【28章】
貴族と平民間の闘争が原因で、ローマ軍が編成されず、司令が決まらないという知らせがプラエネステに届いた。これを好機と見たプラエネステの将軍たちは直ちに軍隊を率いてローマに向った。プラエネステを出ると、放置された荒れ地が広がっていたが、彼らはそこを抜けて、ローマのコリナ門を目ざした。ローマの市民の間には恐怖が広がった。男たちは「武器を取れ」と叫びながら、城壁や市門に向かった。ローマ市民は反乱を中止し、敵に立ち向かった。T・クインクテイウス・キンキナトゥス が独裁官に任命された。独裁官は A・センプロニウスを騎兵長官に任命した。プラエネステの兵士たちはクインクテイウスが独裁官になったことを知ると、すぐに城壁から後退した。独裁官が徴兵を宣言すると、兵役に該当するローマ市民は迷わず集まった。ローマ軍の編制が進んでいる時、プラエネステ軍はアリア川の近くに陣地を定めた。ここを拠点として彼らは広範囲に略し、地域を荒廃させた。ローマにとって重要な輸入路であるアリア川の土手を占拠したことを、プラエネステの兵士たちは幸運と考えた。なぜならローマ市民がガリア人の襲来の時のようにパニックに陥るに違いないからである。ローマ人は敗北の日を「アリア川の日」と呼んで呪っており、最悪の戦場となったアリア川は彼らにとって恐ろしい場所に違いない。ローマ兵はアリア川と聞くだけで、ガリア人の幻影が目に浮かび、ガリア人のおぞましい叫び声が聞こえ、震えあがるだろう。こうしたあてもない想像にふけりながら、プラエネステ軍の兵士たちは彼らの幸運を場所に賭けた。一方でローマ軍はラテン人の兵士をよく知っており、彼らがどこにいようと恐れるに足りないと考えていた。ラテン人はレギッルス湖の戦いで敗れて以来、100年間ローマに臣従しきたのである。アリア川がローマの大敗北を想起させるとはいえ、ローマ兵はこの記憶を拭い去り、他の不吉な場所同様勝利の妨げにはならなかった。たとえガリア兵が再びアリア川に現れたとしても、かつて彼らから首都を奪回した時のように、再び戦うまでである。首都奪回の翌日、ローマ軍はガビーでガリア軍を壊滅させ、ガリア兵は一人も生き残ららず、自軍の全滅を祖国に知らせることもできなかった。
【29章】
プラエネステ軍はローマ兵が過去の敗北に引きずられていると期待し、他方ローマ軍は勝利だけを考え、両軍はアリア川の土手ので出合った。プラエネステ軍が戦陣を組んでで進んでくるのを見て、独裁官は騎兵長官 A・センプロニウスに言った。「敵はガリア兵と同じ場所にいるぞ。かつての戦いの再現を期待しているようだ。場所が縁起が良いことなど頼りにならないし、自分が弱ければ誰も助けてくれない、と彼らに教えてやろう。君と騎兵が頼っているは自分の武力と勇気だよな。諸君は全速力で敵の正面を突いてくれ。私と歩兵は崩れた敵に襲い掛かる。条約が守られているか見張っている神々よ!我々を応援してください。神々に違反した敵に罰を与えてください。連中は我々を裏切りました。彼らの訴えを無視してください」。
ローマの騎兵と歩兵の攻撃により、プラエネステ軍はあえなく崩れた。最初の一撃と叫び声で、彼らの戦列は乱れ、間もなくすべての隊列が崩れ、プラエネステ軍は大混乱となり、兵士は背中を見せて逃げだした。彼らは恐怖のあまりひたすら逃げ、陣地を通り過ぎ、プラエネステの町が見えるところまで来て、ようやく逃げるのをやめた。彼らは再結集し、適当な場所を見つけて陣地を構築し防御を固めた。市内に逃げこもうとしなかったのは、領内に火をつけられるのを恐れたからだった。領内には8つの町が存在した。これらの町が荒廃した後、結局プラエネステが包囲されるだろうと彼らは考えたのである。ローマ軍はアリア川で敵の陣地を略奪すると、プラエネステに向かった。ローマ軍が近づいてくると、プラエネステ軍はせっかく造った陣地を棄てて、市内に逃げ込んだ。プラエネステは周囲の8つの町を所有していた。ローマ軍はこれらの町を次々に攻撃し、ほとんど抵抗されずに攻略した。その後ローマ軍はっヴェリトラエへ向かい、勝利した。そして最後に戦争の発端であり、中心であるプラエネステに戻ってきた。プラエネステ軍は戦わず降伏した。ローマ軍はこの町を占領した。ローマ軍は戦争に勝利し、二つの陣地を奪取し、プラエネステの支配下にある8つの町を攻略し、主敵であるプラエネステの降伏を受け入れた。ティトゥス・クィンクティウスはローマに帰った。
(プラエネステはローマの東35kmでラテン地域のはずれにある。現在のパレストリーナである。ヴェリトラエはアルバ湖の南東にあり、プラエネステから離れている。ヴェリトラエはヴォルスキの都市だったが、ローマの第4代国王アンクス・マルキウスによって征服された。)
勝利の行進で、クィンクティウスはプラエネステから持ち帰ったユピテルの像をカピトルの丘まで運んだ。ユピテル像はユピテル神殿とミネルバ神殿の間の奥まった場所に安置された。像の台座に独裁官の勝利を記した金属板がはめ込まれた。金属板には「ユピテルとすべての神々が独裁官ティトゥス・クィンクティウスに勝利をもたらした」と書かれていた。独裁官就任から20日後にクィンクティウスは辞任した。
【30章】
翌年の執政副司令官の半分が平民から選ばれた。貴族から選ばれた3人は C・マンリウス、P・マンリウス,L・ユリウスである。平民の3人は C・セクスティリウス、M・アルビニウス、L・アンスティティウスである。二人のマンリウスは貴族なので平民の3人より優位にあり、貴族であるユリウスより人気があった。二人のマンリウスはくじ引きをせず、他の執政副司令官と話し合いをせず、元老院と相談しただけでヴォルスキ戦の指揮官となった。後で二人と元老院は勝手に決めたことを後悔することになった。指揮官となった二人は偵察兵を出さずに、略奪を開しした。略奪に行った兵士たちが包囲されたという誤報を信じて、二人はすぐに援軍を送った。虚偽の報告したのはローマ兵のふりをしたラテン人であり、ローマの敵だった。二人のマンリウスは報告者の素性を調べるのを怠った。二人が派遣した援軍は突然待ち伏せ攻撃を受けた。不利な地形にもかかわらず、ローマ軍は勇気だけで必死に持ちこたえた。同じ頃、平原の反対側でローマ軍の陣地が攻撃された。二人の将軍の無知と性急さが原因で、ローマ軍は二方面で全滅しそうになった。幸運により、また指揮官の命令がないまま兵士たちは勇気だけで切り抜けるしかなかった。ローマ軍の危機が首都に伝えられると、いったん独裁官を任命することになった。しかし続いて第二報が届き、ヴォルスキ軍の動きが止まったこと知らされた。ヴォルスキ軍は勝利を目前にしながら、決着をつけられずにいた。間もなく彼らを呼び戻す命令が来て、ヴォルスキ兵は去っていった。
ヴォルスキ戦が終了すると、平和が続いたが、年末にプラエエステが再び反乱した。プラエエステはラテン人を誘ってローマに敵対した。
同じ頃セティアの植民者たちが、自分たちの人数が少ないと不満を言ってきたので、ローマは新たな植民団を送った。
(セティアはローマの南東65km、サトゥリクムの東。サトゥリクムはポンプティン地方の北部にあるが、セティアは同地方からはずれ、北方にあるが、高台にあるので、ティレニア海が見える。セティアはヴォルスキの町だったが、紀元前382年ローマは植民地を設定した。セティアは現在のセッツェである。)
プラエエステとの戦争が起きたが、国内は安定していた。安定をもたらした要因は、執政副司令官のうち半分が平民だったことである。彼らは平民に影響力を有し、平民の間で権威があった。
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