先日、小林哲夫著「神童は大人になってどうなったか」の本に、以下のような興味深いことが書かれていた。
<あとがき> 『本書で取り上げた神童については、わたしが出会った人物、あるいは、書物をとおして知り得た人物を中心に語ってきた。古今東西、もっとすごい神童がいるという意見もあろうが、神童を象徴する人物論として読んでほしい。
今日まで神童と言われる人たちと何人か付き合ってきた。
大学情報誌の編集という仕事柄、おもに学者であるが、ときおり同業者もいた。他社ライバル誌の同年代記者とともに学者から専門分野をレクチャーしてもらったことがある。わたしは必死にメモを取り、録音テープを起こして原稿にまとめた。あとになってライバル誌記者の記事を読んでかなわないと思った。自分の記事とくらべると非常に突っ込んだ内容で分かりやすい。そういえば、学者との質疑応答ですばらしい切れ味を見せてくれた。頭がよいと思った。この記者のように頑張ろうと誓った。20代のころである。わたしには頭のよさとは、励みであり、目標であった。
神童の頭のよさを見せつけられると、自分も頑張れるのではないかと、えらくヤル気になる。一方で頭のよさのレベルが違いすぎて、自分ではとうていおいつかないと諦めてしまう。つまり、自分の生き方を模索する中で分水嶺に差し掛かったとき、神童の存在はひとつの目安になるかなと思うこともあった。
そして、神童について言うならば、彼らが大人になっても神童として頭のよさを発揮してくれる。それが社会にとって幸福なことではないか、とわたしは考えている。
(後略)』
この本を読んで次のように思った。神童を続ける人や大人になってからは普通の人、大器晩成の人、ずっと凡人である人など様々であるが、尊敬する人が多くいる社会は良い社会だと思う。
「十勝の活性化を考える会」会員
注) 神童
「神童」の基準
神童に明確な基準は存在しない。知能指数を検査してある一定の知能指数を上回ったときに「神童」と呼ぶこともできるが、あくまでひとつの目安である。それは創造力などは計測不可能なためである。
「神童」の例
学問分野では、サイバネティックスの創始者として有名なノーバート・ウィーナーが、幼い頃に奇偉な知能を発揮して、10代初めで既に大学で研究者として研究に従事していた例がある。また芸術の分野では音楽における神童として、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが10歳にならない段階で「神童」ともて囃されたことで有名である。他にウィリアム・ジェイムズ・サイディズなどが挙げられる。
日本でも学問的に秀でた人間をことのほか天賦の才として尊重する風潮があった。例えば菅原道真など。石川啄木、南方熊楠、槇村浩も神童と呼ばれた。
[神童も二十歳過ぎれば]
「十歳(とお)で神童、十五歳(じゅうご)で才子、二十歳(はたち)過ぎればただの人」あるいは「神童も大人になればただの人」と言われることがある。これは、下記のような原因があると考えられる。
- もともと神童と称される者は、運動能力、学業成績などが同年代の者に比べて現時点で優れていることを意味し、持っている能力が特別に優れているとは限らない。
- 要するに、能力が優れているというよりも、同年代の者よりも成熟が早いだけという場合がある。いわゆる単なる早熟の人間が、少年時代に神童と呼ばれる場合が多くあるため、このような言葉が出来たと考えられる。
- 子供が示せば驚異的で奇偉な能力でも、大人では一般的で平庸な能力である場合が多い。例えば、3〜4歳の子供が写実的な油絵を描けばそれこそ神童だが、その能力だけを持ったまま大人になっても誰も注目しなくなる。
- 記憶力や言語学習能力など、全般的に大人より子供の方が優れる能力がある。そのような能力で並外れた能力を示したとしても、大人になれば衰えてしまう。
- 天才少年として幼少年時代を演奏旅行にあけくれたモーツァルトのように、神童と呼ばれる子供はその才能故に偏った生育歴を送ることがあり、その影響も考えられる。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます