道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

ご縁第一

2025年02月02日 | 人文考察
私たち日本人は、大昔から血縁・人縁・地縁をとても大切にしてきた。
「縁」に恵まれて生きることが、人生をより豊かにすると、先祖たちは考えていたに違いない。

個人の知識よりも発想よりも、「縁」が人に幸福をもたらす最大の手がかり足がかりになるという考えは、日本の社会に遍く定着しているように見える。
「寄らば大樹の陰」とは、「縁」を辿って大樹に辿り着き、そのお陰を蒙ろうとする心情の顕れである。それは日本人に限らず、社会を構成する人々に普通の気持かも知れない。

だが「縁」を重要視し過ぎると、自分と「無縁」の者を「何処の馬の骨かわからぬ」などと蔑視したり無視したり、時には差別する陋習に染まることになる。「縁」を過大に評価すれば、差別主義に陥るのは避けられない。

「縁」の重要視は、昭和の高度経済成長期に現れた「人脈」という言葉と重なる。「縁」は「人脈」と謂う造語にとって代わられた。
山稜を辿り頂上を目指す様に、有力な人脈を辿り地位の頂点を目指せと謂うのである。甚だ短絡的かつ功利的な考えだが、企業の新入社員たちはそれを真に受け、ありとあらゆる機会を捉えて「人脈」をつくることに腐心した。

企業の営業活動とは「人脈」の開拓と涵養、そしてその利用に尽きると考える功利主義が世の中に蔓延っていた。
当時の書店の棚には、「人脈」を増やすコツを教えるハウツー本がズラリと並んでいた。
働き盛りの人たちには、高校や大学の同窓会や、米国由来の社交クラブが、人脈掘り起こしの場として重宝された。
見かけ上の交際をいくら広く厚くしようとも、本当の「人脈」すなわち「縁」は、簡単に深まるはずもないのだが・・・

人と人の「縁」は、それぞれの人生において、経時的に自然・偶然に結ばれるもの、あれこれ人為を尽くして「縁」を獲得しようと謀るのは、不自然である。 臆面もなく「人脈」づくりに汲々とする姿は、あまり見好いものではない。それでも人々が人脈づくりに奔走するのは、経済社会がそれを督励し要求するからである。

企業は売上げ増大のために、営業社員に「人脈」づくりを求める。個々の社員の人脈づくりは、会社へのloyaltyを示す尺度でもあった。企業の社員にとって「人脈」は、「学歴」と並ぶ重要な資産だった。

スマホの普及とコロナの蔓延は、企業社会から対面接触の場を激減させた。販売の活動から対面折衝が減り、リモート営業の頻度が高まるに伴って、「人脈」の涵養(接待など各種の対人接遇)は困難となりつつある。

グローバルな国際化の時代、地球の反対側の見も知らない国々からモノを買い,モノを売るのが当たり前の時代の対人接遇に、「縁」などと悠長なことを言ってはいられない。
今日では、信用供与のシステムも整備され、取引を担保する制度が拡充されている。営業マンなら、初めて出会う取引先の社員とも10年の知己の如く接しなくては、営業センスを疑われるだろう。面識もない無縁の者同士が億の取引をする時代に「縁」の重みは軽くなる一方だ。
「何処の馬の骨」などと謂うフレーズも、「人脈」の語と共にひっそりとこの世から消えていくことだろう。

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