道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

恋は自己愛の満足

2024年11月17日 | 随想
老人が恋について記事を書くと、「この爺い、未だ涸れていないのか?!隅におけない困った奴だ」などと思われそうだが、孫たち若者の幸福な恋のために、恥を忍んで書いている。

「恋」と「愛」とは本質的に異質の概念なので、当ブログでは「恋愛」と謂う、恋の実質を誤認させる妙な造語はなるべく遣わない。
明治時代にloveの翻訳語として造られたこの漢語は、若い者に「恋」の延長上に「愛」が存在するかのような誤解を与えて来た。「恋」と「愛」の混同を招いた元凶である。そもそも、恋と愛の文字を連結した発想が間違いである。
「恋」の路線は「愛」の路線と並行はするが、本来異質の心情なので、交差はあっても一致はしない。恋」は脱線、転覆何でもありの、危険極まりない路線である。「愛」の路線は安全で安定している。

loveの訳語は、どう考えても在来語の「恋」一語で充分だった。
恋の当事者が「愛」と言っているものを検証するなら、実は「好き」と同義の「恋」に過ぎず、「愛してる」「愛しい」「愛する」「愛し合う」は全て「愛」の文字を「恋」に置換すべきものである。「恋」ごときに「愛」を用いるのはおこがましい。
「恋」をしている当事者に有るのは他者への「愛」でなく自己愛が有るのみである。自分への愛が、恋情を催させ煽っていることを、渦中においては困難だが、冷静に理解しなければならない。

恋というものは、始まりと終わりがある。極端に言うと花火に似て一過性のもので、美しく咲いても長もちしない。消滅を避けられない性質をもっている。永遠の「愛」は有っても永遠の「恋」はあり得ない。

恋は人が先ず誰かを好きになることから始まる。
人は自分のことを好いてくれる人を好きになるもの。好意を寄せられれば、誰でも嬉しいから心好い反応をする。
勿論、端から好みに合わない人の好意は受け入れられないだろう。生理的に合わないという言葉も聴く。この場合は恋は始まらない。

異性に好かれるということは、心奥に潜在する自己愛が満たされることなので、好かれた人は自分を好いてくれた異性に好感を抱くのが普通である。
これはごく自然な心理的機序というものである。自己愛を満足させない人を好きになることは、人間にある動物的本能(自己保存欲求が許さない。

出会った時に同時に相惚れするということは、現実にはほとんどない。好意の確認済んでない者同士が、同時に相手を好きになるということは、男女の心理的機序から言ってあり得ない。小説やドラマの世界だけのことである。恋はいつでも片想いから始まるものである。片想いに臆すことは無意味である。
お互いの自己愛を満足させる好意の発信には、必ず先手と後手とがある。

ペットとの関係は恋に似ている。人が可愛がるからペットは懐く。懐くからペットは可愛い。可愛がられれば、ペットはますます飼主が好きになり甘える。
甘えは「好き」の間接的な意思表示なので、飼い主は自己愛が満され嬉しい。よりいっそうペットが可愛くなる。甘えは共依存の元だが、これも自己愛に支配されている。

誰かを好きになったら、先ずそれを示すことで、恋はスタートを切る。こちらが何かで相手の自己愛を満足させることができれば、相手もこちらを好きになるのが道理。好意の応酬があれば互いの自己愛は満たされ、恋は成立する。

さてここからが問題である。
恋が成立し、恋人双方が互いの自己愛を満足させると、その満足感は時間の経過と共に少しずつ飽和の度を増し、それまで自己愛の満足に励起されていた様々な情動(恋情)は鎮静化に向かう。恋は自律的に消滅への道を辿るもののようである。
恋人によって満足させられていた互いの自己愛には、飽和点というものがあったのである。自己愛の飽和が恋を終局に導き、ふたりは訣れのフェーズに入る

そのフェーズが訪れる前に、恋の成就を実感できたふたりは、結婚に進む。自己愛の満足という不確かな絆でなく、社会的・法的に承認された新たな男女関係が始まる。家族をつくるには必須の手続きである。
出産があり、生まれた子どもは夫婦に新たな肉親愛をもたらす。子を得たふたりは、より強い自己愛の満足を支えに、家族と「愛」を育み、家庭を営むのである。「愛」はこの段階で初めて登場し、確固たる男女の絆が生まれる。

ところが結婚というものは、彼らの両親(主に母親)の自己愛に必ずしも満足をもたらさないケースがある。結婚が、夫の母親のそれまでの自己愛の満足(息子から得る)を損なうのである。そうなれば、当然妻は夫の母親によって自己愛の満足を損なわれる。
根深い嫁姑問題の発生の淵源は、嫁・姑の双方の関係が、本質的に双方の自己愛の満足を伴わないからである。

それでも孫が生まれると、夫婦の親たちは新たに自己愛の満足の対象を得、不毛な嫁姑の確執は影を潜める。
孫たちの成長や増加に伴って、その効果は長く続く。その意味(自己愛の満足)で、孫との接触は、老いた両親には最大の癒しである。「孫自慢」はその顕れかと思う。

夫婦も互いに相手の自己愛の満足に配慮し合わなければならない。夫婦愛というものは、意識してそれを保つことに尽きる。「愛」は感情でなく理性から発するモノである。

人間というものは、全生涯に亘って斯くも自己愛に衝き動かされて生きる存在である。
人は最期を迎えた時に、自己愛に支配され続けた自分を知るという。
キリストは、この自己愛に発する諸々の苦悩から人々を救い出すため、神への愛を教え諭した。

異性に好感を持ったなら、できるだけ早く、勇気を奮ってその気持ちを相手に伝えなければならない。自己愛が傷つく反応が怖いのは誰もが同じである。恋は先手必勝、誰よりも先に相手の自己愛を満足させなければ後悔するだろう。
結果が不本意でも、この世には願っても成ることと成らないことがあると識り、より一歩大人になる。

好意を伝える手段は言葉が最良だが、それができない時は手紙がある。だが、字が下手だったら、手書きの書簡は厳禁である。手紙の文字というものは、読む人にとって書き手の容姿を想像させるものである。人は見かけも無視できない。拙い文字は書き手へのあらゆる興味・関心を失わせる。
その点、現代はスマホメールの時代、これに勝るツールは無い。今の若い人たちは恵まれている。

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2 コメント

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Unknown (さくらもち)
2024-11-17 09:00:18
参考になります。
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Unknown (Unknown)
2024-11-18 08:03:13
お早うございます。
 お互いに健康体であればこそ成り立ってきたのだと思います。年齢がいくに従い、体調に変化が見られてくる時こそ、しんの愛情を知るのではないでしょうか。嫁姑でなく、娘母の同居がうまくいくように思えるのですが社会通念上は、納得できないような現実であるように思えています。 K.M
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