治安部隊によって射殺された。

でもまだysマダヤ村出身の召集兵ムラド・ヘジョも治安部隊のスナイパーによって射殺された。彼の家族は「ムラドは市民に発砲することを拒否した」と述べている。

YouTubeに投稿された動画の中で、負傷した兵士が「治安部隊が私の背中を撃った」と語っている。

市民に対する発砲を拒否したために治安部隊によって射殺された別の兵士ムハンマド・クンバルの葬儀の映像も投稿されている。

命令拒否は離反の前兆であり、アサド政権にとって深刻な問題である。

バニアスでの兵士の死について、シリア国営テレビは異なった説明をしている。「武装グループが兵士たちを待ち伏せ、発砲した。9人の兵士が死亡した」。

バニアスの人権活動家たちも「兵士の死傷は必ずしも治安部隊の発砲によるものではない」と認めている。バニアスの人権活動家ワシム・タリフは次のように述べた。「市民の中に武器を持った者がいて、彼らは自衛のため発砲した

、という報告がある。我々はこの件を調べるつもりだ」。

この日(4月10日)、バニアスのデモで少なくとも4人の市民が死亡した。

バニアスではパンが不足し、電気と通信も途切れがちである、と住民が話している。

同日バニアスに近い2つの村で暴力事件が起きた。反対派の指導的な人物によれば、政権支持派の武装グループが村を襲撃した。AP通信によれば2つの村を襲ったグループは自動小銃を使用したという。2つの村名前は Bayda とBeit Jnadである。

最近バニアスとラタキアでは暴力事件がしばしば発生している。政府支持派の武装グループや私兵が活動している、と地元の住民が話している。「4月10日、乗用車に乗ったシャビーハ(政府の私兵)が銃撃した。その車にはアサド大統領が張り付けられていた。

 

        〈4月12日〉

2日後(4月12日)の夜、バニアスは騒乱状態となり、外部との通信が完全に切断された。治安部隊はバニアスの近くの村バイダをくまなく掃討した。目撃者によれば、治安部隊に武装グループが加わり、両者は無差別に機関銃を撃っている。バイダ村は徹底的に攻撃された。

=====================(ガーディアン終了)

 

9名兵士の死について米国オクラホマ大学のヨシュア・ランディスが詳しく書いている。兵士たちは命令に従わなかったため射殺されたという説に、彼は反論している。

 

=====《9人の兵士を射殺したのはだれか》=====

Western Press Misled – Who Shot the Nine Soldiers in Banyas? Not Syrian Security Forces

 <http://www.joshualandis.com/blog/western-press-misled-who-shot-the-nine-soldiers-in-banyas-not-syrian-security-forces/

       ヨシュア・ランディス   2011年4月13日

4月10日、バニアスで9名の兵士が死亡した。死亡した兵士は市民への銃撃命令を拒否し、治安部隊によって射殺されたと報道されている。これが事実でない証拠が複数ある。欧米のメディアは誤った報道をしている。

今朝私の妻がシリア軍の中佐から話を聞いた。

    〈ウダイ・アフマド中佐の証言〉

ウダイ・アフマド中佐の義兄弟は4月10日に死亡した将兵の一人である。死亡した義兄弟はヤスル・カシウル少佐である。軍のトラックがバニアスに向かう幹線道路を走っていると、突然襲撃された。カシウル少佐はトラックを運転しており、アフマド中佐は後部座席に座っていた。襲撃された時の状況をアフマド中佐が語った。

「トラックは2方向から銃撃をうけた。道路に面した建物の屋上から銃撃され、同時に道路の中央分離帯のコンクリートに隠れていた連中が銃撃してきた。2台の軍用車が銃撃され、9名が死亡した。私の義兄弟のヤスル・カシウル少佐も死亡した」。

シリア国営テレビが銃撃の場面の映像を放送している。市民への発砲を拒否した兵士が射殺されたという話は完全な誤りである。命令を拒否した兵士が証言するYouTubeビデオがあり、ガーディアンが紹介している。

Footage on YouTube shows an injured soldier

兵士は「治安部隊によって背中を撃たれた」と語っている、というガーディアンの説明は誤りである。このビデオの中で、兵士は「市民に対し発砲しろと命令されていない」と言っている。この兵士は「治安回復の目的でバニアスに向かっていた」と言っている。政府軍やその手先によって撃たれた、とは言っていない。彼はそのようなことを否定している。質問者は答えを誘導しようとしているが、兵士は質問者が引き出そうとする話を否定している。数人がこの負傷した兵士を取り囲んで、上官によって撃たれたという告白を引き出そうとしているが、失敗に終わっている。そして負傷した兵士は次のように言った。「銃撃され場合にのみ発砲しろ、と命令された」。負傷した兵士を取り囲んでいるのは反対派のようである。彼らの一人が兵士に質問した。「我々に向けて発砲するのを拒否したら、どうなる?」市民を撃てとは命令されていないと言ったばかりなのに、そう質問された兵士は答えようがないようだ。「我々は市民に発砲していない。橋のところで、我々は銃撃された。あらゆる方向から銃撃された」。

 

  〈イタリアの有力紙の2人の記者の観察〉

イタリアの有力紙レプブリカのベテラン記者( Alix Van Buren)

が私に報告してきた。彼は現在ダマスカスにいる。

「現在シリアで起きていることは非常に複雑だ。ネットで事実を知るのは困難だ。シリアには外国の記者がいないので、何が起きているのか、さっぱりわからない。外国の介入という重大な問題について、私はある情報を得た。尊敬されている反対派の人物が次のように語った。

『4月10日、元副大統領カッダム(Khaddam)の側近2人がバニアスで逮捕された。2人は武器と資金を配り、シリアに混乱を起こそうとしていたようだ。外国の陰謀グループが存在し、活動している、と確信している反対派もいる』」。

 

レプブリカ紙のもう一人の記者ヘイサン・マレーは「カッダム元副大統領の配下の者たちがバニアスで暗躍している」と断言している。また同記者はリファト・アサドに忠実な、ならず者たちにも言及している。リファト・アサドは現大統領の叔父であるが、サウジアラビアと親密な関係にある。彼の妻とサウジアラビアのアブドラ国王の妻は姉妹である。ヘイサン・マレーによれば、リファト・アサド配下のならず者たちがタルトゥスからラタキアに至る地中海沿岸で活動している。

 

   〈バニアスの著名な反対派の意見〉

シリアのキリスト教徒で作家のマイケル・キロ(Michel Kilo)は外国の陰謀を認めながらも、それよりも民主主義への移行が先決事項であると考えている。

カッダム元副大統領はアサド政権と敵対しているが、反対派からは批判されている。バニアス出身のアブ・エルケルもカッダムを嫌う一人である。多くの人がアブ・エルケルのブログを読んでいる。彼は現在獄中にいる。2度目の逮捕であり、最初の逮捕は数週間前である。彼はバニアスで著名な反対派であり、バニアスの最初のデモは彼の釈放を要求するものであった。逮捕される前、彼はFaceBookでカッダム元副大統領を厳しく批判した。賛成のコメントがいくつも寄せられた。コメントの一つはカッダム元副大統領を呪い、「カッダムは無実な人たちの死に責任がある」と書いている。

 

    〈アラビア語のメディアが伝えること〉

シリアで起きていることについて、アラビア語のメディアには興味深い記事がいくつもあるが、欧米のメディアがこれらの記事に注目することはない。例えばワタン紙がシリアの作家ヘイサン・マンナ(Haytham Manna)について書いている。

「多くの人がマンナに接触してきた。その中に、シリア人実業家でありながら、外国のパスポートを持つ人物がいた。この人物はマンナに言った。「現在デモをしている若者たちに資金と武器を配布したいので、仲介してくれ」。

マンナに接触してきた人物には湾岸の大国の人間もいる、とワタン紙はほのめかしている。ヘイサン・マンナはダラア出身の作家であり、外国がダラアの若者たちに武器と資金を渡したがっていたことになる。ダラアはシリアで最初に大きなデモが起きた都市であり、現在も抗議する市民と治安部隊の間で激しい衝突が起きている。ワタン紙が書いているマンナの発言が事実なら、意味することは重大である。

またヘイサン・マンナは故郷ダラアでデモをしている人々に「絶対に武器と資金を受け取ってはならない」と助言したと言われている。

================(ヨシュア・ランディス終了)

外国によるシリアの反対派への武器・資金援助2012年以後大規模になり、公然の秘密となった。2011年の武器・資金援助はかなり小規模であり、事実を突き止めるのは困難である。上記ヨシュア・ランディスの記事は2011年の武器・資金援助についての、数少ない証言を明らかにしている。

軍用トラックが襲撃され9名の兵士が死亡した事件の背後には、カッダム元副大統領がいるようである。カッダム元副大統領はハフェズ・アサド政権において大統領に次ぐ実力者となった。彼はスンニ派であり、自分の能力により政権のナンバー2にまでのぼりつめた。カッダムはハフェズ・アサドの死後短期間、臨時大統領に就任した。2011年彼は反対派の大物となり、シリア軍から離脱した将校たちの世話をした。カッダム元副大統領はバニアスの出身であり、地中海沿岸部のデモの過激化に責任があるようだ。2011年3月ー4月シリアでデモをする人々の多くは暴力革命をするつもりがなく、カッダム元副大統領配下のグループに批判的だった。デモをする一般の市民にとって、カッダム元副大統領は政権側の人間であり、仲間ではなかった。

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キリスト教の司祭ファン・デル・ルフトの証言

2018-05-06 22:36:39 | シリア内戦

2011年4月13日に放送されたシリア国営テレビの内容を、アルジャジーラTVが紹介している。

====《Violence continues across Syria》=====

                      YouTube  Al Jazeera   2011/04/13

              <https://www.youtube.com/watch?v=Gwle0-pP7r4>

 

シリア国営放送によれば、デモの際に死傷者が多かった主な原因はムスリム同胞団による銃撃である。その証拠として、レバノンのムスリム同胞団から命令を受けた人物が国営テレビに登場し、告白した。彼は銃を与えられ、シリアに戻った経緯を語った。

「民主化を求めてデモをする市民と大統領支持派の若者の両方を射撃しろ、と私は命令された。私はデモが行われている場所に到着したが、私は同胞を殺傷することはできないと感じ、引き金を引くことができなかった」。

もう一人登場し、彼も「ムスリム同胞団に責任がある」と語った。「『デモは十分におこなわれている、もっと劇的な混乱を引き起こすす必要がある』と私は言われた。具体的に何をすればよいのか、と私が質問すると、彼は答えた。『武器を手に入れるのだ。銃やRPG(自動推進手りゅう弾)、そして戦車だ』。恐ろしい話をされ、私は自分の耳を疑った。すると『心配するな。多くの市民がデモに参加している』と言われた」。

2人の証言にとどまらず、シリア国営テレビはさらに続けた。

「レバノンの国会議員も武装グループを支援している」と述べ、別の人物がテレビに登場し、証言した。レバノン政府はこれを否定している。「我が国はシリアに干渉するだけの力はない。そもそもそのようなことを考えていない」。

=================(アル・ジャジーラ終了)

最初の証言者の話の終わりに、小銃とピストルの映像があるが、それらがどのような状況で発見され、押収されたのかについては何も語られていない。

2011年3月-4月、国外からシリアに持ち込まれた武器の量は限定的であり、それらの武器の大部分はレバノンの闇市場で購入されたものである。シリアでデモが始まる少し前からレバノンの闇市場ではライフルやRPGが飛ぶように売れていた、とレバノンの闇商人が語っている。資金がなければ武器を買えない。資金を持っていたのはムスリム同胞団などの組織力があるグループである。カタールはアラブ諸国のムスリム同胞団を支援しており、カタールによるシリアのムスリム同胞団への資金援助は2011年の春に始まっていた可能性が高い。

2011年3月23日政府軍がダラアのモスクを掃討した。作戦終了後、モスクに保管されていたライフル、手りゅう弾、現金(紙幣)が発見された。シリア国営放送はこれらの映像を公開した。シリアで最初に2千人を超えるデモが起きたのは、2011年3月18日のダラアにおいてである。シリアの最初のデモの5日後に、反対派の拠点に武器が保管されていることが判明した。

ダラアに続き、ホムスでも大きなデモが起きるようになる。ホムスにおいても、デモの最初から武装グループが存在した。これについては、オランダ人神父の証言がある。

シリアは神父の故郷である。彼はオランダで生まれたが、シリアでの生活のほうが長い。キリスト教イエズス会のファン・デル・ルフト神父は、シリアに50年住んでおり、ホムスでデモが始まった時、彼はホムスに住んでいた。神父は「最初のデモの時から、民衆の中に、武器を持た人間がいた」と書いている。ルフト神父は2012年1月にオランダのネットに投稿した。その英訳があるので、紹介する。

======《ファン・デル・ルフト神父の手紙》===

Father Frans on the Syrian Rebellion: The “Protestors” Shot First

         Posted by John Rosenthal

<http://www.trans-int.com/wordpress/index.php/2014/04/14/father-frans-on-the-syrian-rebellion-the-protestors-shot-first/>

多くのシリア人が現在の政権の下での改革に期待している。現政権に取って代ろうとする人々が民主的な政治をおこなうとは、とうてい思えない。多くのシリア国民は反乱を支持していない。カタールの国民でさえ、シリアの反乱を支持していない。現在シリアで起きていることは国民的な反乱ではない。大部分の国民は反乱に参加していない。現在の状況を正確に述べるなら、政権を奪取しようとするスンニ派武装グループが政府軍に戦いを挑んでいるのである。

最初から抗議運動は平和的とは言えなかった。最初のデモのとき、行進する人々の中に武器を持った人間がいるのを、私は見た。この連中が最初に発砲した。多くの場合デモ隊に紛れ込んでいた武装グループが最初に発砲したので、治安部隊が銃撃により対応した。

政権がアラウィ派とスンニ派の対立をあおっているか、他地域については、わからない。しかしホムスにおいては、政権はそのようなことをしていない。むしろ政府軍は両者の血なまぐさい闘争を抑止する役割を果たしている。政府軍がホムスから去ってしまうなら、内戦が始まるだろう。

バシャール・アサド大統領はキリスト教徒の代表者たちに支援を求めたことはない。キリスト教徒の多くが彼を支持しているのは、彼の政権が倒れるなら最悪の事態になると予測するからである。

   Father Frans van der Lugt

           Homs, 13 January 2012 

==============(ルフト神父の手紙終了)

ルフト神父は自分の目で観察したホムスの状況を語っており、貴重な証言となっている。国民の10%を占めるキリスト教徒にとって、イスラム原理主義政権の誕生は最悪であり、現政権以外の選択はない。国民の74%を占めるスンニ派の大部分にとってもイスラム原理主義は新奇で窮屈であり、望ましくない。イスラム原理主義政権は最初は嫌われるかもしれないが、彼らが清廉潔白で有能であれば、徐々に受け入れられる可能性はある。何割かの国民が現政権に不満だったのは、政権の腐敗と過酷な政治的弾圧が重なったからである。イスラム原理主義政権が国民に受け入れられる可能性は皆無ではないが、10%のキリスト教徒と16%を占めるアラウィ派やドゥルーズ派などからは拒否されるだろう。また国民の74%がスンニ派が戸いっても、その中の8%はクルド人であり、彼らの独立傾向は変わらない。イスラム原理主義政権の支持母体となるスンニ派アラブ人は66%でしかない。34%は非国民・異国民となる。また66%のスンニ派アラブ人はイスラム教の熱心な信奉者ではなく、部族社会の一員であるという意識が強い。200年後半、水不足により農業を捨て、都会に流れた農民は血縁・地縁により就職した。非正規・低賃金だったが、ともかく生き延びることができたのは、血縁・地縁によってたすけられたからである。

これまでの中央政権は部族の存在を認めて、地域の部族と交渉しながら統治してきた。従ってスンニ派アラブ人の大部分は部族の利害を優先して新政権に立ち向かうだろう。

2014年4月7日、ルフト神父は覆面の男に射殺された。

日本のイエズス会が追悼文を寄せている。

==《シリアのホムスで殺害されたイエズス会司祭》==

                                         2014年5月20日

ルフト神父は、2年にわたる政府軍による包囲によって頻繁な砲撃や必需品の不足などが続く旧市街にとどまり、反体制派掌握地域の住民との連帯を生涯かけて実践しました。ファン・デル・ルフト神父は今年2月、AFPの取材に対し、50年近く暮らしてきたシリアは自分にとって故郷のようなものだと語っています。同神父は、レバノンで2年間アラビア語を学んだ後、1966年にシリアに移住。イエズス会の修道院でキリスト教信者を率い、貧しい家庭には、イスラム教徒でもキリスト教徒でも分け隔てなく支援を行っていました。

2014年2月のインタビューでは次のように語っていました。「私はシリアの人々から寛容を学んできました。彼らが今苦しんでいるなら、ともに連帯したいのです。よいときを共にしたように、痛みにおいても共にいるのです」。

================(日本イエズス会終了)

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正体不明のスナイパーの映像 ダラア 2011年4月8日

2018-04-27 19:57:29 | シリア内戦

4月8日シリア南部の都市ダラアのデモで市民27人が死亡した。ダラアでは3月23日以来の多数の犠牲者数となった。3月23日のモスクの攻防戦では、15人が死亡している。

========《ダラアで27人死亡》=======

  Protesters killed in southern Syria

           Al Jazeera      2011年4月9日

4月8日シリア南部の都市ダラアでデモがあり、27人以上の市民が死亡した。

金曜礼拝の終了後、モスクを出た人々はデモ行進を開始した。最初のデモから20日経過しているが、デモ参加者の人数は減る様子もない。

デモの目撃者がアル・ジャジーラに次のように語った。「治安部隊はデモを解散させるため、ゴム弾を発射したが、途中から実弾に変えた」。

ネットに投稿されているビデオにより、負傷者がダラアのオマリ・モスクで治療を受けたことがわかる。

シリア国営テレビはダラアの市民の報告と異なる内容を伝えた。「武装グループの銃撃により、警官と治安部隊員19名が死亡し、75人が負傷した」。

===============(アル・ジャジーラ終了)

ダラアの市民がアル・ジャジーラに報告した内容と、シリア国営放送内容は隔たりが大きい。市民の死者が多いだけでなく、警官・治安部隊の死者が多いことに驚かされる。

4月8日のダラアについて、CNNもアル・ジャジーラとほぼ同一の内容を伝えているが、シリア国営テレビの報道について次のように紹介している。

「ダラアの治安部隊は実弾の使用を禁じられている。デモをしていた民衆が警官隊に石を投げつけたり、タイヤ・施設・車に火をつけた。これに対し、警官隊は催涙弾を使用した」。

中央政府はデモの取り締まりにおいて死者を出さない方針であるようだが、結果的に市民と治安部隊の双方から多数の死者が出た。そして市民を銃撃したのは誰かについて意見は分かれており、警官・治安部隊を銃撃したのは誰か、は謎である。

正体不明の武装グループはこれまでたびたび言及されてきたが、今回初めて彼らの姿が公開された。アルジャジーラTVの特集番組が4月8日のダラアを取り上げており、乗用車に乗ったスナイパーが撮影されている。

 ========《YouTube  4月11日投稿 Al Jazeera》=====================

      Inside Story: Conspiracy over Syria protests

  <https://www.youtube.com/watch?v=sv9D70XO6Uo&t=501s>

 (注)モスクの近くに多数の市民が集まっている映像はなく、少し離れた場所で少数の市民がタイヤを燃やしている場面から、ビデオが始まってる。

 

 

 

 

 

 

間もなく、治安部隊が催涙弾をうち込んだ。

 その後、機関銃の連射音が聞こえ、白い乗用車に乗った人物が自動小銃を撃っている。

乗用車の中から自動小銃を撃っている映像はシリア国営テレビからの借用であり、国営テレビによれば、このスナイパーは政権転覆を計画するテロリストである。

==============(アルジャジーラ終了)

アルジャジーラTVは2日後の4月13日に再び、4月8日のダラアについて報道している。

===========================

YouTube  Violence continues across Syria Al Jazeera   2011/04/13

       <https://www.youtube.com/watch?v=Gwle0-pP7r4>

 

倒れて身動きしない市民のところに、警官たちがやってきた。警官は倒れている市民を警棒で殴ってから運んで行った。負傷者の生死を心配する様子はなく、いきなり一発殴ったのである。反応がないのを確かめてから、運び去った。冷酷な対応である。市民が倒れていた場所は、最初に市民が集まったモスクから離れた場所のようだ。

===============(4月13日投稿アル・ジャジーラ終了)

4月8日のダラアのデモについては、AP通信の映像もある。これもモスクの近くに集まった多数の民衆の民衆の映像ではなく、町の郊外で少数の若者がタイヤを燃やす場面である。そしてこの映像には、別のスナイパーが登場する。茂みに隠れ、数人の若者がピストルを撃っている。

=====《正体不明の銃撃者たちの映像》==========

      YouTube   Unknown Gunmen Filmed at Syria Demo    2011/04/08

        <https://www.youtube.com/watch?v=zJYKLb72Y1k>

 

 次の場面で、ダラアのモスクに集まっていたいた民衆が郊外に向かい始めたことがわかる。

 次の場面で、銃撃グループが登場する。

=================(AP終了)

 アル・ジャジーラの映像の場所とAPの映像の場所の位置関係が分かる写真がある。 

 

アル・ジャジーラの映像の場所は橋の近くであり、町と郊外の境界地点である。APの映像の場所は郊外であり、周囲には木立がある。

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ドゥーマ:正体不明のスナイパー 2011年4月1日

2018-04-19 22:06:30 | シリア内戦

2011年以来シリアで起きたことを客観的に叙述することは難しい。しばしば同一の出来事について2種類の相反する説明があり、どちらを信じればよいのかわからない。シリア内戦について政権側と反対派はそれぞれ自分たちの説明を続ける。彼らは真実を語るより、宣伝を重視している。 両者の話を聞く者にとって、どちらが真実を語っているか、見極めるのは難しい。

政権と反対派はシリアで戦っていながら、互いに別世界に住んでいるかのようであり、彼らの話は互いに別世界で起きたことを語っているかのようである。

できれば真実に突き当たればよいと思うが、ともかく2種類の違いを浮き彫りにするという姿勢で、2011年4月のシリアについて書いてみたい。2011年3月のシリアについては、2016年7月ー2017年4月に連続シリーズで書いた。

 

======《シリア:少なくとも10名死亡》=======

      At least 10 killed in Syria

<http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4050879,00.html

             Ynet news          2011年4月1日

4月1日シリア各地でデモがあり、治安部隊の発砲により10名死亡した。

ダマスカスの北東に位置するドゥーマだけで8名死んだ。南部の都市ダラアの近くで1名死んだ。

これ以外にもいくつかの都市で、アサド政権に反対する抗議集会があった。どの都市でもデモの参加者は数千人に達した。治安部隊の規制により数十人が負傷したが、秩序はおおむね保たれた。

政府関係者の話によると、ドゥーマとホムスにおいて武装グループが市民と治安部隊に向けて銃撃した。ホムス市内のバイヤーダ地区では、武装グループが市民に発砲し、少女が死亡した。(シリア国営放送)

活動家の話によると、金曜礼拝の後、国民が街頭に集まり、11年続いているバシャール・アサド大統領の統治に抗議した。デモがあったのは5か所である。

①ドゥーマ(ダマスカス郊外)

②ホムス

③バニアス(海岸部)

④ラタキア港

⑤ダラア(南部)

ドゥーマのデモを目撃した人の話によれば、2000人が市役所前の広場に集まり、「自由!シリア国民は一つ!」と斉唱した。警察は発砲しながら、デモを解散させた。

シリア国営放送は次のように述べた。

「改革を求めるデモがあったが、他方で『国民の団結と国家の安定』を推進する政府を支持する集会もあった。国内は平穏である」。

=========================(Ynet終了)

 

シリアの3大都市の中で、2011年の3月ー4月にデモが起きたのはホムスだけである。2012年にはホムス市の大半が反乱軍の占領地となった。ホムスはシリア革命の聖地と呼ばれたが、2013年7月政府軍がホムス市の奪回に成功し、この地の反乱軍はほぼ消滅した。ホムスの反乱はシリア革命の先駆けとなったが、短命だった。

北のトルコと南のヨルダンからの補給は充実しており、この2国に隣接する地域の反乱軍は強力だった。ホムスはレバノンから補給を得ており、レバノンからの補給は弱かった。レバノンは分裂しており、反乱軍の支援が不十分だった。レバノンの有力な勢力であるヒズボラはアサド政権を支援していた。

 

               《発砲したのは誰か》

4月1日、シリアの5カ所でデモがあったが、最も多くの死者が出たドゥーマについて、アル・ジャジーラは次のように書いている。

「4月1日、ダマスカスの郊外のドゥーマで、金曜礼拝の後、数千人の市民が街頭に集まり、政府に抗議した。2日前(3月30日)アサド大統領が改革を約束したが、ドゥーマの人々はこれを信じなかった。

治安部隊は催涙弾と警棒でデモを解散させようとしたが、効果なく、次に実弾を発射した。目撃者によれば、少なくとも4名の市民が死亡した。

しかしシリア国営テレビによれば、市民の死は治安部隊の発砲が原因ではない。建物の屋上に武装グループがおり、彼らは市民と治安部隊の双方を銃撃した。数人の市民が死亡したが、正確な人数は不明である。数十人が負傷した。負傷者には、数人の警察官が含まれる。

国営テレビは、海外メディア向けの偽の宣伝を批判した。

『デモの中に海外メディアを意識して行動した者がいる。衣服を赤く染めて、負傷したと偽る者がいた』。」

誰が発砲したのかについて、反対派の報告と国営テレビの放送が異なっている。

CNNが負傷したデモ参加者の証言を書いている。

「ドゥーマの中心に位置するモスクに数千人の市民が集まった。治安部隊は電気警棒・催涙弾・実弾で彼らを攻撃した。『私はこのように恐ろしい場面を見たことがない。治安部隊は少しのためらいもなく、群衆に向けて発砲した』と目撃者の一人が語った。彼自身も電気警棒で頭を殴られ、6人の死者と一緒に病院に運ばれた。病院には数十人の負傷者がおり、多くが重症者だった。

『6名が病院の死体安置所に運ばれるのを見た』と住民が語っている。ある市民は、頭をゴム弾で直撃された。数十人が負傷した。

一方シリア国営放送は次のように伝えた。『武装グループが治安部隊と市民の双方を銃撃した。デモ隊と治安部隊との衝突はなかった』。」

治安部隊が警棒と催涙弾・ゴム弾でデモを取り締まったのは確かである。最初から発砲したのではない。その後銃撃があり、死者が出るが、誰が銃撃したかについて、意見が分かれる。

4月1日ドゥーマ出起きたことについて、ガーディアンが興味深い情報を書いている。記事は事件の3日後に書かれており、情報収集に努めたようだ。

 

======《政権側のスナイパーが市民を射殺》=====

Syrian mourners say government snipers carried out massacre

https://www.theguardian.com/world/2011/apr/03/syria-demonstrations-douma-funerals

 

   by Katherine Marsh             Guardian    2011年4月3日

ダマスカスの北東13kmに位置するドゥーマでは、一週間前虐殺された市民を追悼するため、数千人が集まり政府に抗議した。

その後デモ隊は治安部隊と衝突し、銃撃により15人の市民が死亡した。最終的に死者の数は22人に達するかもしれない。100人が負傷し、そのうち20人はひん死の状態にある。スナイパーによって殺害された人々を埋葬しながら、追悼者たちは「アサド政権を倒せ!」と叫んだ。

ダマスカスの人権センターの所長ラドワン・ジアデは次のように言った。「治安部隊は平和なデモをする市民を意図的に殺害した」。

地元の目撃者たちがガーディアン紙に語った。「治安部隊が武装グループをバスに乗せて連れてきた。この武装グループが市民を攻撃した」。

ジャーナリストや外交官は現地に行くことを禁止されており、ダマスカスとの電話は切断されており、多方面から情報を得ることは困難である。

4月1日ドゥーマで市民が死亡したことについて、シリア国営放送はガーディアンに寄せられた情報と異なる見解を示している。

「市民が死傷したのは、治安部隊の責任ではない。建物の屋上にいた武装グループが市民と警官隊を銃撃したのである」。

ダマスカスの南方の町アル・テル(Al Tel)の住民はバース党員に威嚇された。「デモを繰り返すなら、スナイパーを配置するから、覚悟しろ」。

 国民の不満に直面したアサド大統領は3日前(3月29日)首相を解任したばかりである。元農業大臣のアデル・サファルが新首相に任命されたが、悪化する国内情勢は好転する兆しがない。4月1日シリア各地でデモが起き、ホムス、ダラア、ドゥーマでは市民が銃撃された。

シリア人権監視団は市民に対する発砲を非難した。「3月30日アサド大統領は市民が銃殺された事件を調査すると約束したが、その後も治安部隊は市民を殺害し続けている。大統領の約束は無意味だ」。

国連のバン・キムン事務総長は述べた。「シリアでは、これまで100人以上の市民が死亡しており、憂慮すべき事態だ」。

=====================(ガーディアン終了)

シリアのデモの最初期から、正体不明の銃撃グループが暗躍している。彼らが政権側なのか、反対派なのかを突き止めるのは難しい。しかしドゥーマ市民の証言は重要である。「治安部隊が武装グループをバスに乗せて連れてきた」。

またアル・テル住民がバース党員に威嚇されたという話も重要な証言である。「デモを繰り返すなら、スナイパーを配置するから、覚悟しろ」。

ダラアの場合も、「武装グループは治安部隊と連携している」と証言する兵士もいる。ただしシリアの混乱を深める目的で活動している武装グループが存在することも、ほぼ間違いない。4月1日のドゥーマの場合、市民を銃撃したのは政権側のスナイパーという印象が強いが、疑いの余地はある。

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シリア デモの最初期に武装グループが暗躍

2018-04-03 23:59:24 | シリア内戦

 

シリアのバース党政権は1963年以来続いており、ハフェズ・アサドの政権は1970年から2000年まで30年続いた。ハフェズ・アサド政権の末期には、バース党政権の腐敗に対する不満がうっ積していた。2000年にバシャール・アサドが大統領になった時、多くの国民が彼に期待した。彼は政治・軍事の経験がなく、英国で8年間生活しており、民主的な改革をしてくれるように見えたからである。しかし3-4年たっても目立った改革が行われず、国民は失望した。2005年には水面下で国民的な抗議運動が計画された。これ以後著名な反対派が政府批判を強め、それに呼応してデモもおこなわれるようになった。

しかしこれらの反対派はイスラム主義者ではなく、デモをする人々の中にもイスラム主義者はいなかった。2011年に始まったシリア革命の主役は彼らではない。2011年の春、シリアの大都市は平穏であり、革命を起こすのは困難そうに見えた。南部の小さな都市ダラアで比較的大きなデモが起きたが、これが革命の起爆剤になるとは思えなかった。ダラアはシリアの最南端にある田舎町であり、ここで大きなデモが起きたとしても、他の地域に影響を与える可能性は低かった。

政権は大事をとり、大統領特使をダラアに派遣し、事態の鎮静化を試みた。特使はダラア出身の閣僚であり、町の長老たちの要望を理解できる人物であった。事態は沈静化に向かいそうだったが、政府軍がダラアの中心部にあるモスクを攻撃した。これにダラアの反対派が怒り、政府軍と反対派の間で戦闘が始まった。

政府軍によるモスク掃討作戦はダラアの住民をなだめる方針に反し、静まりかけた状況に再び火をつけるものである。政府軍はなぜ敢えてそのようなことをしたか。答えは簡単である。ダラアのオマリ・モスクには武器が隠されており、ダラアの人間ではない革命グループがモスクを拠点としていたからである。モスクの革命グループの正体をよく知って、彼らの協力者となっていたダラア人もいたが、人数は少なかった。多くのダラア人反対派はモスクを単に政治的拠点と考えていた。

第4機甲師団が出動したにもかかわらず、モスクの掃討には10数時間要した。武器の扱いを知っている革命グループを支援したダラア人がいたことが、掃討作戦を困難にした。モスク掃討作戦は双方に死者を出したため、ダラアの反乱は後戻りができなくなり、悪化の道をたどった。流血を伴うダラアの反乱はシリア国内外で知られるようになり、シリアの他地域に影響を与え始めた。

モスクに武器があったことは、掃討作戦終了後政府が発表している。これだけでは証拠が不十分であるが、これ以外にも証言があり、ほぼ確実である。またダラアのモスクが非ダラア人革命家の拠点となっていたことも、しばしば言われている。

 ========《ダラア革命の背後にイスラム原理主義者》=============         

          Daraa 2011: Syrias Islamist Insurrection in Disguise

                       Tim Andeson  Globalresarch        2016年3月16日

    

ダラアでデモが始待ったのは2011年3月18日である。その一週間前の3月11日、シリアの東部国境でシリアに持ち込もうとした武器が発見された。武器・爆弾・暗視鏡を積んだトラックがイラクからシリアに入ろうとし、国境検問所で取り押さえられた。シリア国営放送は「シリアに武器が持ち込まれるなら、争乱と混乱を引き起こすことになる。国内秩序を脅かす危険が事前に摘発された」と伝えた。国営テレビの映像には、数十個の手りゅう弾、ピストル、機関銃、弾薬帯が映っていた。

武器を積んだトラックが発見された場所は東部国境最南部のタンフ検問所である。ここはその後の内戦において、ヨルダンから支援される南部の反対派の支配地となった。発見された武器は南部で用いられる予定であったことは明らかであり、南部の秘密警察は警戒を強めたと思われる。この時点で、政府批判をしたダラアの子供たちは拘置所の中にいる。ダラアの子供たちが落書きを書いたのは3月初めであり、3日後に逮捕された。少年たちが逮捕されて間もなく、タンフ検問所で武器が摘発されたことになる。少年たちが逮捕され、それに抗議するデモが発生したことは、陰謀家たちにとって都合がよい展開だったようだ。

3月11日の武器の密輸は発見されてしまったが、失敗に学び、その後巧妙な手段でシリア国内に武器が運び込まれた可能性がある。

サウジアラビアがダラアのモスクに武器を送った、とサウジの政府関係者(アンワル・エシュキ)が翌年認めた。

またサウジアラビアに亡命しているイスラム原理主義のシリア人聖職者(アドナン・アルール)は、自由主義的なアラウィ派政権に対する聖戦を呼び掛けた。「アラーの名において、我々はアラウィを肉ひき機で切り裂き、犬に与えるだろう。

シリア国内では「キリスト教徒はレバノンに追い払え!アラウィ派は墓場に!」というスローガンが叫ばれた。2011年5月という早い時期に北米のメディアがこれを報道している。その後ファルーク旅団はこのスローガンを実践した。ファルーク旅団は自由シリア軍に所属し、ホムスで活動するイスラム主義グループである。

 ============================(Tim Andeson 終了)

サウジアラビアの元軍人で、現在はジェッダの戦略研究センターの所長であるアンワル・エシュキは、BBCとのインタビューでダラアについて重要なことを語った。これは2012年4月に放送されたものらしいが、コピーがYouTubeに投稿されている。このコピー版では、エシュキは反対派にとって不都合ないくつかのことを不用心にも語っている。例えば次のように。

ダラアの反対派の男がエシュキのセンターに来て、武器援助を求めたという。またエシュキは「ダラアの反対派が「オマリ・モスクに武器を保管していた」と述べた。

エシュキはシリアの反対派によるゲリラ戦が有効であるという理論に夢中になって、反対派の正当性を破壊するようなことを暴露してしまっている。単純な人がポロリと事実を言ってくれるなら、歴史的な事件をありのままに叙述することが、どれほど容易になるだろう。特に内戦の場合、双方が自分の正当性を譲らないため、どちらの話を信ずればよいかわからない。客観的な事実が見えなくなってしまう。

かなりユニークなアンワル・エシュキの話は以下のようなものである。

≒=====《ダラア革命は最初から暴力革命》======

Syria - Daraa Revolution was Armed to the Teeth from the Very Beginning             

     https://youtu.be/FoGmrWWJ77w   YouTube/ Truth Syria

                      

政府軍と互角に戦う力がない場合でも、小さなグループに武器を与え、反乱を起こすことは可能である。リビアの反体制派は戦車重や火器を与えられた。こうした武器を与えることができない場合でも、反対派が政府軍の攻撃から身を守るため、彼らに最低限の武器を与える必要がある。そうすることで政府軍に徐々にダメージを与えることができる。政府軍を農村地帯におびき出し、引きずり回すことで、政府軍を弱らせる。

ところで昨年(2011年)実際にあった話をしよう。

負傷したダラアの人間が私のセンターに来た。彼と仲間はどうしても武器がほしいという。彼らは当時オマリ・モスクに武器を保管していた。盲目の導師は武装闘争に反対したが、彼らは押し切った。彼らは政府軍と武装闘争を開始したいという。

私は反対した。「私のセンターは他国の内政に干渉しない。君たちはシリアを出て、国外の反体制派グループに参加したほうがよい」。

「そのようなグループがあるのか」と彼は私に質問した。

私は答えた。

「トルコが支援し、統括しているグループだ。君たちが彼らに合流すれば、国家の保護を受けられる。トルコで新しい軍隊を組織し、シリアの現在の政府軍に取って代ることができる。米軍はイラク軍を解体したが、その後イラクは混乱した。国家の軍隊が一瞬のうちに消えたからだ。前もって新しい軍隊があれば、軍事的空白を避けることができる」。

その後しばらくして私はリヤド・アサドに電話をした。彼のグループは17000人になっているという。

ダラアの若者は私の助言を受け入れ、トルコへ行き、政府軍との闘争を開始した。彼の現在(2012年4月)の計画は、戦線を大都市から農村に移すことだ。ゲリラ戦は通常の戦争とは違う。戦場での決戦で全てが決まるわけではない。敵を不意打ちし、すぐに逃げるのだ。正規軍が反撃しようとしても、ゲリラ兵はどこかへ逃げてしまっている。現在シリアの反政府軍は正規軍と互角に戦う力はない。戦力の差は歴然としている。にもかかわらず、反政府軍はゲリラ戦術によって正規軍を弱らせることができる。

====================(エンキの話終了)

反対派がモスクに武器を保管していたいた事実を、エシュキがいつ知ったのかはわからない。彼の事務所に武器の援助を求めに来た人物から聞いたのか、それ以前に知っていたのか、エシュキは語っていない。政府軍によるモスク襲撃後、モスクに武器や紙幣が保管されていたことは、国営放送が伝えている。しかし「盲目の導師がそれに反対したこと」は少数の関係者しか知らないはずである。

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ムスリム同胞団が始めたシリア革命

2018-03-28 23:50:34 | シリア内戦

後藤健二さんは2012年3月半ばから4月にかけて、イドリブを取材した。取材の中心はイドリブ県北端の小さな町ジャヌディーヤの住民からの聞き取りである。政府軍と戦車が女性と子供まで容赦しなかったことが、生なましく語られた。また住民25人の虐殺が目撃者によって語られている。人数が少ないため、国際メディアは取り上げなかった。しかし当事者にとっては衝撃的な事件である。このような事件はシリア各地で起きていたにもかかわらず、ほとんど知られていない。内戦において虐殺は日常茶飯事になってしまう。後藤さんの報告は恐ろしい現実を喚起させてくれる。

早い時期の虐殺事件では、ホムス近郊のフーラで108人の市民が殺害されたことがよく知られている。

2012年5月25日に起きたこの事件は、政府軍がスンニ派住民を殺害したとされているが、これには反論もある。「自分の家族を殺害した男は、スキンヘッドで、ひげを生やしていた」という証言がある。政府軍の兵士はこのような風貌をしておらず、この男はイスラム主義者と思われる。シリア政府は一貫してシリア軍による犯行ではない、としている。

確かに政府軍ではないが、政権側の民兵の中に、頭をそり、ひげをのばした男がいるかもしれない。真相は闇の中である。

後藤さんに情報を提供したジャヌディーヤの男性は2011年4月から2012年3月の間に故郷で起きたことを撮影している。4月のデモのデモは平和におこわれており、警察も治安部隊も登場していない。それがいつ流血の弾圧に変わったのかについては。語られていない。

2011年6月4日ジスル・アッ・シュグールで武装反乱が起き、治安部隊員120名が死亡した。シリア軍最強の機甲師団が反乱の鎮圧に乗り出し、本格的な軍事作戦となった。その結果反乱グループと住民が1000人死亡した。ジスル・アッ・シュグールの事件は隣の小さな町ジャヌディーヤにも影響を及ぼしたことは間違いない。常識的に考えれば、ジャヌディーヤの住民はしばらく抗議デモを控えるべきである。4月とは状況が違う。ジスル・アッ・シュグールの武装反乱の直後にジャヌディーヤでデモをするなら、ジスル・アッ・シュグールの武装反乱を支持し、反乱鎮圧に抗議するデモとなる。これに対する政権の対応は厳しくなって当然である。

ジャヌディーヤの男性は「政府軍は女性や子供まで殺害した」と述べているが、それに至る過程については何も語っていない。そもそも、流血の弾圧がいつ始まったのかもわからない。ジスル・アッ・シュグールに近い小さな町の残酷な弾圧がどのように始まったかは、わからない。

ジャヌディーヤについて報告しているのは後藤さんだけであり、ネットでさらにべることはできない。ジスル・アッ・シュグールについては、30年前、1980年の反乱をウィキペディア(英語版)で知ることができる。ジスル・アッ・シュグールには反乱の歴史があり、2011年6月、シリア最初の武装反乱がこの都市で起きたのは偶然ではない。

                   《1980年、ジスル・アッ・シュグールの反乱》

30年前の1980年3月6日、2011年6月の反乱とよく似た事件が起きている。デモをする民衆の一部がバース党の建物に火をつけた。警官たちは逃げ出した。暴徒は近くの兵舎で武器を手に入れた。夜になってアレッポから特殊部隊がヘリコプターで送られてきた。した。特殊部隊はロケット砲や迫撃砲で攻撃し、民家商店を破壊した。町を制圧すると、特殊部隊は暴徒を探し始めた。この時50名の市民が死亡した。捜索の結果200人が逮捕された。翌日軍事裁判が開かれ、100人が処刑された。

以上が1980年の反乱である。バシャールの父ハフェズ・アサドの時代は残酷な独裁の時代であり、民衆デモは厳しく制限され、デモが暴徒化した場合、犯人と見られた者たちは即刻処刑されてしまう。兵舎から武器を奪う行為は重罪であるが、これに対する処罰の厳格さは、シリアの独裁政治を象徴している。

しかしシリアという国は統治を緩めると収拾がつかなくなり、国家が分裂してしまう。少数派であるアラウィ派の政権に代わり、多数派のスンニ派政権が誕生すれば、シリアは安定すると考えるのは誤りである。1946年フランスから独立したが、その後の24年間政権が安定しなかった。多数派であるスンニ派は自分たちの政権を形成することができなかった。スンニ派の指導者たちは独裁志向が強く、自分がトップになろうとして争った。スンニ派の指導者たちがまとまることができず、内紛を続けた結果、アラウィ派のハフェズ・アサドに政権が転がり込んだ。「俺が、俺が…」と主張する者たちの間で、最も冷静で思慮深い者が長期安定政権の樹立に成功した。スンニ派は大きなチャンスを与えられていたのに、24年間そのチャンスを生かすことができなかった。シリアという国の統治の難しさに気づき、国の有力者たちをまとめようと努力する者はスンニ派から出現しなかった。少数派であるアラウィ派のアサドは何ら有利な立場にいなかった。多数派が互いに抗争を続けたため、彼にチャンスが回ってきた。中世ドイツの国王は選挙制だったが、有力な諸侯は互いに相手をけん制し、その結果無力で弱小な諸侯が国王に選出された。変な話であるが、これは歴史の事実である。シリアは独立後の歴史が浅く、国家が安定するには時間が必要であり、その間、紆余曲折を重ねざるを得ない。また新生国家はある程度独裁的にならざるを得ない。

1946年の独立後、スンニ派の有力政治や家軍人がまとまることができなかったのは、彼らの資質が原因であるようだが、そもそもシリアのスンニ派がまとまっていないことが原因である。スンニ派というくくり方をするのは、シリアの政権を転覆しようとする人々の宣伝であって、シリア各地の部族は地域ごとにまとまっているのであり、各部族がスンニ派としてまとまったことはこれまでない。スンニ派共同体という発想は希薄であり、スンニ派の人たちは地域に根差した部族に帰属意識を持っている。

シリアの統治が強権的にならざるを得ない、もう一つの理由がある。ジスル・アッ・シュグールの反乱をはじめ、1980年初頭の反乱の弾圧が過酷だったのは、反乱の背後に亡命グループと外国の陰謀があったからである。30年後の現在同じことが起こっている。

2011年に始まった抗議運動は市民の民主化要求であるが、最初から政権転覆を目的としているグループが存在した。シリア革命には、2つの側面があり、バース党官僚の腐敗に対する怒りということだけでは説明できない。もちろん大部分のデモ参加者は単純に民主的な改革を望んでいる。腐敗政権に対する民衆の不満という構図はアラブのほとんどの国に共通する。いや世界のほとんどの国に共通する。しかしシリアの場合、シリア国民の革命を利用しようとする陰謀グループと彼らを支持する外国勢力が存在した。したがって「政権は平和なデモをする市民を武力で弾圧した」という説明は半分しか正しくない。

陰謀グループとは、シリアから亡命した反体制派であるが、彼らの中で、強固な組織を持つムスリム同胞団がシリア革命において重要な役割を果たした。ムスリム同胞団はアルカイダに先立つイスラム過激派であり、テロ集団である。1981年エジプトのサダト大統領が彼らによって暗殺された。ムスリム同胞団はアラブ世界で恐れられたテロ集団であったが、同時に福祉活動を実践する宗教団体であり、エジプトでは徐々に大衆の支持を獲得していった。エジプトのムスリム同胞団は広く大衆に支持されるようになり、テロ活動を停止した。現在はエジプトで最大の政党となっている。

シリアのムスリム同胞団は1980年代に武装反乱をしたため、政権によって弾圧され、非合法化された。彼らはシリアで再び武装反乱をする機会を待っており、テロ集団としての性格を残している。

1982年のハマの反乱は弾圧の激しさによって知られているが、反乱を起こしたムスリム同胞団がイスラム過激派である点に注意を向ける人は少ない。ティム・アンダーソンは独自の観点から1982年のハマの反乱を見直している。ハフェズ・アサド大統領は偏執狂ではない、と彼は書いている。ハフェズ・アサドは度を越した弾圧する人物ではないということである。政権をどの程度脅かすものであるか、冷静に判断し現実に即して反乱を鎮圧したはずである。

ハマはホムスの北、イドリブの南にある。

ハフェズ・アサドが若かった時、政権をめぐる内紛が激しかった。政権を奪取しよう用とする人物の多くが極端に走る性格だった。そのような先輩たちの中にあって、アサドは冷静沈着であり、自己抑制的だった。アサドに面会した外国の指導者は「アサドは感情を表に出さず、腹の底で何を考えているのかわからない」と述べている。

ティム・アンダーソンは2011年のシリア革命について、「ムスリム同胞団が始めた革命」としている。1982年のハマの反乱についても、過激派ムスリム同胞団が起こした反乱という視点で書いており、ティム・アンダーソンはシリア革命を理解するうえで重要な点を指摘している。テロリスト集団を容認する国家は存在しない。シリア革命の最初の9か月は平和なデモが行われていたとされているが、実はテロ集団(ムスリム同胞団)が暗躍していたのである。

====《ダラア2011年:イスラム過激派の革命》===

  Daraa 2011: Syria’s Islamist Insurrection in Disguise 

http://www.globalresearch.ca/daraa-2011-syrias-islamist-insurrection-in-disguise/5460547

           By Dr Tim Anderson     Global Research    2016年3月16日

 2011年3月にデモが始まった当初から、シリアの出来事には2種類の説明が存在した。一つの説明は反体制派によるものであり、世界に広く受け入れられている。

「政権は抗議集会を武力により残酷に弾圧した。政権の武力に対抗するため、市民は武器を取った。こうして内戦が始まった」。

もう一つの説明はシリア政府の報告と、一部の観察者によるものである。

「初期の抗議運動の際に、武器を持った人物がどこかに隠れており、警官と市民の双方に向けて発砲した。平和なデモが行われていたとされている時期に、警察官と兵士が死んでいる」。

注意深く調べるなら、広く受け入れらているシナリオは、政権転覆を狙う米国の策略を覆い隠すためのものであることがわかる。これを理解するには他の都市に先駆けて抗議運動が盛り上がったダラアについて知る必要がある。ダラアの中心部にあるオマリ・モスクはイスラム主義者の拠点となっており、サウジアラビアによって武器が運び込まれていた。ダラアで起きたことは、30年前のハマの事件と似ている、と多くのシリア人が思った。1982年ハマでイスラム主義者(ムスリム同胞団)が反乱を起こし、政府軍によって鎮圧された。この事件を検証することは、2011年以後シリアで起きたことを理解するのに役立つ。

米軍情報部の1982年の記録と英国の作家パトリック・シール(Patrick Seale )の著作によって、ハマで何が起きたかを、再構成してみたい。

シリアのムスリム同胞団はイスラム原理主義に基づく国家の樹立を求め、数年にわたり反乱を起こした。ハフェズ・アサド大統領はこれに断固とした対応をし、1980年までに、ムスリム同胞団をほぼ壊滅させた。ムスリム同胞団はなおもあきらめず、起死回生の蜂起を計画した。しかし政権はこの陰謀を事前に察知した。ムスリム同胞団は追いつめられ、彼らの拠点ハマで半ば捨て鉢の反乱を起こすに至った。パトリック・シールは同胞団と政府軍の攻防の開始を次のように書いている。

「1982年2月2日の深夜、正確には日付が変わり翌日の2時、政府軍がハマの旧市街を掃討していると、突然待ち伏せ攻撃を受けた。屋上に潜んでいた複数のスナイパーが政府軍を銃撃した。十人前後の兵士が死亡した。これが反乱の開始となった。

ムスリム同胞団の指導者アブ・バクル(本名はウマル・ジャウワド)が反乱を呼び掛け、数百人がこれに応じていたのである。朝までにバース党の幹部70人が殺害された。勝ち誇った武装集団は「ハマ市は解放された」と宣言した。

この反乱に対し、1万2千人からなる部隊が派遣された。鎮圧は容易ではなく、戦闘は3週間続いた。鎮圧が長引いたのは、反乱側に寝返る兵士がいたことと、武装集団は外国の支援により武器を豊富に持っていたからである。

再びパトリック・シールを引用する。

「反乱軍は大部隊を相手によく戦っていたが、徐々に政府軍が優勢になり、反乱軍は旧市街に撤退した。政府軍が旧市街に砲弾を浴びせた後、特殊部隊とバース党員からなる民兵が戦車と共に旧市街に進入した。掃討作戦は長引き、多くの住民が殺害され、町は破壊された」。

2か月後米軍情報部(DIA)が次のように書いている。

「ハマの死者数は約2000人である。その中の300-400人はムスリム同胞団のエリート(秘密組織メンバー)である。

再びパトリック・シールの著書から引用する。

「政府軍の死傷者は多かった。ゲリラ兵を捜索する過程で、多くの一般市民が殺害された。政権側は、死亡した市民の数を3000人としているが、政権に批判的な人は3万人としている。私の推定では、5000人から1万人である。ゲリラは恐るべき敵である。彼らは財産を外貨で所有しており、1万5千台の機関銃を保有している」。

事件後ムスリム同胞団はハマの死者数を水増し、4万人とした。彼らは本格的な武装反乱をなかったことにし、政府軍が一般市民を大量に虐殺したと主張した。一方シリア政府は「ハマの反乱は外国の陰謀である」と発表した。ハフェズ・アサドの伝記を書いたパトリック・シールによれば、アサドは偏執狂的な性格からは遠く、冷静であり、現実に沿った判断をする人物である。「ハマの事件は外国の陰謀である」という判断は事実に基づいている可能性が高い。米国製の武器が大量に発見されている。また近隣の3国がハマの反乱を支援したことのは間違いない。

①米国の同盟国ヨルダン

②イスラエルと連携しているレバノンのキリスト教徒民兵組織(杉の守護兵団)

③米国の友好国イラク(大統領はサダムフセイン)

米国は同盟国の助けを借りて重要な役割を果たしたが、反乱が失敗に終ると、他人事のように片づけた。米軍情報部は「シリア人は宗教心が薄い実利主義者であり、ムスリム同胞団の政権を望まない」と評価しただけで、反省しなかった。

 

2011年ダラアで起きたことは、30年前ハマで起きたこととよく似ている。屋上のイスラム主義者スナイパーが警官を射撃し、軍隊の出動に発展した。軍隊によって鎮圧されると、イスラム主義者たちと同調者は「一般市民が虐殺された」と言い立てた。

2011年3月ダラアで盛り上がった抗議運動は、4月になるとホムスとその周辺に波及した。イスラム主義者の目標ははっきりしており、不信心なアラウィ派が指導する世俗的な政権の打倒だった。サウジアラビア、カタール、トルコが反乱を支援した。米国は一歩退いていたが、実は真の黒幕だった。

ダラアでデモが開始されてから10日後の3月28日、シリアのムスリム同胞団指導者がイスラム革命を宣言した。ムハンマド・リアド・シャクファは「敵は世俗的なアサド政権である。革命は純粋にイスラム的でなければならない。革命成功後、他の宗派は容認されない」。

ムスリム同胞団は組織がしっかりしているうえに、トルコとカタールの支援があり、強力な武装勢力となった。2012年自由シリア軍の上部組織・最高軍事評議会が成立したが、最高軍事会議のメンバーの3分の2がムスリム同胞団だった。最高軍事評議会の役割は外国の支援金と武器をシリア各地の反乱軍に配布することだった。2012年カタールは反乱軍への最大の支援国だった。カタールはムスリム同胞団をを支援していたため、最高軍事評議会の過半数がスリム同胞団となった。ムスリム同胞団はシリア革命に大きな役割を果たした。その後他のイスラム原理主義グーループが肩を並べるようになった。

3012年の米軍情報部の報告は米政府の公式見解に反することを述べている。

「シリアの反乱において主要な勢力はイスラム原理主義者、ムスリム同胞団、イラク・アルカイダ(ヌスラ)である。・・・・イラク・アルカイダはイデオロギーとメディアを通じての宣伝によって、反政府勢力を支えている」。

イスラム原理主義者とはアフラール・シャムやリワ・イスラムなどである。米政府の立場はシリアの穏健な反政府勢力を支援する、ということだったが、穏健な勢力は弱小であり、彼らをを支援することによってシリア革命を成就するというのは空想に等しかった。

======================(ティム・アンダーソン終了)

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