モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

陽の花 ガザニア(Gazania)

2008-06-06 08:12:56 | その他のハーブ
(写真)ガザニアの花


太陽の花といえば“ひまわり”。 だが、“ガザニア”も太陽の申し子だ。

ひまわりは太陽を追いかけるが、ガザニアは太陽とともに花を開き
陽がかけると閉じてしまう。

南アフリカ原産の花であり、センテッドゼラニウムと同じように
耐寒性が弱く、乾燥したところを好み、梅雨の高温多湿と夏の暑い陽は嫌う。
だから寒冷地では1年草として扱うようだが、関東以西では多年草として育てられる。

ガザニアの葉は、細長いへらのようで濃い緑色をしている。
知らない頃は、葉の裏が真っ白であり、カビが生えたかのと思った。
あわてて摘み取ったが、全部が真っ白であり、カビで全滅かと思った。

無知とは恐ろしい。(自分のことです・・・)

特に、梅雨の合間の晴れ間にガザニアの葉の裏を見た人は、
梅雨とカビという常識にとらわれてしまう。
関東以西で多年草を1年草にしてしまう原因がこの辺にもありそうだ。

英名での「treasure-flower」は、和名でのクンショウギク(勲章菊)に通じ
艶やかで、格式があり、宝物のような花(treasure-flower)、勲章のような花
を意味している。

暗くなると“隠される”ところも踏まえて「treasure-flower」と名付けられたのであろうか?


ガザニアを発見したのはプラントハンターだった
バーチェル・ウイリアム(Burchell, William John 1781-1863)は、
1814年、南アフリカ喜望峰の付近でガザニアを発見した。
バーチェルは、ナーセリー(Nursery)といわれる栽培業者が誕生した時代の
ロンドン郊外のフルハムに栽培園(ナーセリー)を持つ家に生まれ、
キュー植物園で庭師の見習いをし、
1810年~1815年は、南アフリカを探検し5万もの標本を採取しフルハムに戻った。
この中に、ガザニアが入っていた。

ロンドン郊外のフルハムは、17世紀以降園芸の勃興とともに歩んだ由緒ある地域で、
ロンドン主教の館があるところでも有名だが
ヘンリー・コンプトン主教(Compton,Henry1632-1713)は、アメリカ植民地の
教会の統括責任者でもあり、この組織を使って珍しい植物を集め館の庭を飾った。

この植物を受け継いだのがフルハムに栽培園を持っていた
クリストファー・グレイ(Gray, Christopher 1693?-1764)であり、
栽培品種の販売カタログを最初に印刷して配布したことで知られている。
グレイの死後、フルハムの栽培園を手に入れたのがバーチェルの一族だった。

南アフリカ原産のセンテッドゼラニウムを発見したのは、
フランシス・マッソン(Masson. Francis 1741-1805)であったが、
彼が喜望峰の地に立ったのは1772年だったので、この38年後にバーチェルが南アフリカに来たことになる。
この間に
ナーセリー、カタログ、ボタニカルマガジンの発刊などで園芸の大衆化が始まった。

(写真)ガザニアの横顔


ガザニア(Gazania)
・キク科ガザニア(和名クンショウギク)属の総称で、半耐寒性の1年草・多年草。
・学名はGazania rigens (L.) Gaertn.(= Gazania splendens Lem.)。英名はtreasure-flower。
・整った丸い形の花を咲かせることから別名クンショウギク(勲章菊)という。
・原産地は南アフリカ。
・草丈10cm程度で、横に広がる。
・葉は細長いへら状で、裏は真っ白な毛で覆われている。(カビではない)
・開花期は5~10月。暗オレンジの直径5cm程度の大柄な花が咲く。
・花は、晴れた日の日中しか咲かず、それ以外は閉じているので、太陽の光量のバロメーターとなる。
・乾燥気味に育てる。
・ガザニアが日本に入ってきたのは大正時代のようだ。


ガザニアの名前の由来
Gazaniaの名は、
ギリシャ人古典学者ガザTheodorus Gaza or Theodore Gazis (1400–1475)の名前に由来する。
Theodorus Gaza は、1450年から1455年まで法王ニコラス五世に雇われ、
アリストテレスなどのギリシャの古典の翻訳をローマで行った。
ラテン語に翻訳されたアリストテレスの『動物論』で現存する最も古いものは、
1476年に印刷されたものであり、
枢機卿ルドヴィカス・ポドカサラス(Ludovicus Podocatharus)が編集にあたり、
ガザがラテン語訳している。

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