NO-97
みなさんにとっての3.11ってどんな一日でしたでしょうか?福島の各地を回ってきましたが「あれから、一年。」のタイトルで、どこもかしこも慰霊祭だのなんだのと色々なイベントが開催されていました。
各地の仮設住宅へ
各地でボランティアの人たちがテントを張り、炊き出しで参加したり有名な歌手が歌を歌いに来てくれて、それなりに盛り上がっていたようにも思えるのですが、僕にとっての3.11は一日ずれた3.12の今日が本当の意味でのメモリアルになっている。
あの原発事故さえ無ければ、家も仕事も将来の夢や希望も失わずにすんだのに・・・・原発事故が憎い!これは、この体験をしたものでなくちゃ分からない苦しみだと思います。
いわきと三春と郡山の仮設住宅へ、被災者の現状を知ってもらいたくて香港のメディアの人と一緒に回っていたら、顔見知りの元顧客の奥様に会って、「うちの主人、去年の11月に亡くなったの・・・・・」と、言葉がなかった。
仕事を失い身体も思考もその動きを遮断され、途方にくれたのか?すべての事に絶望したのか?先の見えない補償に失望したのか?仮設住宅に入ってから急にふさぎこみ、病気を発症してお亡くなりになったと聞いた。
会社に行き同僚とともに懸命に働き、仕事が終われば家に帰って家族との団らんが待っている普通の暮らし。ごく平凡でありながらも小さな幸せで満足していたのに、それを奪っていった原発事故。
家に帰りたいのに帰れない。いつ戻れるのかも分からない。この不安をいつまで持ちながら生きなければならないのか?
涙を浮かべる奥様をとても見ていられずその場をすぐ後にしたが、その住宅の2件先の方も同じくご主人を亡くされた人に会い、とてもショックを受けた。
いわきでも郡山でも、仮設暮らしをして病気を発症している人が多いと住人の人から聞いてはいたが、何人もお亡くなりになった人がいると聞いて本当に、この事故が恨めしいと思った・・・・
松村は、「あんなところにいたら、誰でも病気にならあ!」と僕に言ったが、あの仮設住宅の中にみんなこもっていて、寒さもあって出てこないからコミュニティーなんて作れるものじゃないと思った。
開成山野球場で
昨日、福島県民の原発反対デモが郡山で野球場で開催されたが、大きな規模の集会だった。開成山球場の内・外野席に2回スタンドまでびっしりの人数に、これを東京でやってくれたらいいのにと強く思った。
たくさんの人が集まった。
この会場で、歌手の加藤登紀子さんがステージに立って歌っている時に強制避難区域の富岡町の松村から電話が入った。金曜日にインチキ水を飲まされて瀕死の状態でいた牛が死んだと・・・
二日続きの雨のせいで、彼らの歩いた元だった田んぼの中は泥だらけになり、沼のようになった田んぼに体の半分以上が沈んでいて探せなかったほどだと言った。
予想はしていたが、このことも失意の一つかも知れない。自分の無力感を感じた。松村と一昨日会った時には、まだ生きていたのに・・・・原発事故さえなければ、人間にも動物たちにもこんな不幸は訪れなかったはずだ!
また、苦しい避難生活の2年目がスタートする。家に帰れるのか?帰れないのか?補償も何も先の見えない不安の中で暮らす日々を、また今日から始めなければならない。
みなさんにとっての3.11ってどんな一日でしたでしょうか?福島の各地を回ってきましたが「あれから、一年。」のタイトルで、どこもかしこも慰霊祭だのなんだのと色々なイベントが開催されていました。
各地の仮設住宅へ
各地でボランティアの人たちがテントを張り、炊き出しで参加したり有名な歌手が歌を歌いに来てくれて、それなりに盛り上がっていたようにも思えるのですが、僕にとっての3.11は一日ずれた3.12の今日が本当の意味でのメモリアルになっている。
あの原発事故さえ無ければ、家も仕事も将来の夢や希望も失わずにすんだのに・・・・原発事故が憎い!これは、この体験をしたものでなくちゃ分からない苦しみだと思います。
いわきと三春と郡山の仮設住宅へ、被災者の現状を知ってもらいたくて香港のメディアの人と一緒に回っていたら、顔見知りの元顧客の奥様に会って、「うちの主人、去年の11月に亡くなったの・・・・・」と、言葉がなかった。
仕事を失い身体も思考もその動きを遮断され、途方にくれたのか?すべての事に絶望したのか?先の見えない補償に失望したのか?仮設住宅に入ってから急にふさぎこみ、病気を発症してお亡くなりになったと聞いた。
会社に行き同僚とともに懸命に働き、仕事が終われば家に帰って家族との団らんが待っている普通の暮らし。ごく平凡でありながらも小さな幸せで満足していたのに、それを奪っていった原発事故。
家に帰りたいのに帰れない。いつ戻れるのかも分からない。この不安をいつまで持ちながら生きなければならないのか?
涙を浮かべる奥様をとても見ていられずその場をすぐ後にしたが、その住宅の2件先の方も同じくご主人を亡くされた人に会い、とてもショックを受けた。
いわきでも郡山でも、仮設暮らしをして病気を発症している人が多いと住人の人から聞いてはいたが、何人もお亡くなりになった人がいると聞いて本当に、この事故が恨めしいと思った・・・・
松村は、「あんなところにいたら、誰でも病気にならあ!」と僕に言ったが、あの仮設住宅の中にみんなこもっていて、寒さもあって出てこないからコミュニティーなんて作れるものじゃないと思った。
開成山野球場で
昨日、福島県民の原発反対デモが郡山で野球場で開催されたが、大きな規模の集会だった。開成山球場の内・外野席に2回スタンドまでびっしりの人数に、これを東京でやってくれたらいいのにと強く思った。
たくさんの人が集まった。
この会場で、歌手の加藤登紀子さんがステージに立って歌っている時に強制避難区域の富岡町の松村から電話が入った。金曜日にインチキ水を飲まされて瀕死の状態でいた牛が死んだと・・・
二日続きの雨のせいで、彼らの歩いた元だった田んぼの中は泥だらけになり、沼のようになった田んぼに体の半分以上が沈んでいて探せなかったほどだと言った。
予想はしていたが、このことも失意の一つかも知れない。自分の無力感を感じた。松村と一昨日会った時には、まだ生きていたのに・・・・原発事故さえなければ、人間にも動物たちにもこんな不幸は訪れなかったはずだ!
また、苦しい避難生活の2年目がスタートする。家に帰れるのか?帰れないのか?補償も何も先の見えない不安の中で暮らす日々を、また今日から始めなければならない。