十勝の活性化を考える会

     
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静かな大地

2020-04-15 05:00:00 | 投稿

昨年に読んだ本、 池澤夏樹著・静かな大地」の紹介。

『本書は、北海道にゆかりの深い著者・池澤夏樹が、初めて本格的に北海道をテーマに描いた小説である。池澤は作家・福永武彦の息子として、帯広に生まれ、6歳まで過ごした。

詩人でもあった母の父は帯広でマッチ工場を経営しており、母方の曾祖父たちは、明治の初めに淡路島から北海道に入植した開拓者だった。池澤は幼少のころから、一族の開拓時代の物語を聞いて育ち、いつかそのことを小説にしようと、心に決めていたという。

物語は、淡路島から、日高管内静内町に入植した、稲田家家臣・宗形三郎と史郎の兄弟をめぐって進んでいく。彼らの生き様を史郎の娘の由良が伝記にまとめるというエピソードを、狂言回しとして、明治の開拓時代に、和人とアイヌ民族とが共に生きる土地で、どういう生き方が存在したのかという一点を池澤は描いていく。

松前時代のアイヌの酷使によって、人口が減り、コタンが消滅した例もあること。口伝えによって、伝えられてきた神話や物語に見られるアイヌ民族の精神性や、開拓使がアイヌの自然への知恵によって教えられ、助けられてきたこと。

そしてアイヌの娘(実はアイヌの一家が引き取って育てた娘)との結婚を決意する三郎。

様々なエピソードによって語られていくこの物語は、アイヌ・モ・シリ(人間の静かな大地)と呼ばれた北海道が、多民族・多文化の大地であり、多様性を持った社会が存在していたと、そして、それが次々と失われていく姿を、100年後の私たちに見せてくれる。

それは「日本の近代が失ったものだ」と、池澤はいう。それはガルシア・マルケスのような第三世界文学に通底するテーマを、北海道が佇んでいるということだろう。

池澤は、いま沖縄に在住している。沖縄もまた日本と異なる文化が豊かに、濃く存在している。北と南から、新しい価値観と文化が挟撃することを考えると、わくわくするほど楽しい。』 

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

 

北海道の歴史は、先住民族であるアイヌによってつくられた。「エミシ征討」に始まった征伐、封じ込み、同化政策等々により、アイヌ民族が存続の危機に瀕している。

 「静かな大地」の著者・池澤夏樹によれば、今の日本文化は、総じて、多様性を失ってきているとのことである。

 

「十勝の活性化を考える会」会員

               

注) 蝦夷征討(エミシ征討)

 蝦夷征討とは、日本古代において蝦夷に対して朝廷が行った征討である。中央史観の強かった時代には蝦夷征伐と呼ばれた。

[古墳時代]

蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある[。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。

「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている[1]。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である。

[称徳以前]

7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られ、大化3年(647年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県宮城県以北に城柵が次々と建設された。太平洋側では、白雉5年(654年陸奥国が設置されたが、神亀元年(724年)には国府名取郡広瀬川名取川に挟まれた地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離で約13km北進移転している。日本海側では、斉明天皇4年(658年)から同6年(660年)にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった後、和銅元年(708年)には越後国出羽郡が設置され、和銅5年(712年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡最上郡を譲られた。

この間、和銅2年(709年)にやや大規模な反乱があり(『続日本紀』)、その後も個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はなかった。道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和であったと推定されている。

[三十八年戦争]

宝亀元年(770年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌2年の渤海使が出羽野代(現在の秋田県能代市)に来着したとき野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいるが[2]光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。

また、光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に鷹の飼育や鷹狩の規制が行われて奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある。宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。一般的には4期に分けられる。

[朝廷の軍事政策]

朝廷は平時より陸奥国・出羽国各地に城柵を設置して、国内各地の軍団を組ませて守備させた。また、それぞれの城柵に属する鎮兵も設置されて協力して城柵を守った。鎮兵は坂東(関東地方)各国から派遣された。また、奈良時代初期の征討の場合には北陸道・東海道各地から兵が現地へ派遣されたが、奈良時代中期以降は坂東各国からの派兵に限定されたため、同地域には大きな負担になった[6]。一方、北陸道は出羽国と密接な越後国を含めて兵士の負担を負うことは無かったが、代わりに米などの兵粮を負担させられる場合が多かった。これらの兵粮は来朝する蝦夷や城柵付近に定住した俘囚に対する支給にも用いられた[7]。更に大規模な征討の際には坂東や東山道など幅広い地域から兵粮の調達が行われた。

[その後]

以後、組織だった蝦夷征討は停止し、朝廷の支配下に入った夷俘俘囚の反乱が記録されるのみとなったが、津軽渡島の住民は、依然、蝦夷と呼ばれた。

夷俘、俘囚の反乱の主なものとしては、元慶の乱天慶の乱などがある。前九年の役後三年の役については、文献上征討対象である安倍氏清原氏を俘囚とするものがあるものの、近年では両者とも官位を有する下級貴族階級であったとする説が有力になってきている。

 また、蝦夷の征討は延久蝦夷合戦を最後に行われなくなり、このころから奥州藤原氏の時代までに本州北端までが日本の国制下に入ったと考えられている。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋』』

 

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