ミッショーのプラントハンティング
(写真) ミッショーの植物探索した主要な場所
(注)赤のピン:庭園の場所、黄色のピン:植物探索の場所
チャールストンに拠点を移したミッショー(Michaux, André 1746-1803)は、
アメリカでの博物学での第一人者ウイリアム・バートラム(William Bartram 1739 -1823)が
探索したルートをたどる旅からスタートした。
ウイリアム・バートラムには、自分の旅の記録を書いた博物誌があるがこれは、
イギリスの詩人ワーズワースなどに影響を及ぼす名作としての評価がされている。
一部分を読んでみたが確かに情景が浮かぶほどの写実的でかつ格調が高い。
自然を美しく切り取るのは写真だけではないことに気づかせるモノがある。
ミッショーの旅は、チャールストンから海沿いに草原地帯を突き抜け、
サバンナ川をさかのぼり高原の荒地でこの川の源流にたどり着いた。
そこで彼は貴重な植物を発見し、その後50年間も存在さえ知られない幻の植物の標本をつくった。
この植物は、オコニー・ベル(Oconee Bells)と呼ばれる。
(写真)Oconee Bells (Shortia galacifolia)
(出典)Carolina Nature by Will Cook
丸い光沢があるダークグリーンの葉を持った非常に珍しい常緑草本の多年生植物で、
1839年にパリを訪問していたアメリカの若い植物学者A・グレイ(Asa Gray 1810 - 1888)が、
ミッショーの標本が陳列されている博物館でこれを発見した。
ミッショーが発見してから50年間誰も標本も実物をも見たことがない幻の植物だった。
グレイはこのあとアメリカを代表する植物学者として活躍するが、
この植物を探す努力はしたが貧乏でお金が続かずに探索を断念したところ、
1877年に17歳のジョージ・ハイアムス少年がこの植物の実物を再発見した。
この植物の名前は、グレイが「Shortia galacifolia Torr. & A. Gray」と名付けた。
ミッショーは数多くの北アメリカの新しい植物を発見し名前をつけていったが、
重要な植物にはミッショーの名前が残っていない。
彼は学者でなく新種の生きた植物を発見し栽培することを生き甲斐とするプラントハンターだった。
わき道にチョッと入るが、1858年頃、A・グレイは日本の植物標本を見ていて、
「Oconee Bells」と同一の植物があることに気づいた。
和名では、 「いわうちわ (岩団扇)」 (学名:Shortia uniflora (Maxim.) Maxim.)という。
(写真)「いわうちわ(岩団扇)Shortia uniflora 」
(出典)commons.wikimedia
北アメリカの東部のごく一部と、日本にだけ生息している同一の植物。
これは19世紀中頃のセンセーショナルな謎で
ミッショーは、地球の植物相の変化・歴史の大きな謎を彼の植物標本のコレクションに残し
気づくヒトを博物館で待っていたようだ。
(補)グレイが見ていた日本の植物標本は、ペリー艦隊の植物学者がアメリカに送った標本のようであり別途のテーマで取り上げる。