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てんちゃんのビックリ箱

~ 想いを沈め、それを掘り起こし、それを磨き、あらためて気づき驚く ブログってビックリ箱です ~ 

ショパンコンクールにおける角野隼斗(かてぃん)氏の演奏に関する雑感

2021-10-20 21:37:17 | 音楽会


 私は音楽についてはまるっきりの素人だが、今年は秋までのMLB中継で大谷選手の活躍を眺めていた流れで、今はショパンコンクールを見ている。日本人が活躍していてうれしいと思ったら、ネットの中で騒ぎが起こっていて面白いので、それを紹介する。

1.初めに
 大学の1年生の時、選択で美学の講義を受けた。その時2回目かの講義で、鮮明に記憶に残っていることがある。
 その時講師が言った内容は、下記だったと思う。
「絵画等の美術では、作家が作り上げたものを鑑賞者が見ることで作家の芸術性を感じる。それに対して音楽では、作曲家が楽譜に表現し演奏家が奏でたものに対して、聴衆が作曲家と演奏家それぞれの芸術性を感じることになるというのが基本である。」
 
 ところが美術については、マルセル・デュシャンが既成品の小便器を「泉」と名付けて発表して以来、芸術性は作者および鑑賞者の感性の両者の協業によるものとなった。その結果鑑賞者に多くの努力を要求するとともに、作品が理解でき感動する鑑賞者と理解できない鑑賞者の両者がでてもしょうがないということとなった。そして勝手な自己主張、勝手な理解のもとに局在化する新興宗教の教祖がたくさん現れ、現代アートは花盛りとなった。
 
 音楽に関しては、過去からの継続性を持つ範囲をクラシックと称し、異分子をポピュラーとかジャズとか区分して名付けて、伝統的芸術対象から追い出した。そして音楽の分野で追い出した分野が非常に大きくなっても、クラシックはを作り孤高を守ろうとしてきた。
 それが角野隼斗(かてぃん)氏のショパンコンクールでの活躍によってかなり揺らいでいるようである。
 
 現在は音楽の方も、芸術は作曲者、演奏家、聴衆で成り立っているということになっている。かてぃんのショパンコンサートの活躍であらわになったのは、作曲者と演奏家の役割分担を変える動きが、作曲家の名前のコンクールででてきたこと。

2.かてぃんさんとは 
 かてぃんさんは下記のように大した人。
 Wiki等から引用してみた。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%87%8E%E9%9A%BC%E6%96%97
  

 ・母親がカリスマピアノ教師で、小さいころからピアノ教育を受け、小学校6年までに多数の賞を受賞
・開成中学→開成高校→東京大学工学部と進学、その間大学3年まではコンテストに不参加
・大学4年から再度コンテスト参加、高レベルの賞を取得
・東京大学大学院にも進学。情報関連の研究科で、テーマは「機械学習の手法を用いた自動採譜・自動編曲」。フランスの研究機関へも半年留学。その間もピアノのコンテスト参加し重要な賞を受賞、その活動に関して東京大学総長賞受賞。
・大学院修了後、ピアニストとして活動することとし、クラシックコンサートだけでなく、ジャズやポピュラーとのクロスオーバー、作曲など多岐にわたる活動を開始。
・特に顕著なのが、you tuber としての活動。10年以上の活動を続け、80万人のチャンネル登録者がいて、最近では月に1回生配信ライブを行っている。
 神とあがめる人もいる。

 書くだけでしんどくなるほど、化け物のような才人。


3.現在起こっていること
 この角野さんがクラシックのジャンルで活動し、特に最高権威であるショパンコンクールに参加し好成績を修めたこと(3次予選・セミファイナルまで進出、残念ながらファイナルには行けなかった)で、従来からのクラシック愛好家がインターネット内で荒れている。ただしもちろんユーチューバーは喜んで大騒ぎしている。
 (5チャンネルでの論争の例)
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/piano/1628694621/l50  
 
荒れる原因は、下記のようである。
・通常の音楽大学を出ていない、ユーチューバーという理解しえない存在
 ・角野さんを許容するにしても、狭いクラシックへ有象無象の(例えばポロネーズをポロネーゼというような)角野さん信奉者が大量に入ってくること
 ・従来からのクラシック愛好家で、角野さんの演奏を受け付けない、拒絶反応を示す人が多数いること。

 この3番目に関して丁寧な下記の記事があり、内容が好評価を得ている。
https://note.com/sigure4444/n/n2e3fe1cd81ef
 その内容はざっと下記のようなものと解釈した。
・今回のショパンコンクールのコンテスタント、従来の演奏家はショパンに敬意を表し、ショパンの考えていることや、その背景を考えつくし、これまでの演奏家の蓄積を参照し自分の解釈を構築して演奏で表現しようとしている。だから演奏の文脈やその経緯がわかる。
・角野さんの演奏には、ショパンの楽譜を外骨格としてそれを演奏して楽しもうとしているだけで、ショパンへの敬意やこれまでの多数の演奏家の解釈への理解がない。
・角野さん以外の演奏家の演奏結果は、ショパンの思いとその後の演奏の歴史的背景を基盤としているが、角野さんの演奏は曲が生まれたすぐに、自分の感情を乗せてエンターティメントの産物である。

 この記事を書いた人が全く受け入れることができないといった、角野さんの第2次予選の英雄ポロネーズを再度聞いてみた。そして他の人の演奏と比較した。なお私が最初に聞いたときはとても軽やかかつロマンチックで、で新鮮でいいじゃないと思っていた。

 (角野さんの2次予選の英雄ポロネーズの演奏 下記の1時間23分後のあたり)
https://www.youtube.com/watch?v=blJxhPp4wXM&t=5108s
   youtubeでほかの人の演奏を聴いたら、独自性がわかる。

 再度聞きまた他演奏家と比較の結果、確かに他演奏家にほぼ共通に感じられるものがあるとともに、角野さんはそれにとらわれずに自由に演奏しているなと思った。また角野さんの演奏技術はかなり高いのだけれども、ショパンコンクールとなるとさらに超絶技巧の人がいて、クラシック愛好家としては相対的にそれも貶したい思いにとらわれるのかなと思った。

4.従来クラシック愛好家に受け入れられないということについて
 ある程度の従来クラシック愛好家に、角野氏は演奏方法から受け入れられないとされているようである。
この問題は、美術における作者と鑑賞者の境界線の話に似ていて、音楽における芸術的評価の作曲家と演奏者の境界線をどうするかということであり、それが聴衆の立場に影響を与えようとしているのだなと思った。
 従来からのように作家の思いをこれまでの履歴を参照し演奏家が解釈して演奏すると、聴衆としては、これまでの蓄積を基とする仲間との共通の言葉でその演奏を話し合うことができる。それは深く感動することにもなるし、また逆に演奏のプロセスだけで満足することにもなりかねない。そして新しく入ってこようとするものには排他的になってしまう。
 もし角野さんの演奏のように、作曲家は外骨格だけでその中を演奏家のイマジネーションで埋めるという状況になったとしたら、聴衆としての経験があまり働かず従来からの愛好家は、自己満足しにくい。演奏に対し、聴衆としての経験者/未経験者問わずに感動するかもしれないが、感動の表現が言い尽くせず、深くなくまた一過性になる可能性もある。


5.今回の角野さんの演奏への推定と今後
 角野さんはショパンにかかわるサマーキャンプにも参加し、またショパンコンクールの数年分を分析したということである。
 頭が非常にいい人で分析力も高いから、従来のクラシックファンが期待しているような演奏パターンも理解していたと思う。過去にはクラシックファンの期待に合わせたような演奏もある。
 しかし彼はコンクールでは異質の解釈で勝負をかけた。クラシックファンの期待に沿うような演奏では、超絶技巧を持っている他のコンテスタントに対して自分は勝てないということ、そしてむしろ自分が他のコンテスタントに比べて優越していると考える発想の違いや構成力で勝負してみようと思ったのではないだろうか。
 いずれにせよ彼が違う発想で、ショパンコンクールを3次まで勝ち抜いたということは、
これからの音楽家の発想や活動を広げるという、音楽界に影響を与えるという大きな勲章になったのかもしれない。


6.おわりに
  角野さんのところにはたぶん審査員の会議の状況の情報が流れていくだろう。また今回のコンクールはyou tubeに公開しているので、多くの演奏情報が存在する。彼は高い分析能力でそれらを分析し、より高みを目指すだろう。
 それよりも、AIによる作曲と演奏で人を感動させる、そして究極には人を操ってしまうといった研究を進めるかもしれない。

コメント
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