道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

金メダル

2024年09月21日 | 随想
人は何かになるために生まれてきたのではなく、どのように生きるかを験されるために生まれてきているのではないかと思う。運命に験され、それにどう対処したかが全てであり、成った成らないは結果である。重要だが大切ではない。

結果を出さないと評価されないのが世の中だが、拘泥する必要はない。なぜなら、華々しい結果に関心がある世間は、個々の無名の人の験された経緯(生き方)には全然関心が無いし、知りたいとも思っていない。験しの評価は自分自身でするしかないが、それで良いのである。世評というものは大きな影響力があるが本質は浮薄である。移ろい易い世評に重きおくと判断を誤る

験された経過は逐一その人の人格や識見に反映され、その人の血肉に成る。自身がどのように生きたかという事実が、成果にかかわらず価値の全てである。

金メダリストになるために生まれてきたアスリートはいない。努力と精進の結果が、金メダル授賞をもたらしたのである。
金メダルと銀メダルと銅メダルの地金価値の差異に比べると、記録上の差異はごく僅かである。もう一回競い闘えば、順位が逆転する蓋然性は極めて高いだろう。
殆ど差のないモノやコトをあると見せかけるのは、常に人を競わせて高みの見物を愉しむ側の便法に過ぎない。権力者はいつでも高見の席に居て、競技を楽しみ、勝った者に栄誉を与える。
今日では、高見の席はテレビで大衆に解放されている。大衆は、権力者の視点で、競技を観ることができる。

アスリートの精進は、メダルの獲得が目的ではなく、自分との闘いそのものにあると思う。メダルを得ようと奮励努力した歩み(経験)が尊いのである。アスリートとは、そういうものだろう。

オリンピックの金メダルは、銀地金に金メッキを施した金張製品だそうだ。メダルはその程度のものとIOC自らが認めている。本当にメダル獲得に価値があると認めるなら、純金にするのが通念というものだろう。
IOCの説明では、開催国への負担軽減に配慮してのことだそうだ。メダルが開催国もちとは知らなかった。

メダル授与は、世界の人々の賞賛を代表してIOCの会長がしているのだから、IOCが負担するのが当然と考える。莫大なTV放映権収入のあるIOCには、それだけの財政的余裕は十分にあるはずだ。これまでの、開催国にあらゆる負担を押し付けるやり方に、批判が高まるのも無理はない。
アスリートたちの純粋さと較べると、IOCのやり方に胡散臭さが付き纏うのは、仕方がないことなのだろうか?
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