飛鳥山を語るには、1720年の江戸に戻らなければならない。この年に八代将軍徳川吉宗により飛鳥山に桜の木が1270本も植えられた。
何故桜の木が植えられたのかという謎解きをしておこう。
(写真)東京の名所 飛鳥山公園の桜花見(3月28日)
花見の背景
徳川幕府を長持ちさせたのは八代将軍徳川吉宗の享保の改革があったからだといわれている。
吉宗は二代将軍秀忠の男子直系が死に絶えたので御三家紀州藩主から将軍となり、五代将軍綱吉を尊敬し、自ら一日二食で一汁三菜と質素倹約を旨とし、武芸復興を行い鷹狩を復活させた。自らが先例に則らない生い立ちなので先例に則らない『改革』を行った。
余談だが、ということは大化の改新、明治維新など先例のないことを起こさないと『改革』が出来ないという事例でもあり、今年9月までにある総選挙での我々国民の覚悟の参考となる。
この鷹狩の場に桜の木を植えさせたのが吉宗だったが、享保の改革と無縁ではなかったようだ。
ガタがきていた幕府の統治能力を立て直すために、①税の改革、②公務員制度の改革、③新規事業による総需要の創出、④裁判制度のスピードアップ改革、⑤民意を吸い取る目安箱制度創出等を行った。
それぞれを簡単にレビューすると、
①税の改革では、米の出来高に応じて年貢を納める(検見法)のではなく、過去年度の収穫高の平均で年貢を納める定免法(じょうめんほう)を1722年に導入し幕府収入の安定化を図った。豊作のときは農民に余剰が出、凶作のときは厳しい事態となった。また1728年には年貢を五公五民制(徳川家康が制定した四公六民制)に増税した。これにより、豊作遊興による都市文化の発展と凶作による一揆が同居することになる。
②の公務員制度の改革は、役職と禄高がリンクしていたこれまでの制度を改革し、南町奉行大岡越前守などの下級旗本で能力ある人材を登用した。いわば、役職手当をつけることでこの問題を切り抜けたが、既得権益化し固定化・保守化する人事に新しい血が入る仕組みを生み出したともいえるし、新政策を実行するには、ヒトを変えなければ出来ないという現実もある。
今日まで残る悪習慣がある。それは、江戸期の官僚に作られた“贈収賄”である。体制が変わらない安易性とお上意識が利権をむさぼる温床となり、ロバート・フォーチュンの「江戸と北京」でも、“こいつらが”というほどの汚い日本人と蔑んでいる。この役人の贈収賄の取締りを行った初めての将軍だったが、今でも続く悪習は、倒産・失職もなく責任をとらない江戸期が続いているからなのだろう。
③新規事業による総需要の創出は、米本位制の江戸時代には「新田の開発」であり、江戸初期の全国の米生産量が1800万石だったのが江戸中期には2500万石まで4割近い伸びを示し、関が原合戦の頃の日本の総人口推定が1200万人に対して、江戸時代には3100万人まで増加したと見られている。この著しい人口の増加は、食糧生産の増加によって支えられていることはいうまでもない。税収も当然増加し新事業の育成・開発は政府の重要な役割でもある。
道路を作る財源を産業創出に振り向ければ、雇用の創出と税収の増加が出来るのにと思うのは私ばかりだろうか?
このように幕府財政を改善するために基本政策として“倹約”と“重税”化したので、庶民には当然不人気となる。この不人気をカバーする政策が、“花見”であり無料の赤ひげ診療所“小石川養生所”でもあったと思う。
(写真)江戸名所 飛鳥山花見乃図(歌川広重1853年作)
飛鳥山のサクラと花見
飛鳥山のサクラが庶民にも開放されたのが増税後しばらくたった1737年頃といわれる。この年は、桜の木を植えた鷹狩場を王子権現に寄進した年でもあり、植えてから17年もたっているのでさぞや見事に育ったことだろう。
何故飛鳥山に桜を植えたのかという疑問は、王子権現にあった。この王子権現は、郷里の熊野権現信仰であり信仰上の特別な思いがあったという。
「サクラ」の語源には、イネの神が宿るという説を桜井満が唱える。「サ」は、早苗・五月雨などの「サ」であり穀霊を意味し、「クラ」は神楽、神座(かくら)であるという。サクラの花にはイネの神が宿るということを将軍吉宗が知っていたとしたらさらに納得であり、その木の下で酒宴を行い豊作を祈願する『花見』は非常にわかりやすい。
この頃の桜の名所は、家康を守り神にした上野の寛永寺境内であり、花見の酒宴などもってのほかであった。
そこで、飛鳥山の花見は、吉宗自ら酒宴を行い範を作ったから庶民の格好の憂さ晴らし・行楽の場となり、飲めや歌えや仮装などの現在まで続いている『花見』の原型が作られた。
基点となる神田錦町から日光街道に接続する将軍家の御成通りであった本郷通りを北上し1時間でたどり着く圏内にあり、江戸庶民の健全な娯楽スポットとなった。この人気取りの都市環境整備政策は、ヒトを動かし、財布を開けるということを含めても大成功といっても良さそうだ。
飛鳥山で出来上がった『花見』は、日本独特の文化となり。豊作を祈願する場から、いまでは健康をテストする或いはタレント性を誇示する場となり、救急車とサクラより奇抜な装いに目を奪われたりしてしまうハレの場になってしまった。
しかし、理由はどうであれ、一瞬の季節感を愉しむ『花見』は、いいものだ。
憂さも忘れるので、『定額給付金』よりは気分がスッキリするし財布も開けてしまう。消費拡大は、徳川吉宗の政策に学びたいものだ。
(ただし、税率アップは、やることをやってから!)
現在の飛鳥山公園は、王子駅に隣接し交通便利なところにあるが過日の香りもなく整った公園になってしまっている。茶屋などを探したがそれも見当たらず、早々に退散してしまった。
(写真)東京名所 明治末から大正初期の飛鳥山の花見(飛鳥山博物館)
(写真)平成の花見、飛鳥山公園のサクラ
何故桜の木が植えられたのかという謎解きをしておこう。
(写真)東京の名所 飛鳥山公園の桜花見(3月28日)
花見の背景
徳川幕府を長持ちさせたのは八代将軍徳川吉宗の享保の改革があったからだといわれている。
吉宗は二代将軍秀忠の男子直系が死に絶えたので御三家紀州藩主から将軍となり、五代将軍綱吉を尊敬し、自ら一日二食で一汁三菜と質素倹約を旨とし、武芸復興を行い鷹狩を復活させた。自らが先例に則らない生い立ちなので先例に則らない『改革』を行った。
余談だが、ということは大化の改新、明治維新など先例のないことを起こさないと『改革』が出来ないという事例でもあり、今年9月までにある総選挙での我々国民の覚悟の参考となる。
この鷹狩の場に桜の木を植えさせたのが吉宗だったが、享保の改革と無縁ではなかったようだ。
ガタがきていた幕府の統治能力を立て直すために、①税の改革、②公務員制度の改革、③新規事業による総需要の創出、④裁判制度のスピードアップ改革、⑤民意を吸い取る目安箱制度創出等を行った。
それぞれを簡単にレビューすると、
①税の改革では、米の出来高に応じて年貢を納める(検見法)のではなく、過去年度の収穫高の平均で年貢を納める定免法(じょうめんほう)を1722年に導入し幕府収入の安定化を図った。豊作のときは農民に余剰が出、凶作のときは厳しい事態となった。また1728年には年貢を五公五民制(徳川家康が制定した四公六民制)に増税した。これにより、豊作遊興による都市文化の発展と凶作による一揆が同居することになる。
②の公務員制度の改革は、役職と禄高がリンクしていたこれまでの制度を改革し、南町奉行大岡越前守などの下級旗本で能力ある人材を登用した。いわば、役職手当をつけることでこの問題を切り抜けたが、既得権益化し固定化・保守化する人事に新しい血が入る仕組みを生み出したともいえるし、新政策を実行するには、ヒトを変えなければ出来ないという現実もある。
今日まで残る悪習慣がある。それは、江戸期の官僚に作られた“贈収賄”である。体制が変わらない安易性とお上意識が利権をむさぼる温床となり、ロバート・フォーチュンの「江戸と北京」でも、“こいつらが”というほどの汚い日本人と蔑んでいる。この役人の贈収賄の取締りを行った初めての将軍だったが、今でも続く悪習は、倒産・失職もなく責任をとらない江戸期が続いているからなのだろう。
③新規事業による総需要の創出は、米本位制の江戸時代には「新田の開発」であり、江戸初期の全国の米生産量が1800万石だったのが江戸中期には2500万石まで4割近い伸びを示し、関が原合戦の頃の日本の総人口推定が1200万人に対して、江戸時代には3100万人まで増加したと見られている。この著しい人口の増加は、食糧生産の増加によって支えられていることはいうまでもない。税収も当然増加し新事業の育成・開発は政府の重要な役割でもある。
道路を作る財源を産業創出に振り向ければ、雇用の創出と税収の増加が出来るのにと思うのは私ばかりだろうか?
このように幕府財政を改善するために基本政策として“倹約”と“重税”化したので、庶民には当然不人気となる。この不人気をカバーする政策が、“花見”であり無料の赤ひげ診療所“小石川養生所”でもあったと思う。
(写真)江戸名所 飛鳥山花見乃図(歌川広重1853年作)
飛鳥山のサクラと花見
飛鳥山のサクラが庶民にも開放されたのが増税後しばらくたった1737年頃といわれる。この年は、桜の木を植えた鷹狩場を王子権現に寄進した年でもあり、植えてから17年もたっているのでさぞや見事に育ったことだろう。
何故飛鳥山に桜を植えたのかという疑問は、王子権現にあった。この王子権現は、郷里の熊野権現信仰であり信仰上の特別な思いがあったという。
「サクラ」の語源には、イネの神が宿るという説を桜井満が唱える。「サ」は、早苗・五月雨などの「サ」であり穀霊を意味し、「クラ」は神楽、神座(かくら)であるという。サクラの花にはイネの神が宿るということを将軍吉宗が知っていたとしたらさらに納得であり、その木の下で酒宴を行い豊作を祈願する『花見』は非常にわかりやすい。
この頃の桜の名所は、家康を守り神にした上野の寛永寺境内であり、花見の酒宴などもってのほかであった。
そこで、飛鳥山の花見は、吉宗自ら酒宴を行い範を作ったから庶民の格好の憂さ晴らし・行楽の場となり、飲めや歌えや仮装などの現在まで続いている『花見』の原型が作られた。
基点となる神田錦町から日光街道に接続する将軍家の御成通りであった本郷通りを北上し1時間でたどり着く圏内にあり、江戸庶民の健全な娯楽スポットとなった。この人気取りの都市環境整備政策は、ヒトを動かし、財布を開けるということを含めても大成功といっても良さそうだ。
飛鳥山で出来上がった『花見』は、日本独特の文化となり。豊作を祈願する場から、いまでは健康をテストする或いはタレント性を誇示する場となり、救急車とサクラより奇抜な装いに目を奪われたりしてしまうハレの場になってしまった。
しかし、理由はどうであれ、一瞬の季節感を愉しむ『花見』は、いいものだ。
憂さも忘れるので、『定額給付金』よりは気分がスッキリするし財布も開けてしまう。消費拡大は、徳川吉宗の政策に学びたいものだ。
(ただし、税率アップは、やることをやってから!)
現在の飛鳥山公園は、王子駅に隣接し交通便利なところにあるが過日の香りもなく整った公園になってしまっている。茶屋などを探したがそれも見当たらず、早々に退散してしまった。
(写真)東京名所 明治末から大正初期の飛鳥山の花見(飛鳥山博物館)
(写真)平成の花見、飛鳥山公園のサクラ