【1】はじめに
【2】正義とは
【3】靖國の敵
【4】靖國の本質
【5】終わりに

【1】はじめに
(太平洋戦争)大東亜戦争終戦後の東京裁判についてです。所謂A級戦犯と呼ばれる方々がこの戦争を始めた「平和(人道)に対する罪?」で犯罪者となり7人が有罪となり処刑されました。
「事後法」とは適法であった行為に対して、のちになって刑事責任を問うことを定める法令を作り裁くことで世界的に禁止されています。
この禁止行為が公然と無視された裁判がニュールンベルクと東京裁判です。
ドイツに対してヒトラーからの解放とユダヤ人虐殺を止めたいうたてまえが「事後法」やむなしの判断を正当化したのです。
米国はドイツのようにヒトラーと上層部を裁き独裁体制から国民を救った英雄となり日本に対しても同じ様に裁けると高を括っていたのです。
西と東に分断されたものの独裁体制から解放された国民となり、ユダヤ人に対する偏見を徹底して排除する国となりました。
かたや、日本も東條英機等ヒトラー級戦犯を決め裁いたのです。ご存知のように決して日本は独裁体制ではありませんし、ユダヤ人を迫害した訳でもありません。
国民全体で一丸となって戦争に敗れた日本は國體を保つ条件でポツダム宣言を受け入れ降伏したのです。
つまりこの東京裁判は敗戦直後の形だけの儀式化した復讐劇だったのです。戦犯全員が無罪を主張しても正当に裁かれることなく、認めらず日本国民からすれば、負けた責任を押し付けた生贄となったのです。
こんな東京裁判を受け入れるかたちで講和をして安保体制を確立し、主権を回復し、そして日本は後ろを振り返る事なく昭和史の後半を懸命に歩んできたのです。
70年の月日は日本がかつてアメリカと戦争したことなどすら霞んで見えなくなる程に日本は発展しました。
しかしながら米軍の基地はマンション、戸建の住宅の手狭さをよそに広々と広大な敷地を以前として確保しています。明らかにその駐屯は平和維持の為の抑止力として未だに機能しているのです。
70年間戦争という言葉にあまりに無頓着になった日本人は国防、自衛隊を無用の長物としてあまりに鈍感となり、利己的になってしまったのでしょう。
北方領土や竹島を取られている事、尖閣に中国船が入ってきてもまだその問題性に気付くことなく、気付いていても見ないようにしてきました。
これも全て戦後の占領政策による必要以上の反省と自虐史観の教育の賜物なのでしょう。
言って見れば現在の日本は東京裁判史観を後ろ盾に戦争した戦犯だけがヒトラーでそれに口を噤んで講話条約を守って米国の安全保障に依存する属国状態にも何も感じないように装った社会であるとも言えるのです。
今更ながら何故東京裁判なのか?
米軍を追い出し、自国の軍隊を強化してアメリカ相手に再戦でもするのか?
そんなはずはありません。
安倍政権も右傾化や戦争法案などとレッテルを貼られ米中韓の靖国に対する反応を利用して安倍おろしに枚挙に暇がありません。
安倍総理だけではなく靖國神社も同じ勢力から攻撃されています。
その貶めは様々な種類に細分化されセットでも批判されるのです。
今回の靖國論はこの靖國と安倍政権の敵を明確化する事で日本における外圧と内圧を理解し、東京裁判と靖國神社の関係性、重要性を再認識し、
日本人がどんなに時が経ち変質しようとも靖國神社だけは変わらず大切に護持せねばならない事を再確認して頂くために書きました。
【2】正義とは
正義という言葉の意味は社会における物および人に関する固有の秩序です。
ジョン・ロールズは次のように述べています。
「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。
徳とは均整のとれた精神の在り方を指すものであり、天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、善き人間の特質となるものです。
つまり、日本の伝統、神道、神国日本の思想体系を真と定めればそれによって構築された明治政府からの天皇陛下を国家元首とする社会制度の根本的な道徳観念こそが正義であると言えるのです。
しかしながらこれは日本の正義であって、全世界の国と国共有の、或いは一国の中に多数の正義が
存在することもあるでしょう。
要するに戦争は正義と正義のぶつかり合いであって、敗者の正義が潰されるものでも間違っていたものでもないのです。
果たして米国に正義があったのでしょうか、ドイツとの比較、東京裁判を検証することで戦争を正義で論ずることがあまりに無力、空虚であるのです。
つまり正義と正義がぶつかり負けた時点で正義によって多大なる損害と戦没者が発生します。
敗戦国はその正義が間違っていたので新たな正義の構築を余儀なくされるのです。
ドイツはその正義がヒトラーであったので残された国民は新たな正義、ユダヤ人への迫害とホロコーストを否定することが罪であるとする正義を構築したのです。
日本が選択した正義は戦力を保持せず諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したのです。
その結果どうでしょう世界の独立国が保持する軍隊をもたず、国防を米国に丸投げです。軍国主義をヒトラーとしたために未だに、憲法さえ変えられず、自衛隊は違憲状態、米軍基地だらけ、郵政民営化、TPPは断れず、農協は解体寸前です。
中韓の歴史認識問題、北の拉致被害者は未解決、領土は奪われ、国防さえ自国では不完全なのです。
これら全ては東京裁判史観の後ろ盾で米国の属国状態のような半独立国に起因するのです。
【3】靖國の敵
靖国問題とはまるで靖國に何か問題があるかのような言い回しですが、その最たるものはやはり所謂戦犯合祀となるでしょう。
靖國の敵はこの合祀に問題があるとする者達、分祀論者ということになります。
ここで注意しなければならないことがあります。
靖國と聞くと右翼をイメージするように左派は70年かけて造り上げてきました。
つまり、靖國神社は戦争神社と危険思想の代名詞として貶められるのと同時にそれがレッテルであると認識されるやいなや戦犯合祀に問題があるという二段階の貶めまで周到に準備されているのです。
更に合祀が問題ならば分祀すれば良い、別の慰霊施設を作れば良いなど三段階の間接的に靖國を貶め、最終的には靖國を擁護する右翼までもが戦犯分祀を主張するのです。
ここで戦犯合祀の何が問題なのかをもう一度振り返ってみたいと思います。
良く言われる事が戦犯は国会決議で赦免されこの戦争にはもはや昭和殉難者はいるが戦犯は存在しないので問題にするのはおかしいとの正論があります。
ところが日本において先の大戦の総括などしていない、未だに東京裁判の判決を守り続けている、
一旦は戦犯から解き放たれたが、遺族に対する冷遇が改善されたのだから戦犯は日本の敗戦責任者だという論も未だに存在するのです。
安倍政権以外の野党や自民党内部にも分祀論者はいるのです。
安倍政権に対しての攻撃はナショナリスト、右傾化、独裁体制、戦争法案などから日本会議、靖國を絡めて宗教的な陰謀論まで発展しています。
国際的観点からも中韓の歴史認識と靖國攻撃、米国の安倍参拝失望発言まで引用し、内政干渉とも言える靖國への視線はしばしば天皇陛下の御親拝中断とセットで引用され、敵の原動力にもなっているのです。
【4】靖國の本質
ようやく本論の結論とも言うべき靖國の本質ですが、最近になって政治学者・白井聡が国際問題や政治的問題としてのみ語られている靖国論争を、
「日本人にとって、日本の歴史において、靖国神社とは何であるのか」という問いを完全に欠いているとして、こんな本質論の書籍を出版したようです。
「靖国神社に世界普遍的な大義が仮に存在するのであれば、どれほど強い非難があろうとも、私人であれ公人であれ、堂々と参拝すればよい。」
「歴史的事実を冷静に追っていけば、靖国神社には世界的な普遍性を主張しうるような大義を見出すことはできない。」
としていささか本論からずれるのですが、靖国問題の本質と靖国の本質を同時に論ずる全く的外れで乱暴なものなのです。
要するに靖国には大義がないので堂々と参拝出来ないと言いたいのでしょう。
では白井氏の言う世界普遍的な大義とはなんでしょう。無いと言うからには「世界平和の為の行い」とでも言いたいのでしょうか。
彼の意図することはこうでしょう。《日本が過去の一時期軍国主義に傾倒し天皇陛下が統帥する軍隊が近隣諸国を侵略、一部植民地支配し多大なる被害をもたらした非道な軍国主義その戦争遂行の為国民までも巻き込み殆どの兵士が無残にも飢え、玉砕を強いられたその精神的支柱である靖国などに何の大義があるというのか?
日本は敗戦の武装解除と同時に軍国主義と決別したのであって世界平和を願う現日本、9条を守る日本こそ当然大義がある。》
私は当然読んでおりませんが想像はつきます。もしお読みになられた方で違うじゃないか!と御立腹の場合はご一報下さい。
ここで靖国神社と私の基本的見解を述べますと、靖國の本質は戦没者を慰霊、鎮魂、顕彰する場。
これ以上でもこれ以下でもない単純で簡単なことです。
もう少し言えば明治からの戦いで戦没した兵士を天皇陛下の名の下に英霊として慰霊、鎮魂、顕彰する神道に基づく施設であります。
明治からの戦で大東亜戦争の戦没者が格段に多くこの後70年間戦争は起きていません。顕彰に関する解釈で、後に問題であるとの声も囁かれますが
なにもこれから戦争をしたり、軍国主義に後戻りしようと考えている訳ではありませし、文民統制において戦争になるなど極めてありえない稚拙な論理です。
それを念頭に置けば参拝者が感謝の気持ちを246万余柱に捧げることは至極当然な行為であり何もカルト的な信者的な発想などそこには皆無なのです。
この戦争遂行の為の神社が現在は死者を悼み平和を願う施設にあくまで参拝者側の意識として機能していると見ればその本質は変化しているでしょう。
戦没者遺族にとっても身内の死を誇りに思うことで悼みが薄らぎ、亡骸亡き者も分け隔て無く祀ることに最大の意味が込められているのです。
ですから靖國としての本質は時代の流れに合わせて変化するものではありませんし、あってはならないのです。
靖國が貶められるのは他に原因があります。靖國だけが変わらずにあること、それは先の大戦は自存自衛の為の正義に基づいた戦いであったという当たり前の事です。
つまり東京裁判を否定していると見られていることです。ここで考えてもらいたいことがあくまでそう見ているのは敗戦した後の一部の日本人であって当然東京裁判を受け入れ軍国主義をヒトラーとしてきた日本人なのです。
中韓米と戦勝国側に立つ日本人にとっては真実を知る靖國が敵という訳です。これらは全て東京裁判史観と呼ばれ勝者の側に有利に修正した歴史観を主張するものにとって靖國が目の上のたんこぶなのです。
この章の冒頭にもどりますが皆さんは靖國とこれら東京裁判史観どちらに大義があると思われますか?
白井氏は靖国だけを歴史的に捉え現日本の東京裁判史観に大義がある戦前戦中の大義は現日本とは真逆つまり、過去の日本と現日本を比較せず過去の靖国と現日本の比較なのです。
要約すれば東京裁判史観対靖國の構図が浮き彫りになり、日本人が靖國の本質を否定すればする程、自分の首を自らが絞めることになるのです。
【5】終わりに
日本人が戦後歩んできた反省という道が過去の否定と決別をすればする程、敗戦で決着した戦後補償をエンドレスで中韓米にし続ける不完全な従属国の状態が続き常に歴史認識問題に晒されるまさにATM国家となるのです。
安倍談話にある「これからの子供達に謝罪をさせない」はこの戦後レジーム体制の脱却を意味しているのです。
日本がこの体制から脱却するにはどうすればよいのか?所謂左派は靖國を守る右派をグランドセオリーが無いと戦後反省だけで創り上げてきた歴史学界こそが大義であるかのように靖國を攻撃します。
大義はどちらにも存在するのです。戦後レジーム体制の脱却とはこの両者の大義を歴史研究で中道に戻すことなのです。
残念な事に安倍談話はそこまでの歴史的言及を避け、歴史家の手に委ねるとしました。
あとは残された歴史家と国民の手で東京裁判史観をどこまで中道に戻すかが委ねられたのです。
【2】正義とは
【3】靖國の敵
【4】靖國の本質
【5】終わりに

【1】はじめに
(太平洋戦争)大東亜戦争終戦後の東京裁判についてです。所謂A級戦犯と呼ばれる方々がこの戦争を始めた「平和(人道)に対する罪?」で犯罪者となり7人が有罪となり処刑されました。
「事後法」とは適法であった行為に対して、のちになって刑事責任を問うことを定める法令を作り裁くことで世界的に禁止されています。
この禁止行為が公然と無視された裁判がニュールンベルクと東京裁判です。
ドイツに対してヒトラーからの解放とユダヤ人虐殺を止めたいうたてまえが「事後法」やむなしの判断を正当化したのです。
米国はドイツのようにヒトラーと上層部を裁き独裁体制から国民を救った英雄となり日本に対しても同じ様に裁けると高を括っていたのです。
西と東に分断されたものの独裁体制から解放された国民となり、ユダヤ人に対する偏見を徹底して排除する国となりました。
かたや、日本も東條英機等ヒトラー級戦犯を決め裁いたのです。ご存知のように決して日本は独裁体制ではありませんし、ユダヤ人を迫害した訳でもありません。
国民全体で一丸となって戦争に敗れた日本は國體を保つ条件でポツダム宣言を受け入れ降伏したのです。
つまりこの東京裁判は敗戦直後の形だけの儀式化した復讐劇だったのです。戦犯全員が無罪を主張しても正当に裁かれることなく、認めらず日本国民からすれば、負けた責任を押し付けた生贄となったのです。
こんな東京裁判を受け入れるかたちで講和をして安保体制を確立し、主権を回復し、そして日本は後ろを振り返る事なく昭和史の後半を懸命に歩んできたのです。
70年の月日は日本がかつてアメリカと戦争したことなどすら霞んで見えなくなる程に日本は発展しました。
しかしながら米軍の基地はマンション、戸建の住宅の手狭さをよそに広々と広大な敷地を以前として確保しています。明らかにその駐屯は平和維持の為の抑止力として未だに機能しているのです。
70年間戦争という言葉にあまりに無頓着になった日本人は国防、自衛隊を無用の長物としてあまりに鈍感となり、利己的になってしまったのでしょう。
北方領土や竹島を取られている事、尖閣に中国船が入ってきてもまだその問題性に気付くことなく、気付いていても見ないようにしてきました。
これも全て戦後の占領政策による必要以上の反省と自虐史観の教育の賜物なのでしょう。
言って見れば現在の日本は東京裁判史観を後ろ盾に戦争した戦犯だけがヒトラーでそれに口を噤んで講話条約を守って米国の安全保障に依存する属国状態にも何も感じないように装った社会であるとも言えるのです。
今更ながら何故東京裁判なのか?
米軍を追い出し、自国の軍隊を強化してアメリカ相手に再戦でもするのか?
そんなはずはありません。
安倍政権も右傾化や戦争法案などとレッテルを貼られ米中韓の靖国に対する反応を利用して安倍おろしに枚挙に暇がありません。
安倍総理だけではなく靖國神社も同じ勢力から攻撃されています。
その貶めは様々な種類に細分化されセットでも批判されるのです。
今回の靖國論はこの靖國と安倍政権の敵を明確化する事で日本における外圧と内圧を理解し、東京裁判と靖國神社の関係性、重要性を再認識し、
日本人がどんなに時が経ち変質しようとも靖國神社だけは変わらず大切に護持せねばならない事を再確認して頂くために書きました。
【2】正義とは
正義という言葉の意味は社会における物および人に関する固有の秩序です。
ジョン・ロールズは次のように述べています。
「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。
徳とは均整のとれた精神の在り方を指すものであり、天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、善き人間の特質となるものです。
つまり、日本の伝統、神道、神国日本の思想体系を真と定めればそれによって構築された明治政府からの天皇陛下を国家元首とする社会制度の根本的な道徳観念こそが正義であると言えるのです。
しかしながらこれは日本の正義であって、全世界の国と国共有の、或いは一国の中に多数の正義が
存在することもあるでしょう。
要するに戦争は正義と正義のぶつかり合いであって、敗者の正義が潰されるものでも間違っていたものでもないのです。
果たして米国に正義があったのでしょうか、ドイツとの比較、東京裁判を検証することで戦争を正義で論ずることがあまりに無力、空虚であるのです。
つまり正義と正義がぶつかり負けた時点で正義によって多大なる損害と戦没者が発生します。
敗戦国はその正義が間違っていたので新たな正義の構築を余儀なくされるのです。
ドイツはその正義がヒトラーであったので残された国民は新たな正義、ユダヤ人への迫害とホロコーストを否定することが罪であるとする正義を構築したのです。
日本が選択した正義は戦力を保持せず諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したのです。
その結果どうでしょう世界の独立国が保持する軍隊をもたず、国防を米国に丸投げです。軍国主義をヒトラーとしたために未だに、憲法さえ変えられず、自衛隊は違憲状態、米軍基地だらけ、郵政民営化、TPPは断れず、農協は解体寸前です。
中韓の歴史認識問題、北の拉致被害者は未解決、領土は奪われ、国防さえ自国では不完全なのです。
これら全ては東京裁判史観の後ろ盾で米国の属国状態のような半独立国に起因するのです。
【3】靖國の敵
靖国問題とはまるで靖國に何か問題があるかのような言い回しですが、その最たるものはやはり所謂戦犯合祀となるでしょう。
靖國の敵はこの合祀に問題があるとする者達、分祀論者ということになります。
ここで注意しなければならないことがあります。
靖國と聞くと右翼をイメージするように左派は70年かけて造り上げてきました。
つまり、靖國神社は戦争神社と危険思想の代名詞として貶められるのと同時にそれがレッテルであると認識されるやいなや戦犯合祀に問題があるという二段階の貶めまで周到に準備されているのです。
更に合祀が問題ならば分祀すれば良い、別の慰霊施設を作れば良いなど三段階の間接的に靖國を貶め、最終的には靖國を擁護する右翼までもが戦犯分祀を主張するのです。
ここで戦犯合祀の何が問題なのかをもう一度振り返ってみたいと思います。
良く言われる事が戦犯は国会決議で赦免されこの戦争にはもはや昭和殉難者はいるが戦犯は存在しないので問題にするのはおかしいとの正論があります。
ところが日本において先の大戦の総括などしていない、未だに東京裁判の判決を守り続けている、
一旦は戦犯から解き放たれたが、遺族に対する冷遇が改善されたのだから戦犯は日本の敗戦責任者だという論も未だに存在するのです。
安倍政権以外の野党や自民党内部にも分祀論者はいるのです。
安倍政権に対しての攻撃はナショナリスト、右傾化、独裁体制、戦争法案などから日本会議、靖國を絡めて宗教的な陰謀論まで発展しています。
国際的観点からも中韓の歴史認識と靖國攻撃、米国の安倍参拝失望発言まで引用し、内政干渉とも言える靖國への視線はしばしば天皇陛下の御親拝中断とセットで引用され、敵の原動力にもなっているのです。
【4】靖國の本質
ようやく本論の結論とも言うべき靖國の本質ですが、最近になって政治学者・白井聡が国際問題や政治的問題としてのみ語られている靖国論争を、
「日本人にとって、日本の歴史において、靖国神社とは何であるのか」という問いを完全に欠いているとして、こんな本質論の書籍を出版したようです。
「靖国神社に世界普遍的な大義が仮に存在するのであれば、どれほど強い非難があろうとも、私人であれ公人であれ、堂々と参拝すればよい。」
「歴史的事実を冷静に追っていけば、靖国神社には世界的な普遍性を主張しうるような大義を見出すことはできない。」
としていささか本論からずれるのですが、靖国問題の本質と靖国の本質を同時に論ずる全く的外れで乱暴なものなのです。
要するに靖国には大義がないので堂々と参拝出来ないと言いたいのでしょう。
では白井氏の言う世界普遍的な大義とはなんでしょう。無いと言うからには「世界平和の為の行い」とでも言いたいのでしょうか。
彼の意図することはこうでしょう。《日本が過去の一時期軍国主義に傾倒し天皇陛下が統帥する軍隊が近隣諸国を侵略、一部植民地支配し多大なる被害をもたらした非道な軍国主義その戦争遂行の為国民までも巻き込み殆どの兵士が無残にも飢え、玉砕を強いられたその精神的支柱である靖国などに何の大義があるというのか?
日本は敗戦の武装解除と同時に軍国主義と決別したのであって世界平和を願う現日本、9条を守る日本こそ当然大義がある。》
私は当然読んでおりませんが想像はつきます。もしお読みになられた方で違うじゃないか!と御立腹の場合はご一報下さい。
ここで靖国神社と私の基本的見解を述べますと、靖國の本質は戦没者を慰霊、鎮魂、顕彰する場。
これ以上でもこれ以下でもない単純で簡単なことです。
もう少し言えば明治からの戦いで戦没した兵士を天皇陛下の名の下に英霊として慰霊、鎮魂、顕彰する神道に基づく施設であります。
明治からの戦で大東亜戦争の戦没者が格段に多くこの後70年間戦争は起きていません。顕彰に関する解釈で、後に問題であるとの声も囁かれますが
なにもこれから戦争をしたり、軍国主義に後戻りしようと考えている訳ではありませし、文民統制において戦争になるなど極めてありえない稚拙な論理です。
それを念頭に置けば参拝者が感謝の気持ちを246万余柱に捧げることは至極当然な行為であり何もカルト的な信者的な発想などそこには皆無なのです。
この戦争遂行の為の神社が現在は死者を悼み平和を願う施設にあくまで参拝者側の意識として機能していると見ればその本質は変化しているでしょう。
戦没者遺族にとっても身内の死を誇りに思うことで悼みが薄らぎ、亡骸亡き者も分け隔て無く祀ることに最大の意味が込められているのです。
ですから靖國としての本質は時代の流れに合わせて変化するものではありませんし、あってはならないのです。
靖國が貶められるのは他に原因があります。靖國だけが変わらずにあること、それは先の大戦は自存自衛の為の正義に基づいた戦いであったという当たり前の事です。
つまり東京裁判を否定していると見られていることです。ここで考えてもらいたいことがあくまでそう見ているのは敗戦した後の一部の日本人であって当然東京裁判を受け入れ軍国主義をヒトラーとしてきた日本人なのです。
中韓米と戦勝国側に立つ日本人にとっては真実を知る靖國が敵という訳です。これらは全て東京裁判史観と呼ばれ勝者の側に有利に修正した歴史観を主張するものにとって靖國が目の上のたんこぶなのです。
この章の冒頭にもどりますが皆さんは靖國とこれら東京裁判史観どちらに大義があると思われますか?
白井氏は靖国だけを歴史的に捉え現日本の東京裁判史観に大義がある戦前戦中の大義は現日本とは真逆つまり、過去の日本と現日本を比較せず過去の靖国と現日本の比較なのです。
要約すれば東京裁判史観対靖國の構図が浮き彫りになり、日本人が靖國の本質を否定すればする程、自分の首を自らが絞めることになるのです。
【5】終わりに
日本人が戦後歩んできた反省という道が過去の否定と決別をすればする程、敗戦で決着した戦後補償をエンドレスで中韓米にし続ける不完全な従属国の状態が続き常に歴史認識問題に晒されるまさにATM国家となるのです。
安倍談話にある「これからの子供達に謝罪をさせない」はこの戦後レジーム体制の脱却を意味しているのです。
日本がこの体制から脱却するにはどうすればよいのか?所謂左派は靖國を守る右派をグランドセオリーが無いと戦後反省だけで創り上げてきた歴史学界こそが大義であるかのように靖國を攻撃します。
大義はどちらにも存在するのです。戦後レジーム体制の脱却とはこの両者の大義を歴史研究で中道に戻すことなのです。
残念な事に安倍談話はそこまでの歴史的言及を避け、歴史家の手に委ねるとしました。
あとは残された歴史家と国民の手で東京裁判史観をどこまで中道に戻すかが委ねられたのです。