道々の枝折

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頼朝の光と影(そのI)

2022年04月01日 | 歴史探索
源頼朝は肉親との縁が薄い人だったが、その前半生は人に恵まれ、命の危機を三たび救われている。運の強い人だった。
平氏の専制支配を受けていた東国武士団の願いが、頼朝の身を護る力となって働いていたのだろうか?

〈平治の乱〉で平清盛との戦いに敗れた父〈義朝〉は、僅かな家の子郎党と共に都を後にした。東国へ落ち延びる途中、頼朝は父の一行とはぐれ平氏に捕らえられた。京に連行され、死罪になるところだったが、清盛の義母〈池禅尼〉の懸命の嘆願で罪を軽減され、伊豆に配流された。14才のときである。母は5年前に亡くなっている。これが第一の命拾いだった。

父義朝は、乳兄弟の郎党〈鎌田政清〉と共に、尾張国知多に在った政清の舅〈長田忠致〉を頼った。海路安房国に渡る考えだったろう。しかし、平氏の詮議を虞れた忠致と息子の〈景致〉に謀られ、政清共々殺害されてしまった。

流人となった頼朝は、伊豆の伊東を本拠とする保護役兼監視役の平氏の在庁官人〈伊東祐親〉の保護・監視下に置かれた。乳母の〈比企尼〉(比企能員の叔母)が、その後の20年間、必要な金品を贈り続け、頼朝を援けた。

貴種流離譚は若い女性のロマンチックな憧れを誘う。頼朝自身も母と早く死に別れ、情緒不安定の気味があったかもしれない。要するに惚れっぽいのである。流人の身であっても、年頃になれば恋もする。

監視役の伊東祐親に娘があって名を〈八重姫〉、音に聞こえた美貌とあっては、わりない仲に成るのも不思議はない。父の祐親が大番役に就き京に在る間に、2人の間には子どもまでできた。

任期を終え帰館した祐親はこれを知り激怒する。なんと監視役が、平家への謀反を疑われる立場になってしまったのである。不面目この上ない。
祐親は家人に命じて3歳の孫〈千鶴丸〉を殺害してふたりの仲を裂き、八重姫を他家に嫁がせた。
更に身の潔白を示すため、頼朝を討とうとしたが、頼朝に近侍していた八重姫の兄〈伊東祐清〉が頼朝の危機を救う。祐清は自分の烏帽子親〈北条時政〉のもとへ頼朝を逃がし、頼朝の保護を求めた。これ第二の命拾いである。
時政にも、平家の官人として流人の頼朝を保護する責務があった。伊東氏と北条氏は姻戚関係もある近しい立場だったので、争いには至らなかった。

頼朝の保護と監視を単独で担うことになった時政の長女に〈政子〉がいた。時政が大番役で京に赴任している間に、これまたふたりは愛し合う。その家の主の赴任中に娘を籠絡するのが、伊豆での頼朝のお定まり、要するに懲りない御曹司である。娘たちが放っておかなかったのかもしれない。

役目を了え伊豆に戻った時政は、ふたりの関係を知り大いに狼狽する。
時政は政子を、上司にあたる伊豆国の平氏目代(代官)〈山木兼隆〉に無理やり嫁がせようとした。政子もさるもの、祝言の前に山木の館から着の身着のまま頼朝のもとに逃げ帰り、2人は兵力を擁する伊豆山神社に匿われた。時政も山木兼隆も手が出せない。政子はその後間もなく長女〈大姫〉を出産する。
実質的に駆落ちをされてしまった時政の面目は丸潰れ、さしもの時政も折れ、政子は晴れて頼朝の正室になった。頼朝30才、政子21才の時だった。

4年後、頼朝に転機が訪れる。朝廷に在った後白河天皇の皇子〈以仁王〉が平氏追討の令旨を全国に宣した。頼朝はすぐには令旨に従わなかったが、以仁王が討たれると、平家の疑惑が直接身に及んで来た。

やむなく頼朝・時政は100騎に満たない手勢で旗揚げし、先ず目代の山木兼隆を夜襲し討ち取った。源氏の棟梁の娘婿のために、北条時政はそれまで仕えていた平氏の代官に弓を引いたのである。北条氏に限らず、平氏の専横に対する在地豪族の反感は、東国に満ちていたのだろう。

緒戦に勝った頼朝だが【石橋山の合戦】では、酒匂川の増水で、頼りにしていた関東の軍勢が間に合わず、〈大庭景親〉率いる10倍(3000騎)もの軍勢に惨敗してしまう。

敗れた源氏勢は、敵方による頼朝捜索を撹乱するため、残兵を3手に別けた。
頼朝は箱根から真鶴半島を経て海路安房国へ向かう。時政と次男の義時父子は箱根から甲斐源氏〈武田信義〉の応援を求めて甲斐へ。その後に真名鶴岬から頼朝の跡を追う。
時政の長男で義時の兄〈宗時〉は、敵に目立つルート、函南から平井を経て本拠地の北条を目指した。領内にあと一歩というところで、伊東祐親勢300騎に追いつかれ討たれた。頼朝の身代わりになったかのような最期だった。

頼朝も真名鶴岬に至る直前、平家方の主将大庭景親の捜索の手の者に隠れ場所を探知され進退窮まる。ここで奇跡的に大庭景親の属将〈梶原景時〉に救われる。これが第三の命拾いだった。
東国は父義朝の勢力基盤だった土地柄、義朝に誼を通じた平氏の武士も多かったのだろう。梶原景時は平家を身限り、自らの武運を頼朝に賭けたのである。

父義朝が幼少期を過ごした安房国に逃れた頼朝は、再起の旗を揚げる。
続々と関東一円の豪族たちが参集した。数ヶ月のうちに頼朝軍は数万の軍勢に膨れあがり、大庭景親の守る鎌倉を攻め陥して本拠とした。
更に軍勢を進め、〈平維盛〉率いる平家軍との富士川の戦いでは、〈義経〉の参陣も得て平家軍を潰走させ、鎌倉に堂々の凱旋を果たした。









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