江戸川沿いの遊歩道、
海から52kmには、河川敷に滑走路がありNPO法人の関宿滑空場があった。
ここまでで1時間20分。
この先が気になりこの先にも行ってみた。
海から60km地点地図 関宿城跡地からみえる関宿城を模した博物館


海から60kmには、
関宿城(せきやどじょう)跡地があり
この城を模した関宿城博物館の天守閣がそびえている。
天守閣 天守閣から見える江戸川と利根川の分離地点


そしてこの天守閣に登ると、眼下には、
左手が自転車でエッチラと走ってきた江戸川があり、
右手には利根川が流れており、
目の前で、この二つの川が合流している。
正しくは、海から60km地点のちょっと先に、
江戸川と利根川が分離するところがあり、
蒸気機関発明以前は、つまり、明治以前までは、この一帯は繁栄していた。
江戸時代の江戸川流域地図 日光街道地図


関宿は、17世紀にピークを迎えていた。と思う。
江戸の食と安全を確保する。
その基盤は、運輸・通信・防衛網の構築であろう。
関宿は、
江戸川・利根川が分離する中州のようなところであり、防衛上優位な地点にあり、
城下町として発展した。
また、野田のしょうゆ産業をバックとした
大豆・塩・しょうゆなどの大量運搬が出来た河川運輸の重要な拠点ともなり、
港町としても栄え、
さらに、日光街道のわき道としての要所でもあり、
参勤交代・寺社仏閣などの移動・観光客の宿場町としても栄えた。
こうして昔をしのぶと、すごい繁栄の歴史があるが、
時代劇映画のセットのように、記録・記憶は鮮明のようだが
いまは、
江戸幕府とともに発展し、蒸気機関の普及で江戸幕府とともに時代の流れから遠ざかったようだ。
1603年に江戸幕府が出来、北関東の防衛の要所として関宿城が強化された。
幕府譜代の久世氏が藩主となり、久世氏は大阪城代、京都所司代、寺社奉行、老中などの要職を務め、
幕末は、会津藩同様の運命にあったようだ。
詳しくは調べていないが、明治政府には嫌われ無視されたことが、
蒸気機関から遠ざかった要因ではないかと思う。
しかしながら、
海から60km地点の、
江戸川・利根川の分離する関宿は、
明治以降140年間も産業革命で荒らされずに眠っていた
川と生命と江戸文化が貴重な資源としてあり
これを磨くことが出来ると思った。
ちょっと折りたたみ自転車では、往路2時間20分は可能でも
復路は尻が痛くなるので、バスを利用してしまった。
これならば、またいけそうだ。