道々の枝折

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頼朝の光と影(その2)

2022年04月04日 | 歴史探索
早く両親を失いながらも、関係者からの救援や養護に助けられ、順調に成人し妻も得た頼朝の人生は、鎌倉に入り、源氏の棟梁ひいては武家の棟梁として御家人たちの期待を強く意識するに従い、影を帯びて来る。

何の権力基盤ももたない流人の座から、一躍数万の兵を動かすことができる源氏総帥の立場に成り、衰退した平氏に替わって朝廷権力と政治的に対峙する身になった頼朝の精神状態が、狷介孤高に傾いたであろうことは理解できる。
〈義仲〉〈義経〉〈範頼〉など同世代の同族に対し、それまで殆ど感じることのなかった情動、嫉妬猜疑が、次第に彼の内奥に蟠るようになっていった。舅時政と妻政子の使嗾が影響していたかもしれない。

それは武士政権の確立を目指す頼朝の、明晰な思考・判断に、微妙な影を落とすようになったと見ることができる。
老獪な〈御白河院〉を頂点とする旧体制の公家政権に対して、武家政権のヘゲモニーを確立するための暗闘により、その影がますます濃くなるのを、頼朝自身で避けることは不可能だった。

以仁王の令旨は、当然ながら信濃の木曽に在った〈源義仲〉〈木曾義仲〉にも届いていた。義仲は頼朝の七才下の従弟である。
義仲は頼朝と平維盛との間で行われた決戦【富士川の合戦】の一年後に清盛が死ぬのを待って、木曽で挙兵した。
信濃・越後から北陸へと兵を進め、越中と加賀の国境倶利伽羅峠で、平維盛率いる7万の大軍を、夜襲戦により壊滅させる。この義仲軍の赫赫たる大戦果は、都にも鎌倉にも直ちに届き、平家一門の心胆を寒からしめると共に、頼朝の胸中に不安の種を蒔いた。
なぜなら、頼朝の叔父〈源行家〉と〈源義弘〉が義仲の軍に加わっていたからである。このふたりの叔父は、始め頼朝を頼ったが、身内に冷淡な頼朝に失望し離反していた。一方義仲は、叔父たちを武将として丁重に迎え入れている。

この叔父たちへの好遇は、頼朝が義仲の謀反を疑う遠因となったようだ。
義仲は叛意のないことを示すため、11才の長男〈義高〉を人質として鎌倉に送る。名目は義高と頼朝の長女大姫との婚姻である。幼い夫婦は仲が良かったらしい。

後に義仲が朝敵として追討を受ける身になった時、義高の身辺が危うくなった。大姫の援けで、義高は深夜変装して鎌倉の館を脱出するが、逃亡中頼朝の命を受けた追手の武士に発見され斬殺された。
この頼朝の処置は大姫をひどく悲しませ、母の政子の怒りを呼んだ。政子は義高を討った武士を怨み、誅殺させている。
頼朝は最愛の娘の幸福を奪った。以後頼朝の人生を、いちだんと濃い影が覆うようになる。

その頃、遠江国蒲御厨(かばのみくりや[現浜松市])で育った頼朝の異母弟(義経には異母兄)の蒲殿こと〈源範頼〉は、駿河・遠江に勢力をもつ甲斐源氏と協力し、駿河国以西の平家勢力の駆逐に力を注いでいた。

【倶利伽羅峠の戦い】に勝った義仲軍は北陸路を西進、立ち塞がる平家軍との戦いに連戦連勝を累ね、2ヶ月で京と近江の境界、瀬田に達した。平家一門は恐慌に陥り、安徳帝を奉じて京を脱し西国へ向かう。
義仲は堂々の入洛を果たし、叔父の源行家と共に後白河院に拝謁、正式に平家追討の下命を受けた。宣旨でないことが院らしい。
鎌倉の頼朝は、明らかに義仲に先を越されたのである。頼朝の心中は、穏やかならざるものがあったことだろう。

武蔵国に生まれた義仲は2歳で父の〈源義賢〉を〈源義平〉に討たれ、危うく殺害されるところを義平の郎党の温情に救われ、信濃国の木曽で成長している。
養親は乳母の夫で豪族の〈中原兼遠〉である。兼遠の実子ふたりと兄弟同様、木曽の自然の中で伸び伸びと育てられた。源氏の御曹司とはいえ、14才から流人として成長した頼朝とは、人格形成期の境遇に大きな違いがある。

義仲は勁直の人で情にも篤かったと推測できる。巴御前の逸話が生まれたのも、故なしとは言えない。
中原兼遠の実子〈樋口兼光〉〈今井兼平〉は義仲の忠実で有能な家来だった。篤い肉親同様の親愛の情と信義で結ばれた絆は強く、このあたりが頼朝とその周囲を取り巻く人々との関係とは対照的である。

御白河院は頼朝が後に「日本一の大天狗」と呼んだ想像の妖怪(ヌエ)のような、腹の底の分からない人物である。若く淳朴な義仲には、仕えにくい人物だったことだろう。

万余の軍勢の長期駐留は、軍紀が緩みがち。兵士の乱暴狼藉が避けられない。そこへ飢饉による都の食糧事情の窮迫が重なり、治安が悪化し始める。都の人々の不満は院に向けられはじめた。院は義仲を見限り、頼朝に軸足を移す。
以仁王の遺児の処遇についてこだわる義仲に院は不快を覚え、ふたりは早くから対立していたのである。義仲の勁直淳良な性格が、院に不興を催させる。院は義仲追討の宣旨を頼朝に下した。

得たりと頼朝は義経を都に先行させ、続いて範頼を自分の代官とする義仲追討軍を進発させた。これに対して義仲は院を幽閉する挙に出るが、賊軍の汚名を着ては立ち行かない。兵の逃亡が相次ぎ、大幅に戦力が減耗していた義仲軍は、源範頼を瀬田川に、義経を宇治川に迎え撃つが敗北、逃走の途中近江国粟津で討死した。

範頼と義経の軍勢は、西国で勢力を挽回し京に侵攻を図る平家との戦いに出撃し、【一ノ谷の合戦】で大敗せしめた。院を始め朝廷貴族たちは大喝采したことだろう。以後賊徒追討軍として転戦を累ね、1185年4月、平家を壇ノ浦で滅亡させた。

都に凱旋した範頼・義経の追討軍は、後白河院をはじめ都の人々の大歓迎を受ける。特に華々しい戦いぶりを展開した義経は、都の人々の人気を集めた。
御白河院の義経への思し召しは深く、早速官位を授け知行を与える。いつの時代でも、ヒーローは実力以上の評価を受けるものである。
これは鎌倉の頼朝にとって甚だ面白くなかった。自分の許可なく官位を受任したことを、僭越と受け止めたのである。しかも義経の幕僚には、軍監として付けられた梶原景時がいて、この人は義経と反りが合わないから有る事無い事逐一頼朝に伝える。軍事の天才義経も、人の気持ちを読むことには甚だ疎かったようだ。

鎌倉に在った頼朝の心中に、再び懸念が湧き起こった。頼朝の暗い感受性が生まれつきのものなのか、時政・政子父娘による感化なのかはわからない。

客気に富む二十代の青年武将たち、血縁で繋がる義仲・義経・範頼を大目に見る度量が、頼朝には欠けていた。頼朝を無二の政治家と褒める人が多いが、何をもって誉を与えるかわからない。政治家とは、人を生かす仕事である。大方、頼朝を尊敬した家康の徳川時代の御用学者が拡めた説だろう。

安房国で再起の旗揚げをした時、〈上総広常〉という有力豪族の参陣が遅れたことを、頼朝は厳しく叱責している。家人でも郎党でもないのだが・・・
頼朝は、義仲と平家を討ち帰還した義経を鎌倉に入れず、追い払ってもいる。
義経は梶原景時の讒言もあって結局謀反の疑いをかけられ反発、逆に頼朝追討の勅許を得ようとするが、大天狗の後白河院は義経を謀り、頼朝に義経追討の宣旨を発する。遠く陸奥に逃れた義経は、庇護者の〈藤原秀衡〉が病没すると間も無く、再三頼朝の恫喝を受けていた〈藤原泰衡〉に居館を急襲され、妻子諸共自害した。31年の生涯、奇しくも義仲の享年と同じである。

義経の異母兄範頼も、頼朝の命ずるままに忠実に働いたが、最終的には謀反の疑いをかけられ、修善寺に幽閉の後誅殺されたとも放逐されたとも伝わる。範頼と連携して駿河・遠江の平家方掃討に功あった甲斐源氏の安田義貞が粛清されているところから、頼朝は範頼と甲斐源氏の勢力が結びつくことを警戒していたと見られる。

義経、範頼の粛清には、鎌倉の力を削ぎたい後白河院の謀略工作があったと見ることができる。平家が滅んだ以上、院の最大の政治的目標は、鎌倉武士政権の勢力伸張を削ぐことにあったのは間違いないだろう。

頼朝は1185年鎌倉に幕府を開き、1192年に征夷大将軍に就いた。頼朝を覆う影はますます濃くなり、53才の早すぎる死を迎える。死因は落馬とも病気とも暗殺とも伝わるが、没前3年の事跡が隠蔽されているところを見ると、謀殺の可能性を否定できない。




















 









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