モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

『安行寒緋(あんぎょうかんぴ)』サクラの花

2009-03-17 09:07:32 | その他のハーブ

熊本では染井吉野が咲き始めたようだ。
関東での開花は3月25日頃が予想されているが、今週の春風に乗って早めにやってくるかもわからない。

染井吉野のちょっと前に咲くのがこの『安行寒緋』サクラのようだ。
しかも、小石川植物園の『安行寒緋』が有名で、実はこれもそうなのだ。

(写真)安行寒緋サクラの花


この『安行寒緋』の花は、朱のようなピンクが入り色気満点の美しさがある。

よく似た花で『オオカンザクラ(大寒桜)』があるが、これは、川口市の安行に咲いていた雑種のサクラのようで、『安行寒桜』という別名もある。
『安行寒緋』も、この『オオカンザクラ(大寒桜)』に近い種のようで、大輪の遅咲き寒桜が特色で早咲きの寒桜が咲き終わった3月中旬に咲く。そして染井吉野が引き続いて咲き始める。

染井吉野は、染井、いまの六義園がある駒込あたりになるがここで江戸末期頃誕生したという。幕末に日本に来たフォーチュンも染井の苗木園を物色していて、そのあまりの広大さと植物の種類の多さなどに驚いていて、『世界のどこに行っても、こんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。』といっている。

現在の苗木園は、染井から安行にシフトしているが、これはもう、染井と安行に行かざるを得ない。

(写真)安行寒緋サクラの花


安行寒緋(アンギョウカンピ)
・サトザクラ系
・学名は、Prunus lannesiana cv. Angyokanpi。

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その75:江戸を歩く ③ 江戸の『出島』

2009-03-16 09:04:14 | ときめきの植物雑学ノート

江戸にもオランダの『出島』があった。
その名を『長崎屋』という。

17世紀初めに長崎から江戸に出てきた長崎屋源右衛門が開業し、1630年代にはカピタン宿として江戸の開国まで営業していたようだが、開国によって長崎の『出島』同様に寿命が尽きてしまった。
また、江戸は火事が多く長崎屋も何度か火事で焼けてしまい、記録となるものが存在しない伝説の江戸の『出島』のようだ。

本来の『出島』は、鎖国政策を取った幕府がヨーロッパ人を管理するために長崎の港に埋め立てて作られた人口の島で1635年に完成した。1641年からは平戸のオランダ商館をここに移し、1855年の開放令で自由に出歩けるようになるまで220年間閉じ込められた海外だった。
この『出島』は、長崎の有力者の出資で埋め立てられ、オランダ東インド会社に年間一億円程度で貸出したという。幕府も民間の資力を活用し小さな政府を心がけていた。

植物史的に見ると、1869年にスエズ運河が開通するがそれまでは、江戸→長崎出島→喜望峰→ヨーロッパ(オランダ)が世界に通じる道であり、この逆を通ってオランダ商館の医師としてケンペル(1690-1692年滞在)、ツンベルク(1775-1776年)、シーボルト(1823-1829,1859-1862年)が日本にやってきた。
日本の開国・スエズ運河の開通までがロマンのある植物史だと思う。

フランシス・マッソンとツンベルクは喜望峰で一緒にプラントハンティングを行っており、個人的には、喜望峰からツンベルクと共に長崎までくる予定でいたがなかなかたどり着けないでいた。何故かというと資料が豊富になり読みきれていないことと先人の研究で埋め尽くされているから手を出せないでいた。

ちょうど、柳沢吉保が作った六義園が綱吉の時代であり、ケンペルは五代将軍徳川綱吉と面会しているので、ここから始めてみるチャンスと思った。まずは手探りでそろそろと進んでみることにした。

(写真)長崎屋跡地に当たる場所


『長崎屋』は江戸本石町三丁目にあり、現在の中央区日本橋室町四丁目二番地にあたる。いまは、JR総武線新日本橋駅出口とその横に駐車場があるだけで、影も形も残っていない。
このあたりを歩いてみたが、立地としては、神田から新橋まで日本橋・銀座を通るメイン道路“銀座中央通り”に面した一角にあり、すぐ横の室町一丁目には日本橋三越、その裏側に日本銀行があり、またこの界隈は三井系のビルが結構多い。
かつての繁華街日本橋もだいぶ寂れてしまったが、丸の内を三菱グループが再開発しているように、日本橋は三井グループが再開発に取り組んでいるかのようだ。

『長崎屋』は、旅籠とばかり思っていたがそうではなかった。
江戸幕府御用達の薬種問屋であり、後には、韓国以外の唐人参、最後には輸入蘭書の独占販売権を持たせるなどの見返りを渡している。だがそれでも事業として維持できなかったので『長崎屋』は消えていってしまった。

参勤交代・江戸参府などは、大名・東インド会社・『長崎屋』などに体力を使わせる果てしない無駄の経済政策としてとられていたことはいまさらいうまでもないがちょっと確認をしてみよう。

(写真)高速道路に覆われた道の基点となる日本橋


カピタン(甲比丹)の江戸参府
1633年から年1回の江戸参府が始まった。(参勤交代制は1635年から始まる。)あまりにも体力とコストを使うので1790年からは4年に1回になった。ツンベルクはこの前に日本に来ていたので、運よく江戸に行くことができ、途中の箱根での植物採取や『長崎屋』での日本人学者との交流が出来、多大の影響を残しまた自分の研究の成果を強化することが出来た。
どのぐらい大変だったかを測るデータが多少残っている。

ケンペルは、2回江戸に来ているが、その1691年の第一回の旅程を見ると、
2月13日長崎発、3月13日江戸着、3月29日将軍綱吉に拝礼、4月5日江戸発、5月7日長崎着と83日約3ヶ月も旅行した。サクラの咲く頃にカピタンが江戸にやってきたことになる。
しかも総勢100名を超える大所帯で移動しているので、1日100万円かかったとしても1億円以上のコストがかかったことになる。

日本からの主要輸出品は銀であり、オランダ東インド会社にとって初期の日本貿易は魅力があったようだが、銀の輸出規制と輸入の規制が強まり、魅力ないものになっていったことは間違いなさそうだ。
“郷に入れば郷に従え”とはいえ、当時のヨーロッパの中で合理的なオランダ人がよくもこのようなルールに従ったものだ。競争のない独占には合理性というものさしが不必要なので、当事者はうれしいが、ライバルにとってはねたましく邪魔なものかもわからない。

しかも『長崎屋』などを含めた『出島』は、オランダに治外法権があるわけではなく、幕府の主権下で監視され、外出は出来ない、人と会うことも出来ない(許可が要る)という軟禁状態にある。
ケンペル、ツンベルク、シーボルトとも日本の旅行記・博物誌・植物誌を書いているが、江戸参府がなかったら後世に残るものとなったか疑問があり、彼らだけには意義のある江戸参府だったのだろう。

ケンペルが帰国後に著した『日本誌』(1727年)の中に彼が観察した日本があるので紹介しておくと、
「すべての技芸および手工業・商業その他の工業は繁栄しているが、非常に多くの安逸をむさぼる役人や僧侶らの存在が、この国のどんな地方よりも、すべての物価を一段と高くさせる原因となっている。」

これは1691-1692年の江戸の観察であり、いまではない。
役人はいまも昔も必要にして不要という問題を抱えていて変わっていないということがわかる。
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その74:江戸を歩く ② 江戸の庭園、六義園(りくぎえん)

2009-03-13 08:43:27 | ときめきの植物雑学ノート
平和になった江戸時代に名園が二つ同じ頃に誕生した。
水戸藩江戸上屋敷に黄門様によって完成された『小石川後楽園』 、柳沢吉保が作った『六義園(りくぎえん)』である。そしてこの中間のところに幕府の『小石川御薬園(現在の小石川植物園)』がある。

庭園としてどちらからスタートするか多少迷ったが、『六義園』から始めることにした。
何故? 素晴らしいの一言に尽きる。
『小石川後楽園』はちょっと気に入らないところがあったが、この『六義園』は素晴らしい。

世に評判が悪い柳沢吉保だが・・・
1680年に第五代将軍徳川綱吉が登場した。後に御側用人として権勢を握った柳沢吉保(1658‐1714)22歳の時だった。
綱吉は1709年に亡くなるまで29年間柳沢吉保を使い親政を行い、年率3%程度の安定した成長を続け元禄の文化が花開いた。この頃には既に幕府体制の経済的な破綻が出つつあり、綱吉およびご母堂桂昌院の浪費が江戸の経済を支えた一面もあるという。

ただ、徳川綱吉・柳沢吉保にとって不幸だったのは、彼らの時代に今でも人気がある赤穂浪士の忠臣蔵がおき、政治のカウンターとして水戸光圀がいたことであり、綱吉亡き後には新井白石が登場したことでもある。

忠臣蔵では悪の権化として描かれる柳沢吉保だが、『六義園』を見る限りインテリジェンスの高さ、センスのよさを感じた。
そして、徳川綱吉死去3ヵ月後にはお役ごめんを申し出て隠居し『六義園』造営に徹したという。権力を離さないようにしがみつかなかった身の処し方に人生を見切る先達としての確かさを感じ俄然興味が湧いてきた。
権力にしがみついたものたちは、新井白石に粛清されたというから素晴らしい見切りだった。

柳沢吉保は、「小石川後楽園」が作られた時期に、どうして『六義園』を作ったのだろう。綱吉を招くための水戸藩上屋敷を超える社交場が欲しかったのだろうか? 巨額の造園費用はどこから捻出したのだろう? こんな疑問が湧く。

『六義園』の場所は、1695年に綱吉からもらい、1702年には庭園と下屋敷が完成した。完成するまでは設計図を見て注文はつけていたようだが、現場に足を運ぶ余裕も時間もなかったようだ。1709年7月には隠居しているので、彼が亡くなるまでの5年間は存分に庭いじりが楽しめたのだろう。

『六義園』のいま
日本庭園は難しく見ないことにしている。
自然、宇宙を縮尺して取り込み配置し、四季折々に見る角度によって様々な風景が生まれるようだが、美しい風景をつくれることができたか、それを美しいと感じれるかだけで見ることにしている。

(写真)園内地図








池を中心につくり、この周りを回遊できる庭だが、明るく軽やかで突き抜けた考えが感じられるいい庭だと思う。 柳沢吉保の思考の透し図が垣間見れた感じがし、尊敬に値する思考の持ち主だったのかもしれない。

えてして樹木と岩などがが、重く暗い印象となるところが多いがここは日本庭園の西海岸という明るさがある。マツなど暗さを演出する素材として申し分ないが、ここの庭のマツは明るくて新しい感じがある。思わず写真をたくさん撮ってしまった。

大きな庭園の物足りなさは、池、築山、滝、小川、巨石、巨岩、高木などを配置するので、草花一輪がないがしろにされている。多くの種類の一輪の草花が見たいのにない。これが面白くない。
雑草のない庭園は自然ではないので、自然をまねするところで間違ってしまったのだろう。或いは自然を縮尺したさいに消えてしまうほど小さい存在だったのだろうか?

ちょっと“庭・園”を考えてみると
公園はみんなのものでありみんなが楽しめることを出発としてつくられている。
『公』という考えが取り入れられるようになってからつくられるようになり、だからなのか、ゆえになのか、全体的に“狭い”“何もない”“考えられていない”がはっきりと出ている。
もちろん例外もあるが、これらの多くは由緒ある庭園が篤志家の寄贈などにより公共財になったものが多い。例外の一つに『野田清水公園』がある。ここはキッコーマンの持ち株会社的存在である「千秋社」が管理している公園であり私有地を無料で市民に開放している。その基本的な考え方には、緑と水資源を守るという考えがありキッコーマンの組織哲学の実践でもあるようだ。
ここは、週一の散歩コースだが、公園としては最高の部類にある素晴らしいところだと思うし、1時間も居れない「小石川後楽園」よりも気に入っている。

公園にしても庭園にしても植物園にしても、これらを維持することは大変だ。公共財として税金で維持するか、ドネーションで維持するか、観光資源として収入を得るかなど悩みは尽きないと思う。

この『六義園』は、三菱の岩崎弥太郎が1888年に購入し、東京市に1938年に寄贈したという。岩崎弥太郎は政商と揶揄されるが、重要な文化財、家屋、庭などを結果として保護してくれたいまから見るとありがたい人でもあった。

ということは、『庭園』はこれからなかなか作られないし、今存在しているものも消えて行く運命にあるとしか思えない。
絵画と同じ芸術作品でもあると思うが、生き物であり維持管理が大変で、100億もする小さな絵などと比べるとスペースあたりの金額が安い非効率的な代物でもある。


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その73:江戸を歩く ①小石川御薬園跡地、小石川植物園

2009-03-09 08:09:09 | ときめきの植物雑学ノート
日本のボタニカルなシンボルは?
日本の植物大好き人間、或いは植物学を目指す人のシンボルになるものといえばなんだろう? 英国ならばキュー植物園といえそうだが思い浮かばない。

これを農業、緑資源の保全・活用、グリーンエコ・エコノミーまで広げた場合、これらの知識・技術・人材育成などを推進するコアセンターがあるのだろうか?
花博の大阪万博、環境博としての名古屋万博などのイベントがあったが、これはこれで重要だが一過性のものであり継続的ではない。

大学の講座、植物園、茨城県の筑波などにある公的な研究所、農業試験所、民間企業の研究所などなどがあるがどうもピンとこない。
役に立てようとしていないから埋没しているのだろうか? 
自分の研究領域に没頭していて蛸壺に入りっぱなしなのだろうか? 
政府或いは政党に新しい方針を立案する能力がないのだろうか?
実は日本にはキュー植物園のような世界に誇れるモノが何もないのでは?
こんな素朴な疑問がある。

もし、日本にキュー植物園のようなシンボルとなりえる機能があるとすると、『小石川植物園』がその役割を担えるのではないかという期待がある。 ただ勘違いされてはいけないので初めに明確にしておくと、キュー植物園を私が評価するのは、植物園としての機能だけでなく、世界の植物の“種”の情報を集めて公開しているところにある。

そこで前から気になっていた『小石川植物園』に行ってみた。
後楽園球場近くにある『小石川庭園』がそうかなと思って入ってみたが、ここは水戸藩二代目藩主の黄門様が完成させた『小石川後楽園』という庭園跡で、植物園は白山下というもっと交通不便な違った場所にあった。
この界隈には五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けた御用人柳沢吉保の庭園跡『六義園(りくぎえん)』もあり、江戸の二つの名庭園と植物園が散歩が出来る範囲内にある。

小石川植物園の由来
小石川植物園は、明治(1877年)になってから東京大学理学部の付属植物園となり今日に至っているが、その前は徳川幕府の薬園だった。
その薬園の前はといえば、徳川五代将軍綱吉が将軍就任前の頃に住んでいたところで、その頃は白山御殿と呼ばれていた。綱吉が将軍になった後の1684年に幕府の薬園となり「小石川御薬園」と呼ばれた。1722年(享保七年)には黒澤映画の『赤ヒゲ診療所』で知られている小石川養生所が設けられた。また、青木昆陽が1735年(享保20年)に甘藷(サツマイモ)の試作をしたのもこの薬園だった。

世界の歴史で比較すると、イタリアのパドヴァ大学に世界最古の大学付属植物園が作られたのが1545年であり、イタリア諸都市、ヨーロッパ各国へと伝播していく。
小石川植物園は、御薬園から325年の歴史があるが付属植物園としての歴史は新しい。また、日本最初の薬園は、593年に聖徳太子が大阪四天王寺内に作った施薬院といわれており、薬草、薬学、植物学への組織立った興味関心は相当遅れてスタートしている。
中国からの輸入がなかったらもっと眠っていたのではないだろうかと思えてしかたない。

(写真) 小石川植物園内の地図


小石川植物園のいま
小石川植物園は、入る前にまず驚き入ったあとでさらに驚くところとなっている。
最初の驚きは民営化だった。入園料が一般330円と安いが入場券は正門斜め前のタバコ屋さんが代行して販売している。洗練されてはいないがこんな民営化もありそうだ。

園内は、敷地面積161,588m2(48,880坪)で細長く奥に長い。ツツジ、ツバキ、サクラなどかなり種類がありそうだ。またかなりの樹木がある。
私の趣味とはまったくバッティングしていなかったので、植物探索・発見の楽しみが出来た。

しかし、一般公開はしているが大学の付属植物園だけあり垢抜けないところがある。うなぎの寝床のような細長く延々と歩く広いスペースに雑然と樹木が植えられている感があり、本当に植物に興味がないとつまらないところかもわからない。

園内に日本庭園があり梅林、菖蒲などがあったが、どうも日本庭園そのものに感動しない。ここだけがつくりこまれた不自然さが際立っていて浮いていたが、そう感じるのは数少ないかもわからない。
この日本庭園があったから、垢抜けない植物園全体の魅力が見えてきた。垢抜けないからいいのだが、それにしても手が入っていない或いは人知が生かされていない垢抜けなさとでも酷評したい。

(写真)小石川植物園内




これが小石川植物園の歴史といまだが、歴史とか由緒だけでは持たない。
以前も書いたが、植物園は、学術研究を目的に、植物を集め・栽培し・標本を作り・種を取り再現させるなどの調査研究機能を持った場をいい、1500年中頃のイタリアで興った発明ともいえる。キュー植物園はさらに世界の植物の種情報を集め集積するセンターとなる機能を付加し実践した。

都市の景観・憩いの場としての公開は、植物園から派生した機能で主機能ではないとはいえ、集めている植物群に目的性なり意味を見出せないほど過去になっていたようだ。
重要なバックヤードの機能はよくわからなかったが、東京大学付属植物園という現在のポジションでは出来ることが限られるような気がするし、普通の日本人にこれまで何をやってきたかが説明できずにここに至った感がある。

そういった意味では、もったいないスペースのように思うし、新しいことをしたくない、働きたくない公務員の格好の憩いの職場となっていて、東大に任せていてはダメなのではないかと思った。国の貴重な資産を生かせないで死産にしていることだけはたった一回の探索で伺うことが出来た。
行く前は、会員になろうと思っていたが、100年一日のような運営のようでありこれはダメだ。

この広いスペースを私ならどう使うかというシュミレーションが出来ることと、植物のバッティングがないのでたまに覗いてみようとは思った。

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桜前線北上! イズタガアカ(伊豆多賀赤)の花

2009-03-08 08:55:52 | その他のハーブ

桜前線がついにわが町にやってきた。
早咲きの桜ではあるが、いい天気に誘われ日当たりがよいところから開花していた。

(写真)南面が二分ほど開花した桜 by野田清水公園






(写真)イズタガアカの花


この桜の品種名は『イズタガアカ(伊豆多賀赤)』。

先日掲載した、「カンヒザクラ(寒緋桜)」  「カワヅザクラ(河津桜)」と同じヒカンザクラ系統に属する園芸種で、野生種は中国の冬桜花、チベットのヒマラヤサクラなどが該当する。この系統は3月上旬から赤がはっきりした花を咲かせる。

比較的大形の花で「カワヅザクラ(河津桜)」とよく似ているが、「イズタガアカ(伊豆多賀赤)」の方が淡いピンクの色合いだ。

桜は心をウキウキさせるものがあり天気さえよければ花見が楽しくなる。
さて、桜の花見が縮んだ景気という気持ちをほぐす効果があるのだろうか?
それとも落語の“花見酒”のように酒樽全部を飲みきっても5銭しかならないのだろうか?

イズタガアカ(伊豆多賀赤)
・ 学名Cerasus x kanzakura 'Izutaga-aka'。和名が伊豆多賀赤(イズタガアカ)
・花弁の色 :紅色
・大きさ :中輪
・花弁数 :一重
・開花期 :3月下旬
・系統 :カンヒザクラ群の園芸品種

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ウグイスカグラ(鶯神楽)の花

2009-03-07 09:27:36 | その他のハーブ

日本原産の小木「ウグイスカグラ(鶯神楽)」は、武蔵野の丘陵などにたくさんあったようだが、今はこの丘陵などが開拓され住宅化されているのでなかなかお目にかかれない。

しかし、サンシュユ同様に、お茶・お花で使われてきたのでこの関係者の庭に植えられるようになり庭木として広まったようだ。

(写真)ウグイスカグラの花by小石川植物園


名前の由来はいくつかあるが、
春を告げる鳥ウグイスが、この木の枝から枝へと飛びさえずる様が神楽を舞っているようなのでつけられたという説が良さそうだ。

しかも岩戸に隠れている神様(この場合は春と解釈すると楽しい)を外に出すために踊ったのが神楽であり、春をもたらすウグイスのための舞台として尊重された歴史がうかがえる。


ウグイスカグラには、小石川植物園で初めてお目にかかったが、素朴な味わいがある花であり、この時期の淡いピンクの小花はうれしい存在だ。
そして、初夏には真っ赤に熟したグミのようなものが食べれるという。ウグイス達がすばやく食べるので人間の口にはなかなか手に入らないようだ。

(写真)ウグイスカグラの花


ウグイスカグラ
・スイカズラ科スイカズラ属の落葉低木。
・学名は、Lonicera gracilipes Miq.。または、Lonicera gracilipes var. gracilipes Lonicera。種小名のgracilipesは細長い枝を意味し、gracilipesは無毛を意味しており、ミヤマウグイスカグラなど繊毛がある品種との違いを表している。属名は16世紀ドイツの植物学者でありウグイスカグラの命名者でもある。
・原産地は日本で、北海道から四国の山野に生える。
・樹高1.5~3m、ウグイスが鳴く頃に花をつけるのでウグイスカグラという名がついたという説がある。別名ウグイスノキ。
・開花期は3月中旬から4月中旬。枝先の葉がでるところに1~2個のラッパ状の淡いピンクの花が咲く。
・夏には赤いグミのような果実がつき甘い味がして食べられる。
・枝・葉・花に繊毛があるのはミヤマウグイスカグラ(深山鶯カグラ)

命名者Miqは、
Miquel, Friedrich Anton Wilhelm (1811-1871)
シーボルトの『フロラ・ヤポニカ』は、共著のツッカリーニ、二人が亡くなってからはミクェルがこれを完成させる。

命名者Loniceraは、
Lonitzer, Adam (1528-1586)
ドイツの植物学者で、コンラッド・ゲスナーの弟子にあたりハーブ研究を行う。スイカズラ属は彼の栄誉として名付けられた。

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坦々麺 赤坂飯店竹橋パレスサイドビル店

2009-03-06 10:18:46 | グルメ

坦々麺のうまいところで知られている店が、毎日新聞が入っている竹橋パレスサイドビル地下にある。

(写真)赤坂飯店の坦々麺


ここの坦々麺は、激辛の汁を受ける麺がうまい。麺だけだとモソ~ッとしているかもわからないが汁とからまると絶妙になる。
坦々麺大好き人間でないと気づかないかもわからない。というところも弱いかもわからない。


この店は思い出してもなかなか行くことがない。
永田町の四川飯店はもっと不便だがわざわざ行くのに対して大違いだ。魅力として何か足らないモノがあるのだろう。

大きなビルの中に入ったレストランは同じように魅力に欠けることがあり、丸の内などは早くも熱海化する予感がある。巨大なビルの中に娯楽を取り込み封じ込めたので、街を歩く楽しみをつくらなかったツケが熱海で長く続き、丸の内がこれから始まりそうだ。
仲通を車の通行を禁止して、屋台を意識的に増やせば何とかなるかもしれないがやらないだろうな~。

この竹橋界隈は、もっと寂れたところで、皇居一周のジョギングとか桜の時期はこの竹橋界隈を出発点として皇居周辺を散策するとなかなかいい。それで思い出すのだが、今回は桜にはだいぶ早いが桜が散ってしまったので行ってみた。


同期入社の友人が亡くなった通夜まで時間があるので、ビールと坦々麺で冥福を祈ることにした。
いつかは死ぬというあいまいなことでなく、死を目的に生きているとわかっているはずだが、早死にの葬式はご家族の悲しみが大きいので涙が枯れることもなく、それを見るだけにつらい。

精進落しを場を代え4回ほど行ったが、坦々麺の激辛とこれまでの暴飲もあいまって下り超特急となってしまい現実に戻ることが出来た。

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カンヒザクラ(寒緋桜)の花とプラントハンター“ウイルソン”

2009-03-05 06:00:10 | その他のハーブ

今年のサクラ前線の予報は、3月25日から関東地方で開花という。
例年よりも開花が早まっており、さらに、不都合なことに満開になるのが早いためお花見の期間は短くなってしまうという。

この予報されるサクラは種類豊富なサトザクラ系で、
先日掲載した伊豆のカワズザクラ(河津桜)のように2月末から3月初めに咲き始めるサクラもある。これを早咲き・カンザクラ系というようだが、その中でもめずらしいタイプの花が咲いた。これもサクラなのだ。

(写真)カンヒザクラの花


早咲き・カンザクラ系の「カンヒザクラ(寒緋桜)」で、3月初めに咲き始めている。

花は、2~3cmの5枚の花びらが半開きで筒状となり下向きに咲く。花色は濃い紅色で初めて見たときは桜とは見えず、色鮮やかな蓑虫の新しいタイプといっても通りそうだ。

原産地は中国南部・台湾などの暖かいところで、日本では沖縄・石垣島などに自生している。以前は、ヒカンザクラ(緋寒桜)と呼んでいたが、ヒガンザクラ(彼岸桜)と混同するので、カンヒザクラ(寒緋桜)と呼ぶようになったという。

発見者のアーネスト・ヘンリー・ウイルソン
この桜を発見したのは、英国のプラントハンター、ウイルソン(Wilson、Ernest Henry 1876 – 1930)で、1900年代の初めに中国の植物探索で名をはせ、チャイニーズ・ウイルソンとも呼ばれた。

ウイルソンは、プラントハンターとしての完成形に近い人かもわからない。
学校を出た後にヒューイットの育苗園に入り、16歳の時にバーミンガム植物園に移る。仕事のかたわらバーミンガム工科大学に通い植物学を学び、ヴィクトリア女王賞を受ける。21歳の時の1897年にキュー植物園に職を得、ヴィーチ商会から中国に行くプラントハンターの要請がありこれに派遣される。

プラントハンターの訓練を受けるために、ヴィーチ商会の育苗園で半年研修し、アメリカ、ボストンにあるアーノルド樹木園で実習を行いここの園長のサージェントと出会い、アメリカを横断してサンフランシスコまで来て中国に出航した。ここまでトレーニングされたプラントハンターも初めてに近く、また、アメリカ経由東回りで東洋に来た初めてのプラントハンターとなる。
ヴィーチ商会の目的は、「ダヴィディア(和名ハンカチノキ)」の種子を手に入れることだったが、ウイルソンはこれ以上の数多くの新種をも収集し成果を出した。

彼を有名にしたのは、1903年二度目の中国探検のときに、「the Regal lily(帝王のユリ)」をチベットに近い四川省の峡谷で発見した。

また、1910年に再びこのユリを採取に行き数多くの球根を集め、この荷物とともに絶壁にへばりついた人一人しか通れない細い道を進んでいたときに崖崩れにあい足が骨折した。応急処理として添え木をあて縛り付けたが、困ったことに反対側からロバを引き連れた隊商が来たことだ。戻ることも進むことも出来ないので、路上に横たわり彼の体の上をロバと隊商がまたいで通ることになった。
結果として、彼の足と引き換えにリーガルリリーが世界に広まったが、このような困難が付きまとうプラントハンターの事例としても彼を有名にした。

プラントハンターは、その探検隊を支えるために膨大な費用がかかる。ヴィーチ商会がウイルソンの最初のパトロンだったが、ヴィーチ商会は後継者がいないために1913年、5代100年強の歴史を閉じることになる。ちなみにヴィーチ商会は1840年から1905年までに22名のプラントハンターを海外に派遣し植物収集を行った。ウイルソンがヴィーチ商会最後のプラントハンターに当たる。

カンヒザクラをいつ発見したかはよくわからなかったが、ウイリアムは、1911年から1916年は日本に来ていて屋久島杉、桜などの新種を発見している。また、1917-1918年は韓国・台湾の探検をしているので、この1910年代に発見したものと思われる。

1984年この偉大なプラントハンターを記念してウイリアムが中国で集めた植物1200種を栽培し展示する庭園が作られた。このアーネスト・ウイリアム記念庭園を造ったのがクリスマスローズ・グッタータスの発見者ロイ・ランカスター(Lancaster, Charles Roy 1937-)だった。先人の栄誉を記憶に残すことにより、自らのプラントハンターとしての誇りを矜持したのだろう。

(写真)カンヒザクラの木


カンヒザクラ(寒緋桜)
・バラ科サクラ属の落葉高木
・学名はPrunus campanulata Maxim.。属名のPrunusは、ラテン古名の「plum(すもも)」が語源。種小名のcampanulataは、カンパニュラー同様に釣鐘型・ベル型の花。
・和名はカンヒザクラ(寒緋桜)、別名旧暦の元日に咲くのでガンジツザクラ(元日桜)とも呼ばれる。
・原産地は中国南部・台湾で、沖縄石垣島などに野生化した原木がある。日本では関東以西に生息する。
・開花期は2月末から3月一杯。緋色の下向きの花が葉に先んじて咲く。

命名者マキシモヴィッチ
Maximowicz, Carl Johann (Ivanovič) (1827-1891)
ロシアの植物学者で、日本が開国したので1860年に函館に来て1864年まで横浜・長崎等を拠点に植物採集を続けた。膨大な植物標本を持ってロシアに帰ったが、彼はシーボルトの植物標本なども買い集めていて、日本の植物研究は、マキシモヴィッチのいたサンクト・ペテルブルグが一番といわれている。

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サンシュユ(山茱萸)の花

2009-03-03 07:24:16 | その他のハーブ
早春を代表する花は、フクジュソウ・マンサク・ロウバイ・ミツマタなど黄色の花色が多い。この黄色の花が多い疑問は多少解決したが、この早春の黄色の花のラストバッターとして、「サンシュユ」が登場した。

(写真)サンシュユの花


サンシュユは、原産地が中国・朝鮮半島で、名前は平安時代から知られていたようだが、日本に入ってきたのは江戸時代の中頃1722年で小石川薬園に薬用として入ってきたという。

季節的には梅とサクラの間を埋める早春の花であり、
よく見ると花びらが4枚の黄色の小さな花が集合して咲いていて、美しいというよりも気品がある咲き方をしている。お茶の席での花として使われるという選択眼がこんなところにもあるのだろう。

そして、この植物の学名は、シーボルトと盟友ツッカリーニが命名しており、二人が著した『日本植物誌』の中でのサンシュユの植物画を参考にごらんいただきたい。

花が咲いているときには葉がないので、ちょっと苦しい描き方をしている。花の拡大図を入れていればバランスのよいボタニカルアートになるのだが、ちょっと思い入れがなかったようだ。

(写真)サンシュユの木と花


サンシュユ(山茱萸)
・ミズキ科サンシュユ属の落葉小高木で樹高は4~15m。
・学名は、Cornus officinalis Siebold & Zucc.。属名のCornusは、“角”を意味し材質が硬いことに由来する。種小名のofficinalisは、“薬効がある”ことを意味し、秋に真っ赤に熟す果実を漢方で利用する。
・和名は漢名をそのまま音読みして山茱萸。茱萸はグミのことでヤマグミとも呼ばれる。英名も漢名をそのまま使ったShan zhu yu。
・原産地は、中国から朝鮮半島。日本には江戸時代享保年間(1716-1735)に薬用として入ってくる。1722年江戸小石川薬草園に導入されたという説もある。
・3月から4月頃に葉がでる前に、枝先に黄色い小花をつける。
・早春の光に当たり黄金に輝く様から「春黄金花(はるこがねばな)」とも呼ばれる。
・秋には真っ赤な楕円形の実がなる。この果実は“秋珊瑚”とも呼ばれ、漢方薬としては、中年男性の機能不全、生活習慣病予防などに使われていたようだ。
・食用となる果実で、“コーネリアンチェリー”の名で売られているのは、ヨーロッパ原産の「セイヨウサンシュユ」なので別種となる。

命名者は、シーボルトとその盟友ツッカリーニ
Siebold, Philipp Franz (Balthasar) von (1796-1866)
Zuccarini, Joseph Gerhard (1797-1848)

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カワズザクラの花

2009-03-02 08:59:35 | その他のハーブ

東京でも高島平でサクラが咲いていた。
今年は開花が早いという予想がされているがそれにしても早い。

(写真)カワヅザクラの花


このサクラは早咲きのカワヅザクラで、1955年に静岡県川津町で偶然発見された原種という。河津町では現在サクラ祭りを開催しているようだが、サクラ前線は北上していることが実感でき、もう直ぐ春がサクラとともに来る。

写真には取れなかったが、黄緑色が美しいメジロが三羽、このサクラでえさを取りチュルチュルと鳴きながら飛び廻っていた。

大き目の花びら、淡いピンクが美しく、今年初のサクラで、
のどかな一日の始まりだった。

(写真)カワヅザクラ

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