靖国神社は1946年(昭和21年)日本国政府の管理下から単立宗教法人となっている。これは戦後占領軍によって取り壊しから逃れる方策との理解が正しい。
つまり、首相の参拝は元来憚ることなき自然な行いと言って良いだろう。
したがって、顔色を伺うとすればそれは米国のみであり、故安倍総理のアーリントン墓地への訪問からも頷けるが、このことから日本は対米従属と言えるのではないだろうか。
保守論客として知られていた故西部邁氏が安倍総理への遺言として次のような言葉を遺している。
"首相に限らず現代人は、指導層であれ追随層であれ、おおむね実際主義を旨として、経済的利得や政治的権力や文化的栄誉にありつくべく、我欲丸出しで生きそして虚無のうちに死んでいるといってよいであろう"
"世界はマルチポーラー(多極)の時代に入っている。そのことに日本政府はどこまで自覚的なのであろうか"
"対米追従に徹しておればこの列島は何とか生き延びられるであろうというプラクティカリズム(実際主義)の態度が現代日本人に骨がらみにとりついてしまったことの帰結なのであろう"
つまり西部氏は保守政治の限界を安倍総理から感じとり絶望したのではないだろうか。
のちに我々は総理を失うことによって西部氏が感じた数倍とも言える既視感を味合う羽目になる。
かつて西部氏は保守を、現状維持と解釈してはいけません。現状とは過去から残された慣習の体系ですが、保守はそれを無条件に受け入れはしない。本当の保守は慣習という実体の中に歴史の英知のようなものを探りあて、それを今に生かそうとします。それが、どの変化を受け入れ、拒否するかの基準になる。ただ、歴史の英知には実体がない。「天皇陛下」や「靖国神社」は歴史の英知ではなく、慣習の体系です。その中に日本国民のバランス感覚がどう示されているかを、その時代、その状況において、皆が議論して確認する。そうした慎重な態度保守思想と言うのです。といっている。
籠池、田母神、百田というビジネス保守の体現してきた期待に絶望する。
共産党に利用される人を揶揄して「"デュープス"」と呼ぶが、ビジネス保守に利用されてしまっている我々もまた、「新生"デュープス"」かもしれない。