トーネードの無職生活

無職生活で日常どのように過ごしいてるのか?
ウォーシミュレイションゲーム
日ごろ思ったことを書いていきます。

トップ・スパイという本を読んでいます

2016-12-21 08:04:52 | 日記
 今、トップ・スパイという本を読んでいます。スパイ小説というとイアン・フレミングの007シリーズやジョン・ル・カレなどがよく読まれていると思います。フィクションの小説では色々と小説が発行されていますが、ノンフイクションでスパイをあつかったもの、しかも一冊の中で6人もとなるとなかなかそのような本はありません。

 というのも、題材になるスパイはとっ捕まるか亡命したりしてスパイの身分がばれた人で、しかもそれなりに重要な情報を他国に流していたスパイとなると限られた人物になるだろうからです。ですから、この本はなかなか貴重な本であると思います。

 やはり他国に情報を流すとなると、自分がいくら気を付けていても、他のスパイが捕まっていもずる式にスパイであることがばれたりして、そのようなリスクを冒してまでスパイをするというのは、それなりに固い意志が必要なようです。とてもではありませんが、私にはとてもスパイの精神的な重圧には耐えられないと思います。

 この本の作者は、グイド・クノップという人で、これまでに「ヒトラーの共犯者12人の側近たち」「ヒトラーの戦士たち6人の将帥」「ヒトラーの親衛隊」などを読んだことがあります。丁寧な取材で人物像を明らかにするという感じて、私の好きな作家のひとりです。

 それにしてもこの本を読んでいると、我が国の防諜の体制というのは大丈夫なのだろうかと、ふと不安に感じられてしまいます。



 

昭和の選択 市川房江を見る

2016-12-20 06:59:22 | 日記
 先週放送され録画していた英雄たちの選択は、昭和の選択と題して「市川房江」を取り上げていました。市川房江というと中高生の頃、婦人運動家で尊敬を集めている人という印象を持っていました。

 ちょうど高校生の時、社会科の教師が市川房江は戦時中に大日本婦人会で政府に協力していた人だから認められないというような話しをされたことがあり、今回の放送を見てそう言うのもなるほどなという感じでした。

 大正時代から夫人の参政権の運動をされていたわけですが、昭和の時代になり満州事変、二二六事件、日中戦争、そして太平洋戦争へと流れていく中で、市川房江がどのような選択をしたかというのが今回の放送の主眼でした。

 ひとつの選択は反戦の主張を貫くこと、もうひとつが運動を中断して退却してしまうこと、三つ目が政府に協力しながら夫人の地位向上をはかることということでした。市川房江の選択は三つ目で政府に協力することだったわけですが、この点が高校の社会科教師が言っていたことでした。

 たぶんご本人も判断を誤ったとも思ったかもしれませんが、あの時代に政府に逆らっていたら非国民と言われ、投獄されるのは明らかですから、その判断も致し方なかったかもしれません。それに協力する判断を下してしまってから戦争がどんどんと拡大していく中で、その判断を変えることも難しいことだったと思います。

 今の時代では、安易に妥協すべきでないと気軽に言えますが、あの時代であったら命をかけなければならない時代でした。共産主義者もほとんどが検挙され、小林多喜二のように拷問を受けて死んだり、幹部でも共産主義からの転向をした人もいたわけで、あの時代に自分の信念を貫きとおすのは並大抵の時代ではなかったと思います。


中島飛行機エンジン史という本を読んでいます

2016-12-15 13:17:53 | 日記
 アメリカでは機体メーカーとエンジンメーカーが完全に分かれていましたが、日本では最大手の三菱と中島では機体の開発、製造とエンジンの開発、製造を行っていました。

 どちらの会社も自社で設計した機体には自社のエンジンを搭載することが基本だったと思います。その方が儲かりますし、トラブルが出た時にも対処しやすいと思います。しかし中には軍の要請で他社のエンジンを搭載することもありました。軍の命令に従うのは嫌だったことと思いますが、その成功例が零式艦上戦闘機です。三菱の機体に中島の栄エンジンを搭載したことで、バランスの良い戦闘機となり大活躍しました。

 で、今読んでいるのは、その中島飛行機のエンジン史です。まだ読んでいる途中ですが、これまでに興味深かったのは、中島でも液冷のエンジンを開発していたのを初めて知ったこと。うまくいかずに空冷一本となりましたが、開発していた液冷エンジンかうまくいったら日本の航空史も変わっていたかもしれません。

 それと誉エンジンの開発でしょうか。読んでいて思い出したのは、NHKの番組で凄わざという番組があるのですが、その中で真球、つまりまん丸な玉を造り、それが一定の幅の上をどこまで転がっていけるか対決したものです。

 対戦者はドイツのベアリングメーカーで高度な機械加工で造った真球を持ち込みました。日本側は職人が手作りで造った真球で勝負。結果は日本の職人の勝利でした。日本の職人技が際立った番組となりましたが、同じことが誉エンジンにもいえます。

 開発段階で熟練の職人が組み上げた誉エンジンは小型にかかわらず、2000馬力を発揮しました。しかし、戦局が悪化してからは熟練の職人が召集されていなくなり、学徒動員などの非熟練工で対応せざるを得なくなり、さらに工作機械の精度に劣り、金属材料の欠乏ということもあり、誉エンジンのカタログスペックを満たすことはできなくなってしまいました。

 平時に職人の手作りで組み上げだエンジンの数だけですんでいたら問題もなかったかもしれませんが、戦時に大量生産しなければならないとなると問題発生となったわけです。

 本にはここいら辺の開発後の生産の問題には触れられていませんが、日本の職人というのはすごいのだなあと感心したものです。


1等輸送艦

2016-12-14 08:09:51 | 日記
 昨日、旧帝国海軍の艦艇について書かれた本を読みました。扱っていた艦艇は戦艦や空母などではなく、輸送艦、給糧艦などといった縁の下の力持ちの艦について書かれた本でした。

 その中でも印象深く読んだのが輸送艦でした。輸送艦という艦艇、戦争の最初からありそうな感じがしますが、登場したのは戦局が悪化した昭和19年なのでした。

 なぜにこのような時期になったかというと、ガダルカナルへの輸送に際して大砲などの重量物を輸送しようとすると、徴用した貨物船を使ったのですが、制空権、制海権を取られた海域に一般の商船を突入させも犠牲だけ多くて輸送ができませんでした。仕方がなく、駆逐艦でドラム缶輸送などを行うのがやっとだったというわけです。

 その反省にたって、敵の制空権、制海権下でも高速、対空兵器を充実させ、輸送艦から陸地へ移送する時間も短縮するべく開発して装備されたのが1等輸送艦でした。

 輸送艦の大発に人員や輸送する物資などを積み込んでおいて、輸送艦からすべりだすようにして発進し、輸送が終わって戻ってきたらまた輸送する物資を搭載して陸へと向かうという感じで、陸地への輸送にかかる時間を短縮させました。

 本の中で1等輸送艦の実績についてまとめられておりましたが、フィリピンでの多号輸送などとても生きて帰れそうもない輸送を何度もこなしているのですね。初めて知りましたがすばらしい成果であります。

 このようなことを知ると、ガダルカナル戦のときにこの輸送艦があったら、戦局もちょっとは変わっていたのかもしれないなとことで、登場した時期の遅さが悔やまれます。

昭和の選択「中島知久平」

2016-12-12 05:56:36 | 日記
 先週放送された英雄たちの選択は、昭和の選択と題して「中島知久平」を取り上げていました。中島知久平とはどんな人物かというと、海軍機関学校を卒業して海軍将校となった方で、欧米でもようやく飛び始めた飛行機に対して非常に興味をもち、海外で飛行機の操縦を習ったり、海軍内で飛行機の設計開発をした方です。

 ただ、海軍の中では自由に飛行機の開発を行うことができないことから、海軍を辞めて中島飛行機を設立しました。太平洋戦争時には日本有数の航空機メーカーとなっていました。スバルの富士重工は中島飛行機の流れをくむ会社で、実際にヘリとか航空機関連の事業も行っています。

 中島飛行機の代表的な機体としては、陸軍では九七式戦闘機、一式戦隼、二式単戦鍾馗、四式戦疾風、百式重爆呑龍など。海軍では九七式艦上攻撃機、天山艦上攻撃機、夜間戦闘機月光などを開発しました。また三菱の開発したゼロ戦も中島飛行機でマスプロ生産されました。

 番組では中島知久平の選択として、太平洋戦争の戦局を打開するために、超大型の爆撃機をつくりアメリカ本土を爆撃する。もうひとつが戦闘機を大量に生産してアメリカが開発して配備しているB-29に対抗するという選択で、結果超大型の爆撃機を作るが選択されました。

 じっさい、エンジンを6発積んだ富嶽という爆撃機の開発を進めました。しかし、5000馬力ものエンジンを開発すること。高空を飛行するために研究開発しなければならないこと。もし機体を造るとしても多くの資材を必要とすることなどから実現には至りませんでした。

 では逆に戦闘機を大量生産してB-29に備えるという選択をしたとしても、B-29が飛ぶ1万メートル以上の高度をまともに飛行できる戦闘機を開発することができませんでした。高空を飛行するにはエンジンにターボチャージャーを装備しなければなりませんが、その開発が日本ではできませんでした。工業基盤の貧弱さと資源の不足が原因と思います。

 ということで、どちらの選択をしたとしても戦局にたいして影響を与えることはできなかったのが現実でした。

 中島知久平について書かれた本として豊田穣氏の書かれた伝記が光人社NF文庫から出ていますので、興味のある方はどうぞ。