てんちゃんのビックリ箱

~ 想いを沈め、それを掘り起こし、それを磨き、あらためて気づき驚く ブログってビックリ箱です ~ 

岐阜城訪問

2022-11-28 21:56:40 | 旅行

 久しぶりです。10月13日に岐阜城へ行ってきましたが、いろいろとあって書くチャンスがありませんでした。

1.はじめに
 私は暫くというか長期間、岐阜県内で仕事をしていたことがある。でもそこに単身赴任していたときは金帰月来であり、家族を呼びよせた時には名古屋に住居を構えたので、ほとんど岐阜県内を歩いていない。
 その頃はずっと遠くに眺めていた金華山すなわち岐阜城を配偶者と訪問したので、その登城記を書く。

2.金華山登頂
 名古屋から名鉄で新岐阜に到着。バスで岐阜公園へゆき、そこからロープウェイで山頂へ。
 40分から60分の登山道が案内されていて登ることも考えていたが、山が急峻でありまた登山道から降りてきた人の山歩きの身支度がちゃんとしていたので早々にあきらめた。
 その頃は、岐阜駅近辺ではキムタクの岐阜祭りポスターがべたべた貼られていた。そして岐阜公園の中では、2年前のNHK大河「麒麟がくる」の関連品が見られた。
 ロープウェイは急角度で上がっており、ロープウェイからの眺望は一気に広がった。
 下の写真は、岐阜公園から見上げた岐阜城とロープウェイ。

 
 


3.城へ および 資料館館
 ロープウェイを降りると一転樹々に囲まれ、眺望のない山道を城まで歩く。ほとんどのところが急峻な斜面に沿って少し平面を作った幅の細い道である。ところどころに岩肌が露出し、平地に飛びだした岩山であることがわかる。 
 写真は、山道に露出した岩肌。これに齧りついて樹木が覆っている。この山は岩の塊のようである。

 


 山道は上がったり下がったりで、この上で動き回るのも大変。元気なうちに来れてよかった。宣教師が信長からここへ来るよう招待されたようだが、山登りも含めて大変だっただろう。 そして戦国時代の武士は、攻防戦の場合は完全武装で動かなければならないので、とんでもなくパワフルでなければならない。
 なお織田家の人々は、平時には後述するが麓の屋敷に住んでいた。
 山道に沿った樹々を慎重に見ていると、時々をリスが動き回っている。
 
 ロープウェイの駅から約8分、前方が開け、城が姿を表す。

 
 


 石垣が積まれているが信長が積んだとのこと。再建城でコンクリート製だが、戦国時代も現代もよくこんな所に作ったものと思う。

 城は4層で、中は博物館と展望台になっている。
 展示品は城の歴史と由来、斎藤家や織田家のにかかわる展示品で、なかなか面白い。
 以下は、岐阜の由来。周の文王の天下取り、孔子の生誕地と絡めて文化の中心という2つのことから来たようである。



 下図は岐阜城の模型。頂上の岩山の上に作られている。その城の瓦に金箔が押されていてキラキラと輝いていたとのこと。

 


 

 また、テレビ等でよく見る、西洋式にアレンジした鎧、そして逆に朝廷内の服装の像があった。

 


 そして最上階の展望台。予想以上に眺望がいい。南は伊勢湾まで見通せ、東は犬山の向こう、西は琵琶湖へ抜ける道、北はすぐ下の平地から北の山々への通路が見える。見事に濃尾平野を抑え込んでいる。
 下は南方の墨俣から名古屋に至る遠望で、小さく名古屋駅前高層ビル街が見える。その拡大写真も示す。





 これならば、織田家が墨俣城を作ろうとしてもその動きが丸見えで、藤吉郎のように一日で一気に作らない限りは妨害されるだろう。
 山上には、防御のために掘削した溝、石垣、そして雨水を矯める井戸もあった。
 
 城から少し降りると、資料館。
 中は、暫く前の「麒麟がくる」の衣装と、本木雅弘そっくりの斎藤道三のマネキンがあった。

  


4.山麓 館遺跡

 山上の城は戦時のみで、平時は信長は至便な山麓の館に住んでいた。そこに濃姫も住んでいたとのこと。最近その発掘調査が行われている。
 ロープウェイ駅のすぐ横にあり、現在はブルーシートに覆われている。



斎藤家の焼失した居館の後に、立派な滝のある庭を持つ豪華な御殿が建設されていたようだ。下図はその構造配置図。



5.おわりに

 この時は、まだ紅葉前だったが現在は紅葉でかなり綺麗だろう。
 
 岐阜城にのぼって、その地の利の良さに驚いた。ここを押さえれば南の広い濃尾平野の状況はほぼ遠望できるし、東の信州、北の飛騨、西の近江からの道の山々からの出口を観察できる。
 そこに信長は、遠くからもキラキラ輝く山城を造り、麓に豪勢な館を作って権勢を誇示敷いていたのだろう。
 
 
コメント (4)
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