同じ行為でも、用いる言葉によって印象をがらりと変えてしまう日本語。話し手や聞き手に悪意が潜在するととんでもないことになる。
右にゆくほど、印象が悪くなり、終いには犯罪性さえ帯びるものもある。
1.抱きしめる→抱きすくめる→羽交い絞めにする
2.にらむ→ねめる→ねめまわす
3.飲む→呑む→呑んだくれる
4.説く→口説く→掻き口説く
5 . 睦む→睦み合う→ 乳繰り合う?(何という悪意の籠った日本語だろう!)
2語を連結する合成語で、意味を強調する形が多い。名詞なら、
急ぎ働き
やっつけ仕事
など。
このような、印象を操作する強調語法の組み合わせは、いくらでも見つかる。話者が悪感情を持って上記の方法で言葉を操れば、いかようにも聞き手に対する行為者の印象を操作できる。
週刊誌の記事に、時々この操作を見ることがある。話題の主は反論の余地なく、読者又は聴者に悪印象を持たれてしまう。論理的に反論しようにも、言い訳を嫌う日本人の通弊によって、それをすればするほど読者は確信を深め、当人の立場は悪くなる。
話し手の言い方ひとつで、聞く人の印象を自在に毀誉したり褒貶できるということは、我々の使う言語が、論理性よりも情緒性を優先するようにできているということである。
日本語は情緒を表現するには素晴らしい言語だが、その非論理的構造は英語の対極にあると言ってもよいのではないか。心して使わなければいけない。国際的に見て英語学習の成果が低いのは、論理的構造の違いにその要因があるのではないか?
また、日本語はストレートな感情表現を隠す傾向があるから、話し手が人のことを語る時には、聴き手は話し手のその人に対する隠れた感情のバイアスに注意して、聴かなくてはならない。そうでないと、話し手の印象操作の術中にはまり、第三者のことを虚心に観ることができなくなる。
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