老人が恋について記事を書くと、「この爺い、未だ枯れていないのか?!隅におけない爺いだ」などと思われそうだが、孫たち若者の幸福な恋のために、恥を忍んで書いている。
「恋」と「愛」とは本質的に異質の概念なので、当ブログでは「恋愛」という「恋」を誤解させる妙な造語は、なるべく使わない。
恋は人が先ず誰かを好きになることから始まる。
人は自分のことを好いてくれる人を、好きになるもの。少なくとも憎みはしない。好意を寄せられれば人は誰でも嬉しいから、好い反応をするのである。勿論、端から好みに合わない人の好意は受け入れられないだろう。生理的に合わないという言葉も聴く。
異性に好かれるということは、本能的に潜在する自己愛が満たされることなので、好かれた人は自分を好いてくれた異性に好感を抱くのが普通である。
これはごく自然な心理的機序というものである。自己愛を満足させない人を好きになることは、人間の共有する動物的本能・自己保存欲求が許さない。
同時相惚れというものは、現実にはほとんどない。好意の確認の済んでない者同士が偶々出会って、双方が同時に相手を好きになるということは、人間の男女の心理的機序から言ってありえない。小説やドラマの世界だけのことである。
お互いの自己愛を満足させる好意の発信には、必ず先手と後手とがある。
ペットとの関係もこれに似ている。ペットが懐き慕ってくるから、人はペットが可愛くなるのである。可愛がられれば、ペットはますます飼主が好きになり甘える。
甘えは「好き」の間接的な意思表示なので、飼い主は自己愛が満足され嬉しい。よりいっそうペットが可愛くなる。
誰かを好きになったら、先ずそれを示すことで、恋はスタートを切る。こちらが相手の自己愛を満足させることができれば、相手もこちらを好きになる。好意の応酬があれば恋は成立する。
さてここからが問題である。
恋が成立し、恋人双方が互いの自己愛を満足させると、その自己愛は時間の経過と共に少しずつ飽和され、自己愛の満足に励起されていた様々な情動(恋情)は鎮静化に向かう。恋は自律的に消滅への道を辿るものである。
恋人によって満足させられていた互いの自己愛には、飽和点というものがあったのである。自己愛の飽和が恋を終局に導き、ふたりは訣れのフェイズに入る。
そのフェイズに入る前、恋の成就を実感できたふたりは結婚に進む。自己愛の満足という不慥かな絆でなく、社会的・法的に承認された男女関係に進む。
出産があり、生まれた子どもは新たな自己愛の満足を夫婦にもたらす。子を得たふたりは新たに得た自己愛の満足を支えに、愛を育み家庭を営むのである。「愛」はこの段階で登場する。
ところが結婚が、彼らの両親の自己愛に満足をもたらさないケースがある。結婚が夫の母親のそれまでの自己愛の満足を損なうのである。当然妻は夫の母親によって自己愛を損なわれる。
根深い嫁姑問題の発生の淵源は、嫁・姑の双方の関係が、自己愛の満足を伴わないからである。
それでも孫が生まれると、夫婦の両親は新たに自己愛の満足が得られるので、不毛な嫁姑の確執は影を潜める。
夫婦が家を出て家庭を営むようになると、両親の自己愛満足の対象は孫に移る。孫たちの増加と成長に伴って、その効果は長く続く。その意味(自己愛の満足)で、孫との親密さは、老いた両親には最良の癒しである。「孫自慢」は、その顕れかと思う。
人間というものは、斯様に全生涯に亘って自己愛に突き動かされて生きる存在である。
人は最期を迎えた時に、自己愛に突き動かされた自分を知るのである。
キリストは、この自己愛に発する苦悩から人を救い出すため、神への愛を、この世でただひとり説いた人ということになる。
異性に好感を持ったら、できるだけ早く、その気持ちを相手に伝えなければならない。恋は先手必勝である。誰よりも先に、相手の自己愛を満足させなければならない。
ただし、既に誰かに好意をもっている人に好意を伝えても成功は覚束ない。予め恋人がいるかどうかを確かめてからでなければ、好意を伝えてはいけない。既に彼女又は彼の自己愛は、満たされているからである。
好意を伝える手段は言葉が最良だが、それができない時は手紙がある。だが、字が下手だったら、手書きの書簡は厳禁である。手紙の文字は、読む人にとって容姿に準ずるものである。拙い文字はあらゆる関心を失わせる。その点、現代はスマホメールの時代、これに勝るツールは無い。今の若い人は恵まれている。