道々の枝折

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アラ探し

2021年01月24日 | 人文考察
苟も民主主義の国家なら、政権が交代する度に、前の政権の政策の見直しは後の政権の責務であり、その結果新政権は前政権の政策転換の必要に迫られることもあるのが当然である。これは与党内での政権交代であっても、与野党間の政権交代であっても、政権に確固たる意思がある限り発生するはずのもの。ところがわが国では、この当たり前のことの行われることが少ない。
お隣の韓国は見直しが甚だしく、目を覆いたくなるほど問題が多い。政策見直しは政敵を葬る手段となっている。

政策の見直しがなければ、前政権の過誤を修正できない。政権を代える意味がない。しかし、わが国での与党内での政権交代では、政策の見直しをしない。それを必要視する意識が、国民に備わっていない。ツケは国民に回ってくるにもかかわらず。

政治を無謬のものと見せたい政権と、そう思いたい国民との認識が、一致している。
善かれ悪しかれ、政策の正当性より連続性に価値を置く政治風土、変化を嫌う国民性がこのような変則的な民主主義を招いている。

保守政党の政権内での交代では、前政権の政策見直しは絶対に行われない。そのような議案を提出した議員は、党籍を剥奪されることになるのだろう。

日本には、政権交代に伴う官僚組織の総ポスト入れ替えの制度がない。したがって官僚には、前任者の事務見直しをする者がいない。官僚組織には国民の監査が及ばないシステムになっている。無謬で優秀な官僚神話。英語を直訳した公僕は、日本語として社会で通用しない。官僚が怖れるのは、唯一政権による恣意的な更迭である。これは決して民主国家の官僚のあるべき姿ではない。

政治は人事を官僚コントロールのツールにしている。この道具の遣い手が、前政権の官房長官、現政権の総理だった。
人事は国民に知られない密室で決められる。通常の人事システムでないから、裁量権の濫用が疑われてもチェックすらできない。

過去に2回、政策の見直しがあったことが記憶にある。自民党が下野した際と、その後民主党が自民党に選挙で大敗し、政権を明け渡したときがそれである。どちらの時も、有効な政策見直しはできなかった。

そもそもこの国の文化は、政権交代に際して前政権の政策を見直すことに消極的である。お隣の韓国と好対照を示す。わが国には、社会が前任者のアラ探しを嫌う体質がある。アラ探しを嫌悪する淳風がある。

たしかにアラ探しは、誰にとっても不快なものである。だからといって、いつまでも恣意的にアラ探しをして密かに左遷したり詰腹を切らせる手法を続けていては、政治は劣化にしか向かわない。公明性の高いアラ探し=政策見直しが待ち望まれる。

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