道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

リテラシー

2024年09月23日 | 人文考察

リテラシー(literacy)の本意は、読解記述力であるという。そこから「リテラシーが高い」とか「リテラシーが低い」という認識が生まれる。今日のビジネス用語としては「ある分野に関する知識やそれを活用する能力」を指すらしい。

私たちは、人と話し合って、どうしても分かり合えない溝を感じるとき、発想の違いか又はリテラシーの違いにその要因があると考える。発想の違いは乗り越えられないが、リテラシーの違いは努力で乗り越えられる。
相手を嫌って聴く耳をもたないということはあるが、これは論外である。その聴く耳をもたない不寛容が、昭和の日本のテロ事件を生んだ。

1932年(昭和7年)5月15日の夕、時の首相犬飼毅は、海軍の青年将校らの襲撃を受けた。
ロンドン軍縮交渉・満洲国の承認反対・世界大恐慌に発する不況と農村の疲弊など、外交や国内の社会・経済の混迷への不満と、政治家と産業資本との癒着に対する反感と怒りが、襲撃者たちにはあったらしい。

襲撃者たちは、首相に拳銃を突きつけ、「話せばわかる」とたしなめ説得しようとした首相を射殺したと伝わる。軍人による最初の政治テロである。
以後政治家は萎縮し、軍部は政治に容喙することを慎まなくなった。

この事件は、リテラシーの違いの問題でなく、発想の硬直性と、軍人ならではの敵を攻撃する習性の輻輳に因るものだろう。敵視と不寛容は、常にテロリズムの温床である。




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