トライアローグ展の3回目。第Ⅲ章の1960年以降の作家の作品群で私の子供時代以降に相当する。会場で作品の写真を撮っているが、ここでは展示会のポスターや美術館がパンフレットやtwitterで公開している画像などを用いて説明していく。
そして、この時代の作品についての私の勝手な考え方も書きます。
第III章 1960s- アートの多元化
ネオ・ダダ、ポップ・アート、ヌーヴォー・レアリスム、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートなど、多元化する現代アートの様相を俯瞰するとのこと。
作家としてはイヴ・クライン、ルーチョ・フォンタナ、フランク・ステラ、ロバート・ラウシェンバーグ、ジム・ダイン、ロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホル、フランシス・ベーコン、クリスチャン・ボルタンスキー、クリスト&ジャンヌ・クロード、ゲルハルト・リヒターほか
この時代の作品は、見る人にとってなかなか難しい。第1章で述べたデュシャンが、作品は作者ではなく観る人がその意味を考えよということを主張した。ただし作品自体は作者のオリジナリティがあるものでなければならない。現代アートはその流れになっている。
そこで作者は独自のコンセプトや表現法を発明および主張する。それに対して観る人は驚き、自分に結びつくなにかをイメージしなければならない。観る人は自分の頭を絞るかまたは有名な評論家が見出した価値を「なるほど」と勉強することになる。
作者側は観る人に自分の世界へ入ってほしい(自分の作品だけを見てほしい、作品に大きなものが多いのは視野を全部埋めたいからと思う)そうでなければわからないと期待しているのだが、我々は美術館で他者の作品と並列に観ていて時間も限られているので、作家の期待には沿えない。
私はこの辺りの作品を観る場合は、驚いたり面白いといった基準で見ていて、特に顕著なものは後で調べたりしている。
ここで展示されたもので、初見でおっと思ったもの、二度目とかその作家の他の作品を見ているがやっぱり面白いと感じたものを、下記に並べる。
(1) アンディ・ウォーホル
彼はイラストレーションに関わる転写技術を発明しているが、身近な暮らしの中にある例えば大量生産されているものの美しさを発見し、大量生産できる転写技術でそれを表現することを発明した。ポップアートと呼ばれるジャンルを作り、美術品の量産性からも芸術の商業主義に貢献した。
この人はメジャーということで、3館がそれぞれ展示品を出している。そのうち2作品
を示す。
<ウォーホルの作品 2点>
左:マリリン10点組の1枚 T(1967) 右:レディースアンドジェントルメン A(1975)
マリリンの作は彼女の死亡記事が出た直後に、彼女の写真を引き伸ばし、いろんな色の版画にして10組並べたもの。パターンは写真にお任せで、色の組合せと全体構成で作品を作り商業ベースに載せるという発明を行った。右も同様でポラロイドを引き伸ばしアクリル絵の具に転写している。どこにもありそうなものだが大胆な配色とパターンで、美に対する油断に気付く。
(2)イヴ・クラインとアルマン
彼らは大量生産や大量の廃棄物といった現代を見据えたヌーヴォー・レアリスムという運動を推進した人。
クラインは単色で対象を表現しようとしたが、特にブルーを神秘な色として拘り、「インターナショナル・クライン・ブルー」という顔料を開発し特許まで取得した。下記の左の展示作品は、肖像にその鮮やかなブルーが彩色されている。金箔のバックに痛々しいほどの青が映えて驚く。
右は彫刻の対象となったアルマンの作品で大量の廃棄物に視点を置いていて、アクリルの塊の中に壊れたバイオリンが閉じ込められている。美というよりも現代はこんなものだよねと納得する。
<左:クライン「肖像レリーフ アルマン」A(1962) 右:アルマン「バイオリンの怒り」T(1971)>
(3)ゲルハルト・リヒター
現在のドイツ最高峰の画家と言われている。寧ろ2020年にポーラ美術館がアジア最高価格の30億円で作品を購入したことで有名となった。その人の作品を価格があがる前に富山美術館が購入していたということで、その目利きが評価されている作品。
初期は抽象表現主義の影響を受けた。その後いろいろなコンセプトいろいろな技法で、多種の作品を同時並行に格闘して描きつつ、理想の絵画を求めているとされている。彼の作品の製作過程が映画化されているが、ベタッと重ね塗りしたり削ったりと体育会的な活動によって製作されている。この作品はカラフルで素敵だが、ものすごい評価を理解するにはまだ勉強しなければ。
<リヒター 「オランジェリー」> T(1982)
(4)フランシス・ベーコン
ベーコンは豊田美術館に数枚ある。他の作家と異なり具象に拘ったのだが、単なる具象でなく対象を現実より醜く描く中で、人間の根源的な不安をえぐりだす作家とされている。デフォルメして醜く描くというのがきっと彼としての発明だが、モデルとして描かれている人はどう思うだろう。
観る人としても、いやなものを見てしまったという嫌悪感とともに、でももっとちゃんと観なければという気持ちにさせる。
<ベーコン 「座像」> Y(1961)
(5) クリスチャン・ボルタンスキーとジョージ・シーガル
まずボルタンスキーのシャス高校の祭壇という作品。
<ボルタンスキー 「シャス高校の祭壇」> Y(1987)
この章の立体作品の中でもっとも印象が強かったのがこの作品。第2次世界大戦の前にウィーンのユダヤ人学校にいた生徒の写真が並べられて祭壇のようにランプに照らされている。その後のホロコーストを想像して恐ろしさに心が揺れ動く作品である。
ただし作品とホロコーストの関係を知らなければその意味は分からない。このように現代美術は作品の背景を知って感じるべきということになっているが、その基盤的知識が時代とともに薄れていくと作品の価値はどのようになっていくのだろう。
シーガルは、かつてはルール違反であった対象そのものから型を取るのに似た手法を開発して、着衣の人物像を製作した。その手法とは石膏を浸みこませた包帯を巻き付けるという方法である。
作品から、よく映画等で見るアメリカのやや裕福なアメリカの夫婦の日常そのものが伝わってくる。こんな身近にそれがあっていいのかという驚きがある。それとともにリアルなものの一瞬が固定されてしまったという居心地の悪さを感じる。よくSFにある時間が止まり、人々が固まっている中を、歩いていく感じ。
<シーガル 「ロバート&エセル・スカルの肖像 A(1965)>
ともかくこの時代の作品は表現方法が百花繚乱。第1章のように評価の定まったものをカタログ的に集めることは難しく、それぞれの美術館も購入の選択に苦労しているだろう。目利きができれば富山美術館のリヒターのように一発あてるかもしれない。
それとともに、展示方法も難しい。こういった現代美術を観るためには、美術館の側で教育とまではいかないにしても、刺激の工夫が必要と思う。
似たようなことを再度書くが、現在進行中の美術は、作者は新しいコンセプトと技法でオンリーワンとしての自分をアピールする。それに対して観る人側でも意義を気づかなければいけないということから、観る側のために評論家が解釈を積み上げる。そして新興宗教の信者みたいに、自分の生きるためと購入費を積み上げるコレクターがいる。そんな感じで価格が決まり、それが芸術的価値に重ねられている。でも今後の時間経過の中で、いろんな変動が起こるだろう。
そういったことはともかく、このⅢ章の対応期間は私の人生の経過時期であり、美術がこんな感じでじたばた動いている中で生きてきたのだと感慨深い。
なお、私は現代美術の展示会を観る時は、作品とともにそれを観ている人の様子も観察します。作品の見方として勉強になることが多いです。