4/29、穏やかな日差しに誘われて
21世紀美術館開催中の展覧会へ行った。

Alternative Humanities~新たなる精神のかたち
ヤン・ファーブルx舟越 桂
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=45
ヤン・ファーブルは玉虫を集めて髑髏に貼り付けて作品にしたり、
動物の剥製などを素材として作品を作る。とてもグロテスクな作品もあり、
少し驚く。彼はこれらの作品から何を訴え、印象づけようとしているのか・・・
かの有名なファーブル昆虫記を書いたファーブルの子孫(たしか曾孫)である彼の
昆虫に対する情熱は「血」なのだろうか。それを意識しているのだろうか。
私にはおどろおどろしい気持ちしかわかず、何かの問いかけすら聞こえなかった。
21世紀美術館は円形の建物の真ん中の屋根に彼の作品を飾っている。
その黄金色に輝く塑像の作品名は「雲を計る人」。スケールを両手でいただき、
頭上の空を仰ぎたつ人物像。
かたや 舟越桂
「悼む人」や「「永遠の仔」の著者「天童荒太」の本のカバー彫刻で人目をひいた
彫刻家。一貫して楠を使い、人の顔のみを彫る。髪の毛はなく男性だか女性だか
判別のつかない中性的な人物、目は遠くを見つめ続け決して視点が交わることは
ないと思われる目を埋め込んでいる。一度見るとそのなんとも表現しがたい印象
とともに、別の作品をみてもすぐに舟越氏の作品とわかる力がある。
今回は作品とともにデッサン画も展示され、その迫力に圧倒されてきた。
でも、交わらない視線の中に身を投じるとなんだか疎外感と物悲しさを覚える。
微笑みも怒りももたない表情・・・
そんな中、ある1室だけ写実的な温かみのあるデッサンが、数は少ないが集めてあった。
近寄ってみると、「舟越保武」と書かれていた。
桂氏の父親で日本では有名な石の彫刻家であった。
長崎の「26聖人記念像」の作品集を見たが、人を許し癒す穏やかな表情で品をたたえた
像に、釘付けになってしまった。
彼が書き溜めたエッセイ集「大きな時計」をすぐに手に入れてしまった。
その視点が芸術家らしく、でもそれって、そうそう、そう思う!と
その織り成す言葉に感覚に膝を打ってしまうようなエッセイだった。
『ミロのビーナスには腕がない。・・・むしろ両腕がついていたら、
これだけ人々の印象に残らなかったかも知れない。両腕が欠けている
ことに、何の奇異も感じられないところに、芸術と現実との大きな
違いがあるようだ。・・・もし生身の人間に両腕がなかったら・・・』
と続く。
『「美人」と「美しい人」とは別のものだ。
美人というのは、顔かたちが整っているだけで、その人のせいではない。
両親が作ったものだ。
美しい人、というのは顔かたちではない。心の美しさが顔に表れる人のことだ。・・』
彼の手で作られる彫刻は正に「美しい人」であった。彫刻であるというのに。
21世紀美術館開催中の展覧会へ行った。

Alternative Humanities~新たなる精神のかたち
ヤン・ファーブルx舟越 桂
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=45
ヤン・ファーブルは玉虫を集めて髑髏に貼り付けて作品にしたり、
動物の剥製などを素材として作品を作る。とてもグロテスクな作品もあり、
少し驚く。彼はこれらの作品から何を訴え、印象づけようとしているのか・・・
かの有名なファーブル昆虫記を書いたファーブルの子孫(たしか曾孫)である彼の
昆虫に対する情熱は「血」なのだろうか。それを意識しているのだろうか。
私にはおどろおどろしい気持ちしかわかず、何かの問いかけすら聞こえなかった。
21世紀美術館は円形の建物の真ん中の屋根に彼の作品を飾っている。
その黄金色に輝く塑像の作品名は「雲を計る人」。スケールを両手でいただき、
頭上の空を仰ぎたつ人物像。
かたや 舟越桂
「悼む人」や「「永遠の仔」の著者「天童荒太」の本のカバー彫刻で人目をひいた
彫刻家。一貫して楠を使い、人の顔のみを彫る。髪の毛はなく男性だか女性だか
判別のつかない中性的な人物、目は遠くを見つめ続け決して視点が交わることは
ないと思われる目を埋め込んでいる。一度見るとそのなんとも表現しがたい印象
とともに、別の作品をみてもすぐに舟越氏の作品とわかる力がある。
今回は作品とともにデッサン画も展示され、その迫力に圧倒されてきた。
でも、交わらない視線の中に身を投じるとなんだか疎外感と物悲しさを覚える。
微笑みも怒りももたない表情・・・
そんな中、ある1室だけ写実的な温かみのあるデッサンが、数は少ないが集めてあった。
近寄ってみると、「舟越保武」と書かれていた。
桂氏の父親で日本では有名な石の彫刻家であった。
長崎の「26聖人記念像」の作品集を見たが、人を許し癒す穏やかな表情で品をたたえた
像に、釘付けになってしまった。
彼が書き溜めたエッセイ集「大きな時計」をすぐに手に入れてしまった。
その視点が芸術家らしく、でもそれって、そうそう、そう思う!と
その織り成す言葉に感覚に膝を打ってしまうようなエッセイだった。
『ミロのビーナスには腕がない。・・・むしろ両腕がついていたら、
これだけ人々の印象に残らなかったかも知れない。両腕が欠けている
ことに、何の奇異も感じられないところに、芸術と現実との大きな
違いがあるようだ。・・・もし生身の人間に両腕がなかったら・・・』
と続く。
『「美人」と「美しい人」とは別のものだ。
美人というのは、顔かたちが整っているだけで、その人のせいではない。
両親が作ったものだ。
美しい人、というのは顔かたちではない。心の美しさが顔に表れる人のことだ。・・』
彼の手で作られる彫刻は正に「美しい人」であった。彫刻であるというのに。