先月、台風22号襲来の前日、滋賀県
大津市の坂本を訪れた。気象庁の警報も、月例の古代近江探索行の日程を揺るがすほどには強くはなかった。
京浜坂本駅で降りた観光客の数は到
着したバス1台にちょうど収まる程度、やはり台風が接近中となると、この時季でも人の出足が鈍るのだろう。雨が降っていたのでそのままバスに乗り込んだ。バス停二つほど先のケーブルカー駅で下車し、目的の日吉大社に向かう。比叡山の地主神を最澄が延暦寺の守護神と定め祀って以来、本邦最大の神社に発展した日吉大社は、全国に末社3800を数えるという。
古代史を確かめる上で、神社は古墳に次いで重要な対象だ。古墳は考古学という物証中心の科学の対象分野で解説書は多い。だが神社は口伝・文献考証の対象で、その資料も神話、縁起、社伝などの類で信頼性も低く、科学的研究の対象ではない。科学の対象でないということは、私のような素人にわかりやすい本が少ないということであって、まことに神社は、門外漢には漠とした実体の掴めない存在である。実在したかどうかわからない祭神、創建年代に関わる信憑性など、肝心なところが虚無であって、身近にありながら実に得体が知れない。得体が知れないないからこそ神なのだ。
元々神祇信仰は、本殿や拝殿をもた
なかった。神体は山であったり島であったり、建築物は鳥居ひとつだけというのが神社の根元の姿だったようだ。仏教の寺院は多数の僧が起居して修学する場として建物が不可欠だったが、自然信仰の神社は人が生活する建物を必要としない。仮の祭壇があれば、祭祀ができた。現在見る各神社の社殿の本殿や拝殿は、7世紀に仏教が伝来して後に、寺院建築に倣って、仏教への対抗上壮麗な建物を建てるようになったと言われている。それらも、社伝にある創建時のものは焼失などで現存しない。
それにつけても神社とは、勧請という制度によってなんと広く全国津々浦々に分布し、また有力な神社はなんと数多くの摂社を抱えていることか。祭神も、ひとつであることは珍しい。
神社の成り立ちや神々を分社したり合祀することよる祭祀権力の発展拡張の様相、神仏混淆の歴史の痕跡、時々の政治権力との紐帯または抵抗の記録、神社間での抗争や覇権争いなど、知りたいことは尽きない。だが、歴史的に見れば日本の神祇信仰すなわち神道は日本人の信仰の基で、歴史上の興味深い事件には、様々な形で神社が関与している。
神が祀られていなかったら、仏教はこの国でこれほどの普及と教勢を保ち得たか疑問だし、仏教がこの国に伝えられなかったら、神社はこれほどの信仰を獲得できたか?
ここ日吉神社と比叡山では、本地垂迹という牽強付会によって合理化された神仏習合による日本宗教機構(とでもいうべきもの)の強大な権勢を偲ぶことができる。
日本人は、神の不興や怒りを極端に怖れ、祟りを避けることに腐心して神を祀ってきた。日本人の信仰は、畏怖というより恐怖に基づいていた。また託宣という、神の名を藉りた不合理で無責任な指示が横行した時代もある。神社はあらゆる点で、合理性と対立する存在であり、理解を超える。
中世の覇者、織田信長の最大の敵は、武力と領地に依拠する戦国大名ではなく、神仏習合によって朝廷から庶民まで、当時の社会に浸透し強大な勢力に肥大した比叡山・日吉神社を頂点とする日本宗教機構だったのではないか?彼を苦しめ続けたのは、仏と神を一体のものとして信仰する信徒集団の有形無形の反抗だったと推測しうる。価値観を共有できない無数の対手。信長には極めて扱い難い強固な組織だったのだろう。
信長を弑逆した明智光秀は、仏と神が一体化した日本宗教機構の勢力に使嗾されたのではなかったか?と考えてみたくなる。それほどに、信長は日本の宗教勢力の最大の敵だった。
日本の仏教を宗派で分類する視点で観ている限り、こんな考えは浮かばない。神仏習合によって、宗派を超える強固な連帯組織が成立していたのだ。
こんなことをとつおいつ考えながら、石垣や樹木が雨に濡れて瑞々しい広大な境内の各社殿をゆっくり見て回った。帰路に沿う里坊の、苔生した穴太衆積み石垣の重厚な外壁が、強権をもって推し進めようとした明治政府の廃仏毀釈政策にも屈しなかった、神仏習合信仰の強固さを、象徴しているかのように見えた。
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