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国策遂行要綱
昭和16年10月30日の大本営政府連絡会議に東條総理から提示された案
1、戦争を極力避け、臥薪嘗胆する
2、開戦を直ちに決意し、政戦両略の諸施策をこの方針に集中する
3、戦争決意の下に、作戦準備を完整すると共に、外交施策を続行して妥結に努める
1の臥薪嘗胆とは苦労や苦心を重ねることであるが、中国の故事成語であり、復讐を成功させるためとの意味を含む。
つまり、極力避けたい反面復讐心を抑えて我慢するといった一見挑発的とも取れる回避案を一番に据えているのだ。
案の定2.3の開戦ありきの選択肢で会議は紛糾するが、開戦を選択するしか術はなく、3の期限付き外交政策の続行に落ち着く。
昭和天皇の戦争回避の懇願が虚しく思えるほど時代は既に開戦へと舵を切っていたともいえる。
ここでそれ以前の歴史的事象を3つあげ、時代が既に対米開戦に向かっていたことを客観的に捉えておこう。
❶昭和7年 515事件
❷昭和8年 2月20日 国連脱退
❸昭和11年 226事件
515事件は犬養毅が海軍の青年将校に暗殺される事件であるが、その原因は犬養が満州国を認めなかったことにある。国連脱退も満州国の承認取り消し勧告によるものだ。更に226事件で陸軍皇道派のクーデターが契機となり軍部大臣現役武官制が復活する。
統制派の東條が近衛内閣を総辞職させることとなり、後任には対米協調派で皇族軍人の東久邇宮稔彦王を推す声があがった。
陸軍出身で陸軍幹部の受けも良く、和平派、開戦派の両方をまとめ対米交渉し得る人物であったらである。
ところが、内大臣木戸幸一は東條を推挙し昭和天皇もこれを承認した。
対米開戦の最強硬派の陸軍を抑え込めるのは東條しかいなく、天皇の意向を絶対視する人物とも評価していた。
『虎穴に入らずんば虎子を得ず、だね』との昭和天皇の言葉はこの木戸の推挙を確実に理解していたのだろう。
『何故対米開戦をしたのか?』に端的に答えを出すとすれば、米国が太平洋と満州国を日本から侵略しようとしたからに他ならない。
彼を未だにA級戦犯と呼ぶ現在の状況は奇しくも226事件の北一輝が思い描いていた国となっているのではないだろうか。
『戦勝国による事後法の裁きに基づくAとかBとかを受け入れるものではありません。但し、戦場に斃れたわけでもなく国策を誤り国際孤立に突き進んだ政軍の戦争指導者の靖国神社合祀には反対。』
長島議員は明らかに戦争指導者に責任ありとする考えである。
これは元戦没遺族会の会長を務めていた古賀氏の考えと一致する。