あらゆる専門は各個バラバラなものだが、究極的には統合によって初めて有機的に連結運用され、人間生活の向上と社会の発展に寄与する。日本には専門家は多数居るが、統合家が極めて少ない。統合能力を備えた人物不在の社会である。
卓れた専門家と雖も、専門外には全くの素人である。分野の異なる専門家同士が互いを評定し調整し連携し合うことはできない。したがって、すぐれた専門家(professional)はすぐれた統合家(general)を必要とする。
統合家はコーディネーターではない。
あらゆる専門分野に通じて深い学識と鋭い見識を持つ知的エリートである。統合家の能力は、専門家が活かされたかどうかで決まる。統合家に求められるものは理解力と総合力、すなわち幅広い視野と柔軟かつ緻密な頭脳である。まさに知的エリートである。
政治家というものものは、本来卓れた統合家でなければならない。専門家たちの専門的知識を得て、それを自らの頭脳で統合し、最大多数の幸福の実現に向け政策を実行するのが彼の本務である。
明治になって大学制度が敷かれると、大学は先進の科学を学ぶ専門家の育成が急務となった。その反面、統合家の育成には意を用いなかった。おそらく実用学を重視し、liberalの概念に疎い近視眼的な和魂の見識が、当時の教育界を覆っていたのだろう。中国由来の学問体系と異なる西欧の学問体系に疎い明治のestablishment たちには、自分たちが深く学んだ儒学が liberal arts に代わり得るとの誤認が共有されていたのかもしれない。和魂洋才の言葉に顕れる妙に国粋的なプライドが、偏頗な学部構成を日本の大学にもたらしたと想像される。
以来陋固として実用学、専門学に偏るこの国には、統合家を育てる環境は整えられていない。また、社会の統合家への認識も低い。
ECの政治指導者の多くは、physicalとliberalの両系統の学科を学んだ経歴をもつ人々で占められている。
早くから統合家を目指した文理に明るい人たちはまさに知的エリートと呼ぶに相応しい。そのような人たちの深い学識と教養が、それぞれの国家を支えている。
フランス、ドイツ、イギリスの政治指導者と対等のカウンターパートナーたり得る日本の政治家は、過去にも現在にも、ほとんど見当たらない。素養に大きな隔たりがある。日本の社会は、それに気づこうとしない。
実用学の本家アメリカの政治指導者たちも、統合力の面では、今だにヨーロッパの傑出した政治指導者の後塵を拝している。
ヨーロッパには、ギリシャ・ローマの伝統ゆえか、統合家を最高位と見る文化と政治風土があるように思う。EC域内の国立大学は単位互換制度で結ばれ、学生は国境を超えて大学を転じ、学部・学科・専攻を横断しながら、自らに適した幅広い知識と教養を身につけることができる聞き及ぶ。学費は国費で賄われ、研究内容によっては何年で修了しなければならないというものではないらしい。短期促成では統合家は育たない。すなわち、ECは、独自の優れたキャリアを身につけた統合家を養成する教育システムがある。欧米のひとつの大学に留学して、それで事足れりとするわが国とは違うようだ。
今だに東大をある種の科挙試験と捉えている社会とは、大きな隔たりがある。
科学の急速に進展するこの時代だからこそ、政治指導者は統合家であらねばならない。文理両系統に精通しなければ認識力・判断力の基礎を欠く。4年や6年、ひとつの大学で学んで学歴云々とは、欧米の教育風土から見れば笑止であろう。国は国費を注ぎ込んで統合家=真のエリートの育成システムを構築しなければならない。
私たちは、官僚の書いた原稿を棒読みしたり、プロンプターから目が離せない総理大臣や、官僚の介助がないと国会で答弁できない大臣たちを、嫌というほどテレビで観せられて来た。悲しむべきことである。明らかに、明治、大正、昭和の時代よりも退歩しているのではないか。
統合能力のない政治家が治める国家の国民は不幸である。天下りを念頭においた官僚組織にアレンジされた政策でなく、統合家の信念と見識のもとにつくられた政策で国を動かすのでなければ、国家100年の計は立たない。
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