リテラシー(literacy)の本意は、読解記述力であるという。そこから「リテラシーが高い」とか「リテラシーが低い」という認識が生まれる。今日のビジネス用語としては「ある分野に関する知識やそれを活用する能力」を指すらしい。
相手を嫌って聴く耳をもたないということはあるが、これは論外である。その聴く耳をもたない不寛容が、昭和の日本のテロ事件を生んだ。
1932年(昭和7年)5月15日の夕、時の首相犬飼毅は、海軍の青年将校らの襲撃を受けた。
ロンドン軍縮交渉・満洲国の承認反対・世界大恐慌に発する不況と農村の疲弊など、外交や国内の社会・経済の混迷への不満と、政治家と産業資本との癒着に対する反感と怒りが、襲撃者たちにはあったらしい。
襲撃者たちは、首相に拳銃を突きつけ、「話せばわかる」とたしなめ説得しようとした首相を射殺したと伝わる。軍人による最初の政治テロである。
以後政治家は萎縮し、軍部は政治に容喙することを慎まなくなった。
この事件は、リテラシーの違いの問題でなく、発想の硬直性と、軍人ならではの敵を攻撃凌駕しようとする習慣の輻輳に因るものだろう。敵視と不寛容は、常にテロリズムの温床である。
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