前回、岡本太郎の立体作品と五行詩を投稿したが、今回は 岡本太郎 展示会の概要を示す。
展覧会名:展覧会 岡本太郎
場所:愛知県美術館
開催期間:2023年1月14日(土)から3月14日(火)
訪問日:2023年1月17日
展示構成:
第1章:"岡本太郎"誕生 ーパリ時代ー
第2章:想像の孤独 ー日本の文化を挑発するー
第3章:人間の根源 ー呪力の魅惑ー
第4章:大衆の中の芸術
第5章:ふたつの太陽 ー[太陽の塔]と[明日への神話]
第6章:黒い眼の深淵 ーつき抜けた孤独ー
惹句:史上最大のTARO展がやってくる。
0.はじめに
私が岡本太郎に興味を持ったのは、やっぱり大阪万博の太陽の塔がきっかけだった。「芸術は爆発だ」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」など、いろいろとCMに出てきて、それまで文化勲章をもらっている芸術家のイメージがあったから、そのイメージをぶち壊す変なおじさんだった。
それで本屋さんにあった「今日の芸術」を読み、革命的な内容に非常に納得し、周りに一生懸命読むことを勧めた。その感動を共有しようとしたが、結局あまり伝わらなかったようだ。でも私が現代アートに興味を持つきっかけとなった。
だから当然、この美術展に行った。
第1章:"岡本太郎"誕生 ーパリ時代ー
岡本太郎は、1929年に家族とともにパリへ行って芸術家を志し、両親が1932年に日本へ帰った後もパリに滞在し、1940年のナチスのパリ侵攻時に帰国した。家庭は父親が大人気な漫画家で放蕩者、母親が大地主の娘で家事育児が全くできないというこれも有名な文芸家で家庭内の愛人を住まわせているという人だった。その愛人も一緒にパリに来た。
そんな家族だから逞しく育ち、パリで一人離れて自由の価値を理解し、やりたいことをやり種々の場に参加し、積極的な言動で多くの画家、そして多分野の著名人と知り合っている。日本の画壇とは関係なく子弟関係も存在せずに、海外で評価された抽象画家が出来上がってしまった。それもピカソの絵に衝撃を受けたが、それを超えることを目標するという鼻っ柱の強さを持っていた。
日本の学校では成績はびりだったようだが、パリではとてもエネルギッシュに動き、前衛芸術家の基盤と人脈、そして理論武装を作りあげたようだ。この頃に描いた絵画は、すべて戦火で焼失し、モノクロの画集しか残っていない。ただし一部は戦後再製作された。
下記に2点の再製作されたものを示す。
「痛ましき腕」 1936(1949再製作)
国際シュールレアリズム展で高評価されたもの。日本では知らない人がいきなり国際的な舞台に飛び出した。
若さ溢れてとんがっている絵だと思う。色がとてもシャープ。
「露店」 1937(1949再製作)
この作品はアメリカのグッゲンハイム美術館に寄贈されたもの。前の作品がプロテストしているのに対して内省的なロマンチックな作品。この2枚が再製作されているのは対極的でなるほどと思う。
第2章:想像の孤独 ー日本の文化を挑発するー
彼は、日本帰国後に徴兵され、中国戦線で高級幹部におもちゃにされたようである。
中国で、下記のような高級将校の絵を描いている。やはり軍支配の元では、ちゃんと具象の肖像画を描いている。そして絵画の基礎教育の基盤はあるのだなと思った。
「師団長の肖像」 1942
戦後に戦地から帰ると、多分従来の日本画壇とのしがらみのなさと発言力から一気に日本の前衛芸術の活動の中心となる。
下図は、周りから要請されて リーダーとなった前衛芸術家集団「夜の会」の初回展示会の作品で、ナイフを背に隠したうら若い少女と前途の魑魅魍魎(木に骸骨が乗っている)が対比してリリックに描かれている。女性のイメージはsの頃の普通の人と違って、彼の母親のように強い人だったのだろう。魑魅魍魎すなわち既成の芸術界へ戦いを挑もうとしている。ただ太郎の主張を真に理解している人は日本にはいず、厳しい戦いだったのだろう。
「夜」 1947
「対極主義」を掲げて絵画制作、著作の成果を挙げた。岡本太郎の独自の理論である対極主義とは 「芸術家の基本的な姿勢とは対立する二つの要素をそのまま共存させることである」とする主張である。まず対極としたのが、合理主義から生まれた抽象画と非合理主義の産物であるシュールレアリズムでありキャンバスで融合させようとした。
先ほどの絵も2者対立だったが、次の絵は彼の代表作と呼ばれている絵画で、強きものと弱きものの対比、技法として抽象とシュールの融合がなされている。岡本の絵の中では緑の面積が広く鮮やかで美しく、真ん中の赤との対比が素敵だと思う。そしてチャック、この存在は楽しく開けてみるという楽しい想像ができる。いろんな書き込みも楽しく、代表作というのも頷ける。
「森の掟」 1950
第3章:人間の根源 ー呪力の魅惑ー
前衛活動とともに自分のアイデンティティを探るべく日本文化の出自に眼差しを向け、1951年に縄文式土器の美術性を見出した。従来の日本の美とされている「侘び、寂び」とは異なる、その根源的な美の重要性を喧伝するとともに、自分の作品に取り入れた。そして海外を含むフィールドワークを実施し、民族学的な美を探った。その中で呪術的な世界観を見出した。
柳田国男らが「民藝」という従来とは違う日本の美を見出して活動していたが、岡本太郎はもっと大きな視点で縄文時代から脈打つ美の流れを見出すとともに、沖縄の本州とは異なる文化、北海道のアイヌの文化の美を見出した。これは日本文化の研究や鑑賞に対する非常に大きな貢献で、私たちは彼に感謝しなければならない。
そういった中で表層の現代とは異なる人の奥底に潜む古代からの呪術らしきものに目覚めた。それがその頃描かれた絵画に、うねった太い黒い線として現れている。
下の図はそのころの作品である。
「愛撫」 1964
第4章:大衆の中の芸術
1952年以降 壁画や屋外彫刻、そして生活用品のデザイン等、大衆に接する分野へ飛びだしていった。
多分フィールドワークの中で、一般の人へもっと自分の芸術を知らしめたいということ、そして大衆の中に自分が出ていくという新しい活動をすることによって、自分そして自分の作品が変化することへの歓びがあったのではないだろうか。
その頃の作品としては壁画や野外彫刻で、国内で70箇所以上で展示され、一般の人との関わりが強くなっていく。
「日の壁」 旧東京都庁大型レリーフ 取り壊し 原画展示
国際建築絵画大賞受賞。
「星・花・人」 1971 オリエンタル中村デパート大型レリーフ 取り壊し 原画展示
デパートの目標とするイメージを描いたもの。
そういったパブリックアートに加えて、日常品のデザインも手がけるようになる。
「時計」 1967 「椅子」 1967/1968
第5章:ふたつの太陽 ー[太陽の塔]と[明日の神話]
第4章の大衆の中の芸術の究極の形が太陽の塔である。その頃メキシコではそれの対極の形で壁画「明日の神話」が製作されていた。
岡本は1970年の万博、テーマ館のプロデューサーとなったが、「人類の進歩と調和」というテーマには反発していたようである。通常の万博テーマ展示ならば、ロンドンの水晶宮やパリのエッフェル塔といった新技術の固まりみたいなものになるが、岡本太郎の場合は新技術でできた広い天井を突き破って、日本列島の主のような呪術的存在が博覧会全体を見渡すように立ち上がる。
一応未来、現在、過去の顔という形、そして内部の生命の樹で、人類の進歩を示そうとしているが、未来はこんなに表情のない仮面であっていいのかとおもうし、塔の後ろにある過去の顔は呪術的そのもので表の顔とは違い、彼のいう「対極」がいろんな所にある。そしてこの像によって大阪万博は忘れられないものとなった。
「太陽の塔」の現在と未来の顔 1970 裏面にある過去の顔
明日の神話は原子爆弾の破裂時の状況を示す壁画で、あるホテルの壁面を飾るはずだったが、ホテル自体がオープンされず暫く行方不明になっていた。このテーマでホテルの壁面を飾るつもりということに驚くが、太陽の塔が一応人類の進歩をテーマとしているのにたいし、後者は技術の暗黒面を意味するもので対極にある。現在は渋谷の連絡通路に設置されている。
「明日の神話」原図 1968
中央に放射性物質を浴びながら焼かれる人がいる。その周りにも燃える小さな人々が描かれている。赤い炎が大地に沿って広がっていくとともに、暗い宙には異形のものが浮かぶ。右端のほうには逃げ出そうとする集団がある。凄惨な場面を描いているのに、華やかな色の洪水であり、岡本太郎の描いた経緯を知らない人はどう思うだろう。
岡本太郎の秘書の岡本敏子によれば、禍々しい破壊の発生に対して、それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがっていて、それで「明日の神話」が生まれようとしているとのこと。
明日の神話の燃える人 第五福竜丸?
第6章:黒い眼の深淵 ーつき抜けた孤独ー
万博以降に作品の発表は少なくなった。むしろ前衛芸術を広めようとする人寄せパンダのようだとおもっていたが、高齢になってもエネルギッシュに製作を進めていたとのこと。
それらの作品群は黒い眼が強調されている。絵描きが眼を描くというのは、その眼も使ってもっといろいろなものを見たいということか、それとも自分で自分を監視する目を作って自分を律したいとおもったのか・・・ 高齢にもかかわらずパワフルに大画面を塗りつぶしている。
「遊魂」 1988
そして未完の絵画 雷人。今までとh全然違う色彩で、もっといける、もっと行きたいと高みを見上げているのだろうか・・・
「雷人」 1995(未完)
7.おわりに
私はこれまで、岡本太郎の発言内容が好き、そして造形も好きだが、絵画に関しては少しピンと来なかった。でも最初のリリックな絵を見たこと、その後基本は変らないけれども、「同じことを繰り返すなら死んでしまえ」と自分が言った言葉通り、思考していろんなことを取り入れそして新しい見せ方を考えて行くことによる絵画の変遷を観て、かなりわかりつつある。
何より、異常な家庭に育ち、海外で日本と切り離された状態で芸術家兼美の発見者として自立した人が、芸術界どころか日本の社会に大きな刺激を与えたことに感謝しなければならない。
そして下記の点で非常に業績は大きいと考える。
(1)日本の前衛芸術の主張を、言葉で語れる主導者となった。
(2)フィールドワークによる、縄文等の古代からの美(侘びや寂びではない)、民藝運動とは違った視点からの地方文化の美の新発見
(3)パブリックアート活動
(4)太陽の塔という、古代からの日本にあった呪術の具現化。
(5)「明日の神話」というピカソのゲルニカに相当するような破壊を表す絵画で、破壊への抗議だけでなくそこかの再生の意志を書き込んだこと
(6)ベトナム戦争、第五福竜丸など社会的な事件への芸術家としての反応の仕方
岡本太郎はピカソを超えることを目的としたが、「明日の神話」は前述の様に破壊だけでなく再生を書き込んだことで、それを読むことができる日本人にとってはピカソを超えたと言ってあげてもいいかもしれない。
展覧会名:展覧会 岡本太郎
場所:愛知県美術館
開催期間:2023年1月14日(土)から3月14日(火)
訪問日:2023年1月17日
展示構成:
第1章:"岡本太郎"誕生 ーパリ時代ー
第2章:想像の孤独 ー日本の文化を挑発するー
第3章:人間の根源 ー呪力の魅惑ー
第4章:大衆の中の芸術
第5章:ふたつの太陽 ー[太陽の塔]と[明日への神話]
第6章:黒い眼の深淵 ーつき抜けた孤独ー
惹句:史上最大のTARO展がやってくる。
0.はじめに
私が岡本太郎に興味を持ったのは、やっぱり大阪万博の太陽の塔がきっかけだった。「芸術は爆発だ」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」など、いろいろとCMに出てきて、それまで文化勲章をもらっている芸術家のイメージがあったから、そのイメージをぶち壊す変なおじさんだった。
それで本屋さんにあった「今日の芸術」を読み、革命的な内容に非常に納得し、周りに一生懸命読むことを勧めた。その感動を共有しようとしたが、結局あまり伝わらなかったようだ。でも私が現代アートに興味を持つきっかけとなった。
だから当然、この美術展に行った。
第1章:"岡本太郎"誕生 ーパリ時代ー
岡本太郎は、1929年に家族とともにパリへ行って芸術家を志し、両親が1932年に日本へ帰った後もパリに滞在し、1940年のナチスのパリ侵攻時に帰国した。家庭は父親が大人気な漫画家で放蕩者、母親が大地主の娘で家事育児が全くできないというこれも有名な文芸家で家庭内の愛人を住まわせているという人だった。その愛人も一緒にパリに来た。
そんな家族だから逞しく育ち、パリで一人離れて自由の価値を理解し、やりたいことをやり種々の場に参加し、積極的な言動で多くの画家、そして多分野の著名人と知り合っている。日本の画壇とは関係なく子弟関係も存在せずに、海外で評価された抽象画家が出来上がってしまった。それもピカソの絵に衝撃を受けたが、それを超えることを目標するという鼻っ柱の強さを持っていた。
日本の学校では成績はびりだったようだが、パリではとてもエネルギッシュに動き、前衛芸術家の基盤と人脈、そして理論武装を作りあげたようだ。この頃に描いた絵画は、すべて戦火で焼失し、モノクロの画集しか残っていない。ただし一部は戦後再製作された。
下記に2点の再製作されたものを示す。
「痛ましき腕」 1936(1949再製作)
国際シュールレアリズム展で高評価されたもの。日本では知らない人がいきなり国際的な舞台に飛び出した。
若さ溢れてとんがっている絵だと思う。色がとてもシャープ。
「露店」 1937(1949再製作)
この作品はアメリカのグッゲンハイム美術館に寄贈されたもの。前の作品がプロテストしているのに対して内省的なロマンチックな作品。この2枚が再製作されているのは対極的でなるほどと思う。
第2章:想像の孤独 ー日本の文化を挑発するー
彼は、日本帰国後に徴兵され、中国戦線で高級幹部におもちゃにされたようである。
中国で、下記のような高級将校の絵を描いている。やはり軍支配の元では、ちゃんと具象の肖像画を描いている。そして絵画の基礎教育の基盤はあるのだなと思った。
「師団長の肖像」 1942
戦後に戦地から帰ると、多分従来の日本画壇とのしがらみのなさと発言力から一気に日本の前衛芸術の活動の中心となる。
下図は、周りから要請されて リーダーとなった前衛芸術家集団「夜の会」の初回展示会の作品で、ナイフを背に隠したうら若い少女と前途の魑魅魍魎(木に骸骨が乗っている)が対比してリリックに描かれている。女性のイメージはsの頃の普通の人と違って、彼の母親のように強い人だったのだろう。魑魅魍魎すなわち既成の芸術界へ戦いを挑もうとしている。ただ太郎の主張を真に理解している人は日本にはいず、厳しい戦いだったのだろう。
「夜」 1947
「対極主義」を掲げて絵画制作、著作の成果を挙げた。岡本太郎の独自の理論である対極主義とは 「芸術家の基本的な姿勢とは対立する二つの要素をそのまま共存させることである」とする主張である。まず対極としたのが、合理主義から生まれた抽象画と非合理主義の産物であるシュールレアリズムでありキャンバスで融合させようとした。
先ほどの絵も2者対立だったが、次の絵は彼の代表作と呼ばれている絵画で、強きものと弱きものの対比、技法として抽象とシュールの融合がなされている。岡本の絵の中では緑の面積が広く鮮やかで美しく、真ん中の赤との対比が素敵だと思う。そしてチャック、この存在は楽しく開けてみるという楽しい想像ができる。いろんな書き込みも楽しく、代表作というのも頷ける。
「森の掟」 1950
第3章:人間の根源 ー呪力の魅惑ー
前衛活動とともに自分のアイデンティティを探るべく日本文化の出自に眼差しを向け、1951年に縄文式土器の美術性を見出した。従来の日本の美とされている「侘び、寂び」とは異なる、その根源的な美の重要性を喧伝するとともに、自分の作品に取り入れた。そして海外を含むフィールドワークを実施し、民族学的な美を探った。その中で呪術的な世界観を見出した。
柳田国男らが「民藝」という従来とは違う日本の美を見出して活動していたが、岡本太郎はもっと大きな視点で縄文時代から脈打つ美の流れを見出すとともに、沖縄の本州とは異なる文化、北海道のアイヌの文化の美を見出した。これは日本文化の研究や鑑賞に対する非常に大きな貢献で、私たちは彼に感謝しなければならない。
そういった中で表層の現代とは異なる人の奥底に潜む古代からの呪術らしきものに目覚めた。それがその頃描かれた絵画に、うねった太い黒い線として現れている。
下の図はそのころの作品である。
「愛撫」 1964
第4章:大衆の中の芸術
1952年以降 壁画や屋外彫刻、そして生活用品のデザイン等、大衆に接する分野へ飛びだしていった。
多分フィールドワークの中で、一般の人へもっと自分の芸術を知らしめたいということ、そして大衆の中に自分が出ていくという新しい活動をすることによって、自分そして自分の作品が変化することへの歓びがあったのではないだろうか。
その頃の作品としては壁画や野外彫刻で、国内で70箇所以上で展示され、一般の人との関わりが強くなっていく。
「日の壁」 旧東京都庁大型レリーフ 取り壊し 原画展示
国際建築絵画大賞受賞。
「星・花・人」 1971 オリエンタル中村デパート大型レリーフ 取り壊し 原画展示
デパートの目標とするイメージを描いたもの。
そういったパブリックアートに加えて、日常品のデザインも手がけるようになる。
「時計」 1967 「椅子」 1967/1968
第5章:ふたつの太陽 ー[太陽の塔]と[明日の神話]
第4章の大衆の中の芸術の究極の形が太陽の塔である。その頃メキシコではそれの対極の形で壁画「明日の神話」が製作されていた。
岡本は1970年の万博、テーマ館のプロデューサーとなったが、「人類の進歩と調和」というテーマには反発していたようである。通常の万博テーマ展示ならば、ロンドンの水晶宮やパリのエッフェル塔といった新技術の固まりみたいなものになるが、岡本太郎の場合は新技術でできた広い天井を突き破って、日本列島の主のような呪術的存在が博覧会全体を見渡すように立ち上がる。
一応未来、現在、過去の顔という形、そして内部の生命の樹で、人類の進歩を示そうとしているが、未来はこんなに表情のない仮面であっていいのかとおもうし、塔の後ろにある過去の顔は呪術的そのもので表の顔とは違い、彼のいう「対極」がいろんな所にある。そしてこの像によって大阪万博は忘れられないものとなった。
「太陽の塔」の現在と未来の顔 1970 裏面にある過去の顔
明日の神話は原子爆弾の破裂時の状況を示す壁画で、あるホテルの壁面を飾るはずだったが、ホテル自体がオープンされず暫く行方不明になっていた。このテーマでホテルの壁面を飾るつもりということに驚くが、太陽の塔が一応人類の進歩をテーマとしているのにたいし、後者は技術の暗黒面を意味するもので対極にある。現在は渋谷の連絡通路に設置されている。
「明日の神話」原図 1968
中央に放射性物質を浴びながら焼かれる人がいる。その周りにも燃える小さな人々が描かれている。赤い炎が大地に沿って広がっていくとともに、暗い宙には異形のものが浮かぶ。右端のほうには逃げ出そうとする集団がある。凄惨な場面を描いているのに、華やかな色の洪水であり、岡本太郎の描いた経緯を知らない人はどう思うだろう。
岡本太郎の秘書の岡本敏子によれば、禍々しい破壊の発生に対して、それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがっていて、それで「明日の神話」が生まれようとしているとのこと。
明日の神話の燃える人 第五福竜丸?
第6章:黒い眼の深淵 ーつき抜けた孤独ー
万博以降に作品の発表は少なくなった。むしろ前衛芸術を広めようとする人寄せパンダのようだとおもっていたが、高齢になってもエネルギッシュに製作を進めていたとのこと。
それらの作品群は黒い眼が強調されている。絵描きが眼を描くというのは、その眼も使ってもっといろいろなものを見たいということか、それとも自分で自分を監視する目を作って自分を律したいとおもったのか・・・ 高齢にもかかわらずパワフルに大画面を塗りつぶしている。
「遊魂」 1988
そして未完の絵画 雷人。今までとh全然違う色彩で、もっといける、もっと行きたいと高みを見上げているのだろうか・・・
「雷人」 1995(未完)
7.おわりに
私はこれまで、岡本太郎の発言内容が好き、そして造形も好きだが、絵画に関しては少しピンと来なかった。でも最初のリリックな絵を見たこと、その後基本は変らないけれども、「同じことを繰り返すなら死んでしまえ」と自分が言った言葉通り、思考していろんなことを取り入れそして新しい見せ方を考えて行くことによる絵画の変遷を観て、かなりわかりつつある。
何より、異常な家庭に育ち、海外で日本と切り離された状態で芸術家兼美の発見者として自立した人が、芸術界どころか日本の社会に大きな刺激を与えたことに感謝しなければならない。
そして下記の点で非常に業績は大きいと考える。
(1)日本の前衛芸術の主張を、言葉で語れる主導者となった。
(2)フィールドワークによる、縄文等の古代からの美(侘びや寂びではない)、民藝運動とは違った視点からの地方文化の美の新発見
(3)パブリックアート活動
(4)太陽の塔という、古代からの日本にあった呪術の具現化。
(5)「明日の神話」というピカソのゲルニカに相当するような破壊を表す絵画で、破壊への抗議だけでなくそこかの再生の意志を書き込んだこと
(6)ベトナム戦争、第五福竜丸など社会的な事件への芸術家としての反応の仕方
岡本太郎はピカソを超えることを目的としたが、「明日の神話」は前述の様に破壊だけでなく再生を書き込んだことで、それを読むことができる日本人にとってはピカソを超えたと言ってあげてもいいかもしれない。