十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その10 徳島へ帰還

2019-12-06 05:00:00 | 投稿


有名時代小説作家 髙田郁氏が関寛斎の妻の生涯を描いた「あい -永遠に在り-」が、石川さゆり主演の「歌しばい2020」として新橋演舞場で公演されることになりました。

 

髙田郁氏は、関寛斎にリスペクトしつつ、その妻の生涯について、時代の流れと、寛斎への愛情で偉業を支え続けたことを、見事に描ききっております。また陸別町関寛斎資料館には毎年のように足を運び、町民とも親しく交流を重ねておられるとのことです。

史実にもとづき、寛斎と取り巻く人々の心情までも丁寧によみがえらせた第一級の史料ともいえる、髙田郁ワールドの一部を抜粋引用させていただきましたのでご堪能ください。


「あい -永遠に在り-」第三章

『師走も二十日となり、関家では大掃除も節季払いも滞りなくすませ、あとは年始回りの品を整えておくばかりだった。陽が落ちてから小雪が舞い始め、やがて牡丹雪となって関家の屋根と庭に純白の布団を置いた。

 「奥様、奥様」
あいを呼ぶ、里の大きな声が廊下の向こうから響き渡る。
 「殿様が今、お戻りになられました」
あいは慌てて立ち上がった。足が縫れそうになるのを、落ち着け、落ち着け、と自身に言い聞かせながら表へと向かった。
 玄関から廊下にかけて、奉公人らがみっしりと並んで主の帰宅を喜び合っている。平右衛門など、式台で小躍りせんばかりであった。
「船は七つ(午後四時)に小松島に着いたのだが、一旦登城して、君公にご挨拶を済ませたので、今になった」
身体についた雪を払い除けながら言うと、寛斎は真っ直ぐにあいをみる。
「皆、変わりはないか? 子供たちは健やかか?」
はい、とあいが大きく頷いてみせると、初めて安堵の表情を覗かせた。
およそ十一か月ぶりに見る夫は、軍服ではなく見慣れた十徳を着込んでいる。幾分やつれて見えるが頑強な体躯はそのまま。まずは何より、と安心したあいだが、夫の髪に雪が残るのを認めて、手を伸ばして払おうとした。
あっ、と洩れそうになる声を、あいは何とか堪えた。蝋燭の火に白く映っだのは、雪ではなく、断髪に混じる白髪だった。

 

「あいに詫びねばならぬことがある」

「何でしょうか」
問われて寛斎は盃を置き、居住まいを正す。
「新政府から仕度金や報奨金、そのほかにも負傷兵を救ったことで各藩よりかなりの礼金が寄せられたが、その殆どを今回の件で労を尽くしてくれた者たちに配分してしまった」
寛斎は新政府軍側ではあったが、負傷兵は敵味方なく保護し、いささかの躊躇いもなく手当てをした。司令官はそれを咎めたが、看護兵や他の軍医、民間の医師や救護活動を手伝う土地の者らが、皆、寛斎の考えを支持。自分たちの食料を削って傷病兵に回し、不眠不休で助かるべき命を助けたのだ、という。
「会津では、白虎隊と名付けられた若者たちが自刃して果てた。まだ十六、七の……生三とそう変わらぬ者たちが、純粋に郷里を守ろうとしてそんな目に遭った。白虎隊ばかりではない、私の目の前で前途ある若い命が次々と消えていった。戦ほど愚かしいものはない」
その戦に、寛斎自身も加担したことが堪らなかったのだろう。戦で得たものを身に着けることを好まず、恩を受けた者に分け与え、身軽になって戻るとは、実に先生らしい、とあいはひっそりと微笑んだ。
「参謀の大村益次郎殿には随分と引き留めて頂いたが、辞職を願い出て、こうして徳島へ戻ったのだ」
大村益次郎ばかりではない、何も徳島に戻らずとも中央に居れば更なる道も拓ける、そのためなら手を貸そう、との声は他に幾つも上がった。だが、医学を出世の道具とすることは、寛斎自身が最も厭う行為であった。
「改めて太政官から報奨金の申し出がある、と聞かされているが、その時は十両だけ頂こうと思う」
十両、とあいは首を傾げつつ、寛斎の盃に熱い酒を注いだ。
「その十両、どうなさるおつもりですか?」
「郷里の面足社に寄進したいのだ」
寛斎は帰宅して初めて、仄々と頬を緩めて妻を見た。
「軍服の内側に縫い付けてあったお守りのお蔭で、家族のもとに無事に帰れたのだからな」
「まあ」
あいは、ほほほ、と笑い声を立てながら、両の瞳から溢れ出る涙を止められない。
思えばその昔、夫は「こういう風にしか生きられないのだ」と、声を絞ったことがあった。そういう生き方を貫き通す夫を、あいは心から誇らしく、そして愛おしく想った。

 およそ立身出世を望む武士であるならば、それからの寛斎の行動は、全く以て度し難く、我を忘れて絶叫したくなるものだったに違いない。
戊辰戦争で手柄を立てた寛斎は、藩主茂詔に医学教育の徹底を進言、これを受けて藩は寛斎に藩医学校と附属病院の設立を命じた。明治二年(一八六九年)から三年(一八七〇年)にかけて、巽浜に医学校と附属病院が開設され、寛斎は医学校の教授と附属病院長に着任した。しかしかねてより病院医官らの給与面の不遇を痛感していた寛斎は、上司にあたる参事に処遇改善を求めて断固抗議。さらに寛斎に賛同する若い医官らが、開校式にこの参事を胴上げして、わざと落下させるという事件を起こし、その責任を取って、寛斎は免職及び謹慎処分を受けた。

しかし、寛斎の医師としての実力を知る大阪兵部省や、東京及び大阪の海軍病院から任用要請が相次いだことで、藩の上層部は慌てふためく。戊辰戦争で手柄を立てたとはいえ、寛斎は徳島藩士。自分たちの思い通りに動かすはずが、中央は自分たちを通り越して寛斎の業績を讃えるばかりなのだ。徳島には関寛斎という人物を除いては他に特筆すべき役割を担うものはない、と言わんばかりの扱いに藩の上層部は狼狽え、寛斎の機嫌を取るべく、先の処分を撤回した。そして、持ち込まれたいずれかの話を受けて藩の顔を立てよ、と寛斎に迫ったが、寛斎は自身に用意された出世の花道を全て断ってしまった。もとより、曲がったことが嫌いな性格と、弱い立場の者を守り抜く姿勢を決して譲ろうとはしない寛斎らしい決断であった。

明治四年(一八七一年)霜月の終わりに、業を煮やした東京の兵部省海軍部から、寛斎へ出頭命令が下った。命令であるから今度ばかりは断るわけにもいかず、やむなく上京の準備に取りかかる。仕度を終え、夜遅く寝所の襖を開けた寛斎は、あいが畳に三枚繋いだ地図を置き、見入っているのを認めた。

勝手に持ち出して済みません、と詫びて、あいは地図を撫でてみせる。
「地図を見ていると、心が弾むのです。知らない土地やそこに暮らす人々を思って」 海軍部に出頭すれば、夫にどんな辞令が下されるか知れない。また暫く別れて暮らすことになるのか、との思いを隠して、あいは江戸の周辺を撫でた。
妻の気持ちを察したのだろう、寛斎は案じるな、とばかり軽く首を振る。
「この国の医療に役立つなら、私はどのような協力もする。だが、ただ単に政治の道具にされるのであれば、席を蹴って帰るつもりだ」
たとえば、寛斎は長年、この国に蔓延する梅毒という病を憂えていた。その予防や治療に一石投じる立場になれるのなら全力を振り絞りたい、と妻に思いを打ち明ける。もしも夫の夢が叶うのならば、離れて暮らすことも止むを得ない、とあいは心のうちに芽生えた寂しさを隠して、微笑んだ。

師走に入り、徳島から東京の海軍部に赴いた寛斎は、直ちに海軍病院への出仕を命じられた。これを機に、寛斎は念願の検梅法実施を要請する。しかし、時期尚早として受け入れられなかったため、迷わず辞表を出した。出仕僅か一か月のことだった。
そんな寛斎の検梅法への思いを理解する者から、明治五年(一八七二年)弥生、山梨病院の病院長に推され、寛斎はこれを受けた。山梨に赴任し、早速と検梅制度を実施。ほかに一般患者の診察と、医学生の教育、地元の医師や産婆への指導、種痘励行など、大きな成果を上げたが、任期の一年が終わると、これまたさっさと徳島に戻ってしまった。
 「何という……」
次から次へと栄達を捨て去る主の決断に、平右衛門は酷く打ちひしがれる。
だが、あいは極めて寛斎らしい、と声を立てて笑った。
寛斎の振る舞いは、傲慢に見えて決してそうではない。
自分にしかできないことを見極め、それを遣り通す。医療を立身出世の道具にする者の下では働かない。あとを任せられる人材が居れば、後進にさっと道を譲る。昔からそうした姿勢は変わらない。
養父俊輔の気骨、恩師である佐藤泰然とポンペから受けた薫陶、そして濱口梧陵から贈られた言葉。そういったものを何一つないがしろにしない生き方を、見事なまでに貫いているのだ。
「それにしても、こんな時期に。惜しいにもほどがあります」
平右衛門は悔しそうに洩らした。
新政府は廃藩置県により古い藩体制を打破、その一方で士族の扱いに頭を抱えていた。永年世襲で禄を食んできた士族らは、そう簡単に特権を手放そうとはしない。寛斎が徳島に戻った明治六年(一八七三年)五月は、政府の士族身分への対応はまだ充分には定まっていなかった。
「先生はおそらく……」
あとは言わずに、あいは初夏の空を見上げた。蒼天に純白の雲が長く尾を引いている。思いがけずくっきりとした雲は、天路の如し。あいにはそれが夫の辿ろうとする道筋に見えた。
ほどなく寛斎は新蔵町から住吉島村へ住まいを移し、「関医院」の看板を掲げた。そして九月には、家禄を返上し、士族籍を辞した。禄籍返上により、もとの百姓身分に戻った寛斎のことを、同僚藩士らは愕然と眺めるばかりである。寛斎、齢四十四のことであった。』

 髙田郁著「あい -永遠に在り-」


§


山梨県立中央病院史に関寛斎が奔走した当時の足跡が残されており、松村亨先生は見事にその業績を掘り起こしていました。

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2 コメント

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ホロワー登録 (MRFCのMt)
2019-12-06 15:22:28
ホロワー登録ありがとうございます。
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コメントありがとうございました (事務局)
2019-12-06 17:42:38
MRFCのMt様
今後ともよろしくお願いします
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