道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

故郷の風[望月右近太夫義勝の終焉地]

2017年11月26日 | 歴史探索
人が故郷を懐かしみ慕う気持ちには、そこで共に暮らした人々への想いと、郷土の自然すなわち風土への想いが相半ばしていると思う。風土への想いは、人へのそれと比べると漠然として抽象的だから、普段はあまり意識されないが・・・

天正35月の長篠の合戦で、織田・徳川連合軍に敗れた武田方に、信州望月党の一族で望月義勝(一説によると信永)という武将がいた。
望月党は中世以来八ヶ岳の北麓佐久郡望月郷一帯を領する国人領主の名族で、信玄の時代から武田家と婚姻関係を結び、甲州騎馬軍団の中核として世に知られていた。
 
設楽ヶ原での決戦で負傷した義勝は、郎党たちと逸れただひとり、三河の御園峠(現在の愛知県北設楽郡東栄町御園)に辿り着いた。峠を越せば、信濃との国境まで1日行程である。
しかし、水を求めて立ち寄った山家の老婆の通報で、落武者狩りに包囲され、自刃したと伝えられている。
 
御園郷は徳川の領国三河に在る。戦国の時代、将は武士だが兵のほとんどは農民、合戦に従軍していなくとも、敵方の落武者を捜索し捕らえるのは、領民に課せられた義務だった。またそれは、村の治安のための自警活動でもあった。落武者が名のある武将であるなら、恩賞への期待も大きい。
 
義勝は自分の遺体を、故郷信州からの風が吹き来る峠近くの尾根に葬るよう、村人に遺言して逝った。だが村人たちは故人の意思を汲まず、遺体を他所に埋葬してしまった。
手負いの武将を討って、身近な場所に埋葬するのは、村人たちにとって寝覚の悪いものがあったかもしれない。
 
戦さは終わったものの、平和な山里の住民に平穏の日々は戻らなかった。
合戦の翌年、望月義勝の妻が亡き夫の終焉の地を確かめるため、郎党数名とこの地を訪れたらしい。ところが、この一行は、何者かによって殺害されたらしい。
その後この山里では疫病が相次ぎ、人々はそれを望月義勝の祟りだと考えた。
 
祟りを怖れた村人たちは、義勝の遺骸を、遺言どおり御園峠近くの尾根に改葬し、その場に祠を建て丁重に供養した。それ以後、村の災いは収まったという。
 
「信州から吹く風」とは、最期の時を迎えた望月義勝が、故郷の信州望月郷の風土を偲ぶ言葉だった。再び故郷の山や川を見ることも、最愛の家族と会うことも叶わなくなったとき、故郷の八ヶ岳から吹く風が直接届く山稜に葬られたい、と願う武将の哀切の念いが伝わって来る。
 
私はかつて、この穏やかな銘茶の産地「御園の里」を幾度か訪れ、その都度、御園峠から西の神野山(かんのやま)まで稜線を往復した。
それは桜の花が散り、カタクリが尾根を点々と彩る季節だったが、人気の無い山稜には、いつも冷たい風が蕭々と吹きわたり、笹の葉擦れの音だけが聞こえていた。
 
人には生まれ故郷のほかに、第ニ・第三の故郷がある。自分を育んでくれた土地は、どれも故郷と呼んでよいだろう。風土と亡き人を慕う気持は、年齢を累ねるごとに募る。だが、故郷が昔のままに保たれることはない。

人が老化を免れないように、風土も変容する。近年は雪が積もらない雪国も増えているようだ。地球の気候は不変ではないし、巨大技術は地形も気候も変えてしまう。
私たちが懐かしみ慕う故郷というものは、私たちの脳裡にのみ存在するものなのかもしれない。

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