【神道の連続性】
フランシスコ・ザビエルは
「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、彼らより優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。
彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」
ザビエルは当時室町時代の日本での布教活動の困難さを日本人の印象を語ると共に本国へ伝えたと言われています。
当時の宗教、浄土真宗は蓮如の布教で信徒を増やし、日蓮宗も京都の商工業者の間で多くの信者がいました。
神道と仏教の違いは、神道は神話に登場する神々のように、元来地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、
仏教はおもに個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違します。
奈良時代以降の長い間、神道は仏教信仰と混淆し一つの信仰体系として再構成された宗教現象です。
仏教が日本に伝来した当初は日本書紀の欽明・敏達・用明各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたようですが、
仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなり、戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われました。
江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、
影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策をとりました。
徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃されました。
光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めます。
天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理しました。
幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていくことになるのです。
また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興します。
中でも平田派は明治新政府の宗教政策に深く関与することになり、大政奉還後に成立した新政府は慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、
および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを推し進めます。
このように、神仏の分離は明治期の突発的な政策ではなく、混淆したものが江戸期から徐々に
分離淘汰されていくのです。
つまり、江戸期において宗教は管理され信仰というよりは学問として抑圧されていたと考えられます。
江戸期の町は『火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞』と言われるほど稲荷神社だけでも相当数あったといわれます。
神道は宗教としてでなく、生活として日本に存在していたのです。
明治政府は「神道は宗教ではない」という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置きました。
終戦により一元的外在制約説の箍が外れたことが新興宗教の増大に拍車をかけたのです。
【幸福の科学と創価学会】
両者は同じ仏教ながら水と油、信者数NO1の幸福を政治力も大学も無いと創価の信者は詰ります。
宗教とは他宗を隔絶し反発することによって自らを守ろうとします。
この両者には神がいません、仏様です。厳密にはキリストにあたるものがエル・カンターレと日蓮大聖人という仏です。
靖國神社の英霊、戦没者が神となることに何かしらの違和感は感じているでしょう。仏教的に言えば、供養して1日でも早く仏様にと考えるでしょう。
幸福が真の歴史を広め創価と対立しているのは
信者獲得の為という組織拡大にあると思います。
幸福が創価のブレーキとなってはいるのですが
靖國に関してまたは皇室に関しては同じ見解なのです。
それ以上に大川は昭和天皇の霊言として靖國に関しては全く的外れで意図的に皇室を貶めています。
【創価学会】
創価学会信者は対外的には神までいるという、実に柔軟な思考をもっていると思われる対応をし、誘われれば鳥居もくぐるし英霊に哀悼の祈りも捧げると言います。
しかしながら池田氏や山口代表の靖國参拝は見たことがありません。強制ではないからです。強制となればたちまち反対するでしょう。山口総理が仮に誕生したとしましょう、
武道館には出席しますが靖國参拝はしないでしょう。何故ならば宗教法人靖國神社は異宗教ですから、所謂戦犯の合祀を問題化し、
特亜のクレームを理由に己の信教は伏せ8/15は武道館に出席するでしょう。
信者の方は皇室のことを天皇家とよびます。皇室は万世一系の天皇をいただき2675年間今上天皇陛下までの125代連綿と続いているのが日本の皇室です。
姓がないのに、どうして家と言えるのでしょうか?これは重要なポイントで『天皇家』を使う輩は間違いなく貶め廃止を企みます。
付随して保守の中にも京都に御戻りいただく、や江戸城再建などと主張する輩もこれに同じく
70年かけて皇室を貶める行為と考えます。
神道に対してもそれを信者は『天皇家の宗教』
と呼びます。神道とは古代からの原始宗教、自然崇拝であるアニミズムであり、日本の宗教です。
自然の中に八百万の神を見出し、神と人を取り結ぶ作法が祭祀であり、神が人の姿を見せるのが天皇なのです。
神道とは生活であり、日本の心であり、日本の宗教でもあるのです。ですから靖國が当時の国家神道であれ、現在の宗教法人であれ、
参拝者がどの様な宗教でも拒むことはないのです。
ですから学会にとって現実的に参拝する、しないは問題ではなく、異教の教祖的な存在である天皇陛下を心の内では拒絶しているのです。
靖國問題とは学会自身の参拝問題に言及することを避ける絶好の問題であり、決して表に公言しませんが皇室廃止にベールをかける意味合いを持っているのです。
彼らは政権与党となって日本と皇室を引き離す絶好の地位にいるのです。
【膨れ上がる創価企業】
民主主義の中で合法的に日本を操作するため、ただ一点政教分離原則のグレーをクリアすれば
アンダーグラウンドで宗教が政治、日本を操作出来る一歩手前まできています。
大作の創価というあからさまなダイソー、ユニクロ、ツタヤ、ヤマダ電気、等々関連企業あげればきりがありません。石を投げれば創価に当たるです。
大学、企業、政治と創価王国は日の丸を掲げることなく全国各地で日本人として、連立与党として君臨するのです。
新型ウイルスの様に時代に対応しながら、日の丸を掲げろと言われれば掲げます。靖國に参拝しろと言われれば参拝します。
安倍政権が倒れれば、ほどなくして皇居に高層ビルが立ち並び、コスモポリタン東京となり、古き良き日本は跡形も無くなるでしょう。
はたしてそれが日本と呼べるのでしょうか?
信教の自由の中で皇室をお護りしていくには宗教に対して政治的権力を与えてはならないのです。
日本人に生まれて、日本国に住むものとして2000年以上続く皇室は必要不可欠で、天皇陛下と約束を交わし日本存続の為に命を捧げて神となった事実はどんな宗教であっても否定することは出来ません。