「よものうみ」と読む
1941 年 9 月 6 日の御前会議を経て日本は12月8日に宣戦布告することとなり、大東亜戦争へ突入していく。
この会議に於いて御製の引用が四方の海だ。
『四方(よも)の海、みなはらからと思う世に、など波風のたちさわぐらん』
通常以下のように訳される。
訳〉
四方の海にある国々は皆、兄弟姉妹だと思うのに、なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう
昭和天皇は、外交交渉を主とする政府答弁で、発言をしなかった 陸軍参謀総長杉山元と海軍軍令部総長永野修身に対し、その考えを問うた後、明治天皇が詠んだ『御 製「よもの海」』を二回繰り返している。
実質上は天皇の戦争反対の意思表明とされるが、その真意を考察してみたい。
杉山参謀総長が日記に昭和天皇、永野修身、杉山自身の御前会議に於ける発言を克明に記録している。
『直接「遺憾ナリ」トノオ言葉アリシハ恐懼ノ至リナリ 恐察スルニ極力外交ニヨリ目的達成ニ努力スヘキ御思召ナルコトハ明ナリ
又統帥部カ何カ戦争ヲ主トスルコトヲ考ヘ居ルニアラスヤトオ考ヘカトモ拝察セラルル節ナシトセス』
この記述から、昭和天皇に直接遺憾の言葉を聞かされた杉山の恐懼の至りが想像できるが、同時に昭和天皇に不信感を持たれているのではないかという不安感を漏らしている。
従って、 杉山参謀総長は、戦争を主とする政策に昭和天皇は反対であると理解する以上に、昭和天皇が反戦的であると考えたと言える。
しかし、参謀本部内では昭和天皇の開戦反対を危惧する者たちの様子を元大本営参謀種村佐孝 が『大本営機密日誌』に記している。
この時点で参謀本部自体もどちらに転ぶかすら不明な状態であることが理解できる。
一方、東條英機は陸相官邸に帰り、昭和天皇の意思が和平にあった事を周囲の者に伝えており、東條内閣の商工大臣で入閣した岸信介とも戦争回避努力を共有していた。
東條は総理として昭和天皇の意思に沿うよう考えたが、結果陸相として陸軍を抑える事が出来ず、開戦前夜布団の上に正座し号泣しているのを妻勝子に目撃されている。
このことからも東條自身は昭和天皇の和平希望を十分理解していたと言える。
前内閣総理の近衛文麿は、日本軍の中国及びインドシナからの撤兵や日独伊三国同盟からの脱退を要求するのルーズベルト大統領と、これに反対する陸軍との板挟みとなり、第三次近衛内閣の発足後3ヶ月で東條英機陸相と決裂して閣内不一致となり、一方的に内閣を放棄した。
後継内閣には、近衛も東條も、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立を望み、陸軍大将の東久邇宮稔彦親王を次期首相候補として挙げている。
昭和天皇は、「陸軍・海軍が平和の方針に一致するのであれば」という条件で東久邇宮首班を承認するが、内大臣の木戸幸一が、「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として東久邇宮首班に反対した。
結果「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」との木戸の意見が通り、東條に組閣の大命が降ることとなっている。
東條は総理就任に時を合わせて陸軍大将に基準度外視の異例の昇進をし、更に内務大臣も兼ねて絶大な権力を一手に握ったことで『東條幕府』とも揶揄された。
だが、陸相兼務は木戸の提案であり、対米交渉妥結時、大陸からの撤兵を確実に実施させる意図があった。
東條は翌年、統帥権干犯の疑義を超越し参謀総長までも兼任することとなる。
天皇の反戦、平和思想が結果として戦争に突入して行くようになってしまったことは後に様々な解釈や研究がなされてきた。
体制、軍部、東條の判断が複合的に重なり合って転がっていくと、日本国民は戦後その責任を一時の感情でA級と言う生贄に注いできた。
このようにして大日本の行方は一人のスケープゴートに委ねられたとも言えるのである。
したがって、日本国民を救ったのは昭和天皇と東條だったのかも知れない。
信じるか信じないかはあなた次第だ。