佐倉順天堂入門
寛斎入門の背景
『 ここで、まず疑問なのは.儒家の養子とはいえ身分的には一農民の小倅にすぎない寛斎が、なぜ順天堂を目指し、また入門を許されたか、という事情である。
それを直接に説明する資料はないが、まず考えられることの第一は、幕末という時代的背景である。多少タガがゆるんだとはいえ。身分制という基本的枠組みがなお成り立っているなかで、蘭学修業をへて医者へというコースが、身分制の間隙をすり抜ける一つの道すじであった。
江戸時代は、三大慢性伝染病とされる梅毒・結核・ハンセン氏病をはじめ、いろいろの難病がひろがり、医者が大いに繁昌した。幕末には、洋・漢をあわせた医者の数が、昭和初期よりも多いぐらいいたといわれる。蘭学者と医師との世界は、生業としてだけではなく、実力がある程度ものをいう、当時においては数少ない分野の一つであった。ほかに生活の手段を見いだせない田舎儒者の伜として、この辺に着目したことは、不思議ではないと思われる。
第二は、当時の先進的な学問としての蘭学と、それを体現した佐倉順天堂の盛名とである。
彼が入門した一八四八(嘉永元)年前後は、まさに黒船前夜。阿片戦争の風聞などの外圧がひしひしと迫る不安のなかで、外なる世界への唯一の窓口としての蘭学は、当時の知識人の関心の的であった。緒方洪庵の大坂適塾、京都の順正書院などにつづいて、東の佐倉に佐藤泰然が開いた順天堂は、世上に大きな関心をもって迎えられたであろう。』
関寛斎 最後の蘭医 戸石四朗著
§
寛斎は「訳書生」という月謝免除のかわりに、様々な下働きをこなしながら勉強するという立場で入門した。しかしその苦学も彼の才能にとって何の障害にもならず、すべてをこなしすべてを学ぶ姿勢はハングリー精神というより、卓越した人格を形成する肥やしでしかなかったのであろう。
佐倉順天堂では、最先端の外科手術や種痘等の予防医学などを習得し、四年後の嘉永五年十二月、「師家を去り、仮に業を開く」として帰郷し開業する。
「四年間の勉強は決して充分なものでは無かったが、おそらく経済的なことを中心にした家庭の事情があったのであろう」(戸石四朗)
その月に君塚家から、養父の姪にあたる十七歳の「あい」と運命の結婚をしている。
しかしこの「経済的なことを中心にした家庭の事情」は、その後の若き寛斎夫妻の運命を大きく揺さぶってゆく。
「十勝の活性化を考える会」会員 K
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