女性宮家創設に反対するものは皇統断絶の危機に対して、古来からの伝統に従った11宮家から男系の血を繋ぐことこそが血のスペアとしての宮家の存在意義が最善の方法であるとほぼ意見は一致している。
一方、女性宮家の創設を積極的に推進するものに
男尊女卑の差別問題や女性天皇の切望、11宮家の皇族復帰に後ろ向きであり、明確に反対する意見を述べるものがいる。
女性宮家創設反対の見解を示す知識人の言説を利用することで自論を理論武装しているが、その中でも上下に渡って長文で旧宮家の皇籍復帰に賛同出来ない理由を表明する以下のブログをアップするものがいたので、これを否定することが、最もわかりやすく合理的であると全てを引用し、その真意を確認したい。
お読みになった方は飛ばしていただいて、ご自身のお考えと比較参考にして頂ければ幸いだ。
因みに深沢明人はジャーナリストやライターではなく、ハンドルネームのようであり、本名とは関係ないようだ。
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私が旧宮家の皇籍復帰に賛同できない理由(上)
深沢明人
2012年BLOGOSより
1.血統が離れすぎていることへの違和感
これは5日付けの記事でも挙げた。
占領期に皇籍離脱を余儀なくされた11宮家は、いずれも伏見宮家の血統に連なる。
そして伏見宮家とは、はるか室町時代に天皇家から分かれた血統である。
旧1宮家の皇籍復帰論者は、男系男子による継承は唯一絶対の伝統であり、現在の天皇家の男子が絶えれば、傍系からとるのが当然だと説く。しかし、これほど遠縁の皇族が即位した事例もまたない。
ちょっと検索してみたら、八木秀次が小泉政権での「皇室典範に関する有識者会議」における意見陳述に用いたメモが見つかった。
ここで八木は、「2.過去の皇統断絶危機の際、男系の「傍系」から皇位に就かれた例」として
第26代・継体天皇(先代・武烈天皇とは10親等の隔たり)
第102代・後花園天皇(先代・称光天皇とは8親等の隔たり)
第119代・光格天皇(先代・後桃園天皇とは7親等の隔たり)
の3例を、また「遠縁から即位された例」として
第49代・光仁天皇
(先代・称徳天皇とは8親等の隔たり、天武系から天智系へ)
第100代・後小松天皇[北朝]
(先代・後亀山天皇[南朝]とは11親等の隔たり)
の2例を挙げている。
しかし、後小松天皇を第100代と数えるのは南北朝合一によるものであり、それ以前から北朝の天皇として即位していたのであるから、後亀山天皇を継いで即位したわけではなく、「遠縁から即位された例」としては不適切だろう。こんなものを出してくる八木の見識を疑いたくなる。
ということは、王朝交代説もある継体天皇の系譜を仮に信じるとしても10親等、それ以外では8親等が最も遠いのだろう。
対するに、愛子さま、悠仁さまと、現存する旧皇族の男子某とでは、40数親等離れている。
この違いは決して小さくはない。
そして、これほど血統が離れているからこそ、戦前においても伏見宮系の皇籍離脱が予定されていたのだろう。
もともと、明治維新の時点では、宮家は伏見、閑院、桂、有栖川の4つしかなかった。
明治維新後、伏見宮系の男子を独立させ、13宮家にまで増やした。
何故か。
大正天皇には成人した男子の兄弟はない。その父、明治天皇にもない。その父、孝明天皇にも、その父、仁孝天皇にもない。明治維新により天皇を中心とする国家となったにもかかわらず、天皇直系の男子は天皇自身を除いて存在しなかった。
したがって、「血のスペア」(大宅壮一)を確保するため、また天皇の名代を務め得る人物が必要であったため、これほどの宮家が設けられたのだろう。
しかし、大正天皇は昭和天皇をはじめ4男児にめぐまれた。また、宮家の増加による経済的負担も大きくなり、醜聞の発生もあった。
そこで、大正9年に「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が定められ、天皇の5世以下の諸王は、宮家を継ぐ長男系統のみ、8世までを皇族とし、次男以下は順次臣籍降下し、長男系統でも9世以下は臣籍降下して華族となることとされた。
ただし、伏見宮系統は特例として、邦家親王(1802-1872)の子を5世とみなすこととされた。
したがって、伏見宮系統の宮家であっても、邦家親王から5世の代で臣籍降下することが予定されていた。占領期のGHQによる圧力がなくても、もともと彼らは皇族ではなくなる予定だったのである。
所功はこう書いている。
『その結果、終戦時にあった十一宮家でも、それ以前から次男以下の十二人が皇籍を離れている。しかも、幕末・明治初年創立時を一世代(五世王)とする近代宮家の場合、昭和二十年当時、幼少年位の人々は、ほとんど四世代(八世王)に相当するから、長男ならば当代限り皇族とされたが、次男以下は勿論、長系でも五世代(九世)相当の人々は、すべて臣籍降下しなければならない段階を迎えていたのである。(「皇室史上の宮家制度―その来歴と役割―」『歴史読本』2006年11月号、p.107)』
旧宮家の皇籍復帰論者は、伏見宮系の宮家からは3人の天皇が出ており、皇統の危機に際して宮家の男子が天皇に就くのは当然だと説く。
この3人の天皇とは、上記の後花園天皇(伏見宮出身)と光格天皇(閑院宮出身)の2人と、もう1人は第111代・後西天皇(高松宮、のちの有栖川宮出身)である。
しかし後西天皇は、兄である第110代後光明天皇の死に際し、その養子となっていた弟(のちの第112代・霊元天皇)がまだ生後間もなかったため中継ぎとして即位したもので、10年弱で弟に譲位している。単なる兄弟継承にすぎない。
残る2人は、上記のとおり先代天皇とは8親等と7親等の隔たりがあるにすぎない。
女系継承の前例がないというが、40親等以上離れた男系継承の前例もまたない。
そして前例と言うなら、男系の女性天皇や、女性宮家の前例はある。
明治以降の皇室典範によりそれらが許されなくなっただけだが、では旧宮家の皇籍復帰論者は、前例を理由にこれらを容認するのか。しないではないか。
旧宮家の皇籍復帰論者の中には、明治天皇の皇女が東久邇宮、朝香宮、竹田宮、北白川宮の4宮家に嫁いでおり、また昭和天皇の娘も東久邇宮に嫁いでいるから、これら4宮家については天皇家との血縁は濃いと説く者もいる。
これも不思議な話で、彼らは男系継承しか認めないというのであるから、母方の血統は関係ないはずである。
都合のいいときだけ女系を持ち出さないでもらいたい。
2.旧宮家がどれだけのことを成し得たか
戦前の旧宮家の皇族に、私はあまり良い印象を持っていない。
敗戦直後の首相を務めた東久邇宮稔彦王と、海軍の軍令部総長を務め積極的に軍備拡張、三国同盟推進の姿勢を示した伏見宮博恭王を除いて、ほとんどが、何をしたのかわからない人々だ。
皇族は天皇の藩屏と言われる。しかし、大東亜戦争の開戦、そして敗戦という天皇制〔註〕の危機に際して、皇族はほとんどそのような役割を果たし得なかったのではないか。
もっとも、こんなことで彼らを批判するのは酷かもしれない。彼らは、何もしないことこそを期待されていたであろうから。
天皇の血を引く者がそのポストにいるということ自体に意味があるのであり、何らかの業績をあげることを期待されていたわけではなかっただろう。
つまり、お飾りである。天皇と同様の。そして、前述のように、「血のスペア」でもある。
しかし、自分で選択したわけでもないそんな人生に、前近代ならともかく、近代以降の人間はそうそう耐え得るものだろうか。品行を保持できるものだろうか。
北白川宮成久王はパリで自動車を運転してスピードの出し過ぎで事故死し、同乗していたフランス人運転手も死亡させ他の皇族をも負傷させた。
東久邇宮稔彦王もフランス滞在中に乱行が目立ったと聞く。
その他の皇族の醜聞について私はいちいち詳しくは知らないし知りたくもないが、『文藝春秋』2006年4月号に掲載された高橋絋「現代版「壬申の乱」への危惧」によると、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記には、占領期の11宮家の臣籍降下について次のような記述があるという。
これも誠に御気の毒なことではあろうが已むを得ない事であり、その殆ど全部が(二、三の例外を除いては)皇室のお徳を上げる程のことをなさらず、汚した方も相当あったことを考えれば、寧ろ良いことであろう
このような人々を、男系継承を維持するためというただ一つの理由で、皇籍に復帰させることには賛成できない。
以上2点はかねてから考えていたことだが、最近新たな理由が2点加わった。次回はそれらについて述べる。
(続く)
〔註〕天皇制
これを左翼用語、反天皇思想の産物として排撃する見解もあるが、愚劣だと思う。
君主が国王なら王制、皇帝なら帝制だろう。君主が天皇なら天皇制、何の不思議もない。
天皇はわが国の歴史に根ざした伝統であって、人為的な「制度」ではないという主張がある。
たしかに、前近代までの天皇については、その地位の法的根拠などというものはなかったのだろう。
しかし、わが国が近代国家に転換し、大日本帝国憲法と旧皇室典範が制定された時点で、天皇は「制度」になったのである。
現在の政府は「皇室制度」という語を用いている。また産経新聞などは「天皇制度」という語を用いている。
「皇室制度」「天皇制度」なら良くて「天皇制」は許し難いとするのは、用語の来歴のみにとらわれた、くだらない考え方だろう。
私が旧宮家の皇籍復帰に賛同できない理由(下)
3.旧宮家の復帰だけではいずれ行き詰まる
新たな理由のもう1つは、現在の社会制度のまま、旧宮家を復帰させるだけでは、男系継承の維持は極めて困難であることに思い至ったことだ。
先に述べたように、大正9年の「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」により、伏見宮系の宮家の臣籍降下はあらかじめ予定されていた。
そして、予定より早く、占領期に一斉に臣籍降下することとなったわけだが、それによって皇位継承を危惧する声が生じたとは聞かない。
何故か。
昭和天皇には、3人の弟宮があった。そして現在の今上陛下と常陸宮の2人の男児があった。1946年には三笠宮に寛仁親王が生まれている。
これだけの男性皇族がいれば、当面皇位継承には問題ない。そう考えられていたからだろう。
しかし、それから60年余りで、皇統は危機に瀕するに至った。
これは、男系継承を維持することがそうそう容易ではないことを示している。
では何故これまでは維持してこられたのか。
それは、側室制度があったからだ。
側室制度によって、多数の子をもうけることが可能だった。子が多ければ、男子である確率もそれだけ高くなる。
大宅壮一によると、幕末から明治にかけて成立した伏見宮系の11宮家の創立者は、「一人の例外もなしに妾腹から出ている」という(『実録・天皇記』)。
また、竹田恒泰によると、仁孝、孝明、明治、大正の4代の天皇は「全て生母が側室」だという。
竹田は『語られなかった皇族の歴史』でこう述べている。
『このように、万世一系を保つために、世襲親王家と側室制度の二つの安全装置が常に用意されていた。側室制度は皇統の危機を招かぬよう、日頃から皇族を繁栄させ、それでも皇統の危機が訪れた場合は世襲親王家から天皇を擁立することで男系による万世一系を守り抜いてきたのだ。(p.66)』
だが、現在では側室制度の復活は国民感情から難しい。また、側室ではなく皇后を複数立てる方法もあるがこれにも違和感を覚える人が多いだろうと竹田は説く。
したがって側室制度と複数の皇后を立てる制度の復活が望めない現在は、別の手段、つまり皇族を充実させて傍系からの即位を可能にする方法を強化し、皇統の維持を図らなければならないのではないだろうか。(p.68)
しかし、伏見宮系の大量の宮家が成立し得たのは側室制度があったからだ。現代の一夫一婦制の下では、やがては現皇室と同様に危機に陥る可能性が高いのではないか。現に、前回紹介した竹田恒泰の『正論』本年4月号の論文によると、旧宮家のうち山階、梨本、閑院、東伏見の4家は絶家となったという。
旧宮家が皇籍に復したからといって、男子が生まれ続けるとは限らない。その場合、どうするのか。側室制度を復活させるのか。人工的な手段で男子誕生を試みるのか。あるいはもっと遠縁の元皇族を捜すのか。
そうまでして維持しなければならない男系継承とは何なのか。
4. 結語
そもそも何故天皇は男系継承なのだろうか。
先人は、男系継承と女系継承という選択肢がある中で、何らかの理由で男系継承を選んだのだろうか。
いや、イエは(あるいは世襲する高位は)男子が継ぐということが当然とされていたからだろう。
天皇家に限らない。徳川将軍家も、足利将軍家も、藤原摂関家も皆男系継承である。
支那の皇帝も、朝鮮の国王も皆そうである。ヨーロッパの諸国も基本的にはそうであった。
明治時代の皇室典範制定に際して、女性天皇や女系継承が問題になった。
これは、ヨーロッパに女王や女帝が存在し、女系継承があることが知られていたからだろう。
当初は、皇位継承権者の男性が絶えた場合には女帝を容認し、女帝に皇子がなければ皇女に継承するとの案もあったという。
しかし、井上毅は、過去の女帝は臨時的な例外であり、「王位は政権の最高なる者なり。婦女の選挙権を許さずして、却て最高政権を握ることを許すは理の矛盾なり」などとして女帝を否定し、女系継承も皇統が女帝の夫の姓に移るとして否定したという(鈴木正幸『皇室制度』岩波新書、1993、p.56-57)。
では、女性に選挙権も被選挙権も認められた現代であれば、反対理由の1つが消えることになる。
それに、皇族は姓を持たないのであるから、女帝の皇子への継承によって皇統が女帝の夫の姓に移るという主張もおかしい。
伝統に固執する方は、より万全な策として、側室制度の復活を主張されてはどうか。
さらに、身分制度の復活も主張されてはどうか。
顔をあらわにすることもなく、御所から一歩も出ない、庶民にとってはいるのかいないのかわからない、そんな前近代の天皇の復活を唱えてはどうか。
そのようなことが維持できるのであれば、確かに皇室は安泰だろう。
しかし、現代の国民が望んでいる皇室は、そのようなものではないだろうし、そんな時代錯誤が現代に可能とも思えない。
一時の国民感情などどうでもいい、伝統の墨守こそが重要なのだという見解がある。
女系天皇になればそれはもはや天皇ではないとか、崇拝の念が損なわれるとか、果ては日本が日本でなくなるとか。
わが皇室と国民は、それほど弱々しいものだろうか。
伝統を墨守するだけならこんにちのわが国はなかった。
明治維新の主導者は、「王政復古」の大号令を出したにもかかわらず、幕府のみならず摂政・関白をも廃止し、「諸事神武創業の始」にもとづくとして全く新しい政府を成立させた。
五箇条の御誓文には、
旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
とある。
わが国は、こうした精神に基づいて近代化を果たし、欧米列強に伍するまでに至ったのではなかったか。
他方、旧弊を打破できなかった清国や朝鮮は亡び、再興までに長い年月を要した。
男尊女卑が当然であった明治時代ならともかく、現代においては、女性天皇、女系継承を認めることこそが「天地ノ公道」というものではないだろうか。
40親等以上離れた傍系の男子を皇位継承者にするという手法は、必ず国民から疑問の声が上がる。それはむしろ天皇制に対する懐疑心を生み、果ては天皇制廃止論に及ぶおそれもある。
女性天皇、女系継承を認めることこそが、天皇制存続の道だろうと私は思う。
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まず所功氏は女系天皇の必要性を唱える法学者で歴史家にありがちな残念なタイプだ。よって、女系への布石ともなる女性宮家創設には積極的であり、旧宮家の皇籍復帰や側室復活には否定的というよりは、寧ろ皇統の断絶を目的としているようにさえ伺える。
八木秀次教授に批判的で竹田恒泰氏の発言さえ利用している。五箇条の御誓文まで持ち出して結んでいるが、歴史的経緯に明るいことも手強さを感じるが、男尊女卑を最終的な決定要素としている所に結局は女性宮家創設の為の暴論でしか無い。
要旨を四つに分けて構成されているが、
1.血統が離れすぎ。
2.旧宮家の醜聞
3.旧宮家の復帰だけでは行き詰る
4. 結語としての否定
どれをみても結局旧宮家の欠点ばかりに焦点を当てた、所謂皇室批判であり、真に皇統の継承を想っているかが疑わしい。
まず最初に反論が許されるのなら現在の日本国憲法に於いて現行皇室典範では皇統は男系男子がこれを継承すると言う大原則を無視或いは改正ありきの理論構成での旧宮家の扱い方には違和感しか感じられない。
天皇".制"の言及は本質とかけ離れ単なる貶めとして利用しているが、皇室は家では無い。従って天皇家として一般家庭との比較も不適切であり結語としての明治政府が男尊女卑との決め付けと五箇条の御誓文の拡大解釈で女系継承の本心を吐露している。
このように女性宮家創設派は周到に準備し、旧宮家迄否定しており、戦後の義務教育で皇室への尊崇を教えられていない国民は7割近くが女性宮家、女性天皇に無防備な迄寛容である事も現状であろう。
そこで歴史を知らない、または皇室に詳しくなくとも女性宮家創設が危険であることを少しでも多くの日本人に周知されるように簡単にわかりやすく纏めてみたい。
皇室典範を改正し、女性宮家を創設すれば、愛子内親王殿下が男系女子として女性天皇となる可能性が考えられる。
そうなれば一般男性との結婚は許されず、国民からは哀れみの声が上がるだろう、まさに男尊女卑である。
国際結婚は許されないという差別問題も起こるかもしれない、極端な話中国人と結婚し子供が生まれればそこからは中国王朝の復活、或いは満州国
復活となるだろう。
ただでさえ偽満州と呼び、当時満州国との呼び方を禁止していた中国と円満な関係など築ける訳がないだろう。
私が最も信頼する小堀桂一郎氏は皇統の護持と皇室の弥栄の為には昭和22年10月に宮内府告示を受けて皇族の身分を離脱された宮家の中で現に存続して居られる6家、就中(なかんづく)現在男系の男子後裔をお持ちである5家の旧宮家に、皇籍への復帰による宮家の再興をお願ひするという案が有力と主張しされている。
しかし、同時に内閣への国民の嘆願の現実性を保証するのは他ならぬ国民の熱意であるとも述べている。
従って大切なのは日本人ひとり一人がアイデンティティを再起し皇室の存在を今一度考え身内の事として熱望することではないだろうか。