喜望峰でゼラニュウムなど多くの新種を発見採取したイギリスキュー王立植物園のプラントハンター、マッソン。 北米で活躍したフランスのプラントハンター、ミッショー。この二人には接点がなさそうで接点があったようだ。
まずは二人の年齢を確認してもらいたい。ほぼ同時代だが、マッソンのほうがお兄さんで多少長生きしている。ミッショーは人生が短かったが、よくできた息子が父の志をリレー方式で完成させるという父を思う息子の感動ものがあった。
マッソン(Francis Masson 1741-1805)
ミッショー(Andre Michaux 1746-1802)
(写真)マッソン
マッソン、ミッショー。虚像との出会い
1785年11月、アンドレ・ミッショーは15歳になった息子とともににニューヨークに到着した。
丁度その頃、フランシス・マッソンは、再起をこめてイギリスを発ち二度目の喜望峰に向けて出発した。
同じ時期にミッショーは大西洋を西へ、マッソンは南へ旅立った。
マッソンの再起をこめてということは、喜望峰から帰ってからのマッソンは、ポルトガル、アフリカ沖の大西洋上にあるアゾレス諸島・カナリア諸島などの島々及びポルトガル、スペインなどにプラントハンティングに出かけたが目ぼしい成果がなかったようだ。氷河期にはアフリカまでが氷で覆われたようだが、この大西洋上の島々は、氷に覆われることがなかったので古い植物が生き残っている独自の植物相で貴重なところのようだ。
喜望峰も植物の宝庫でありプラントハンティングの地域の選択は間違っていなかったが幸運は続かなかったということだろうか?
そこでマッソンは、華々しい成果があったいい思い出の喜望峰・南アフリカに10年間留まり、1795年にイギリスに帰ってきた。イギリスに戻ってからしばらくした1797年の早い時期に、元の上司だった王立協会会長バンクス卿がマッソンを口説き始めた。
「カナダ北部の探検をして欲しい。君しかいない。」と、こんな感じだったのではないかと思う。
王立協会会長としてイギリスの科学・技術領域で絶大な権力も持っていたバンクス卿に逆らえるわけがなく、マッソンはいやいやながらもこれを受け入れ、1797年9月カナダに向かって航海した。嵐とフランスの海賊船のためニューヨークに到着したのはその年の12月だった。
ミッショーから12年遅れてマッソンもニューヨークの地に着いた。
ミッショーは、マッソンの栄光を知り自らの栄光を求めて北米に出発したが、マッソンは、ミッショーの影と出会いこれを追いかけることになったのではないだろうか?
カナダ探検企画の不可解さとマッソンのカナダ探検
バンクス卿がカナダ北部の探検を企画したのは何故だろうか?
カナダはフランス領でありイギリスにとっては入り込めないところであるが、これだけではなくミッショーの成果が気になったのだろうか? 或いは、フランス同様に、自国の気候に合う新たな木材資源の開発が急務になったのだろうか?
謎は尽きないが、ミッショーの探索の成果が影響している可能性が高い。
と思われる。
この不可解さを、探検地と採取した植物などから検証してみよう。
(写真)ミッショーとマッソンのプラントハンティング地
ミッショー:黄色とオレンジの押しピン マッソン:オレンジの風船
マッソンとミッショーの探検地域を地図にプロットしたが、
マッソンは、モントリオールをベースキャンプにナイアガラ滝から五大湖周辺の探検を行っている。いわばアメリカ、フランス、イギリスの領土の境界線上を探検しており、ミッショーのようにカナダの北方へは行っていない。
マッソンがバンクス卿におくった採取した種子・植物は、
オンタリオ湖周辺で採取した種子1箱とワイルドライス(wild rice)の標本
(注)wild rice:Canada rice, Indian rice and water oats
ミネソタのグランドポテージへの旅では、生きた水生植物と123種の植物の種
ケベックのハーブと潅木及び90種の植物の種
モントリオール周辺で果物・ナッツ・ヤナギの木の見本
イギリスのバンクス卿に送った採取した植物類、採取場所から見ると、ミッショーが行かなかった空白地での新奇植物を幅広く集めているようであり、バンクス卿の世界の植物情報を集積する一環でなおかつフランスのミッショー対抗という性格が強そうだ。
頑固で一徹で負けず嫌いなバンクス卿の性癖が、フランス何ものぞという意識で、ミッショー対マッソンという構図を作ったとしか思えない。
マッソンは、イギリスに帰ろうと思っていたようだが、1805年12月23日のイブの日にモントリオールで死亡した。プラントハンティング中に野営し凍え死んだのかとばかり思っていたが、John Gray(モントリオール銀行の初代頭取?1755-1829)の家で亡くなったようだ。