皆様こんにちは
山三三ツ屋染舗の三ツ屋邦孝です。
ニュースサイトで見つけた記事を見て心を打たれました。
小学生をかばった交通安全員 最期まで「子供は大丈夫か?」
信号機のない国道の交差点脇に、小さな献花台が設けられている。
「子供たちの安全に対する長年のご尽力に畏敬の念を抱きます」
「見守り活動お疲れ様でした。ご冥福をお祈りいたします」。
台上には仏花と共に地域住人からの手紙が供えられ、日本酒やビールも並ぶ。
1月30日朝8時、島根県益田市で、集団登校中の児童の列に軽トラックが突っ込んだ。
時速70km近いスピードが出ていたとされ、運転手からは基準値を大幅に超えるアルコールも検出された。
大惨事に発展してもおかしくなかったこの事故だが、児童に死者は出なかった。
とっさの判断で、子供を脇に突き飛ばした男性がいたからだ。
三原董充(ただみつ)さん(73才)。
通学路の見守り隊としてこの日も児童を引率していた彼は、身を挺して子供をかばい、亡くなった。
「父らしい勇敢な行動だったと思います。だからこそ、あの子は助かったよって、父に伝えたかった…。
生きて、これからも子供たちを見守ってほしかった…」
三原さんの長女、摩弓さん(42才)が言葉を詰まらせる。
子供の安全のために尽くした三原さんの半生を、彼女が明かした。
1943年、同市久々茂(くくも)町に生まれた三原さん。
5人きょうだいの長男で、父は大工。一家は赤貧の生活を送っていた。
中学卒業後、手に職をつけようと大阪で紳士服店の見習いになった三原さんは、
そこで仕立てを学び、帰省して洋裁店を開いた。
「母とは見合いでした。夫婦で小さな店を切り盛りして。
私が生まれた時も忙しくしていたそうです」(摩弓さん)
2年後の1976年、次女の舞子さんが生まれた。両親は娘2人を深く愛していた。
「もともと父は子供が好きだったんです。率先して地域の子供会を作り、クリスマス会を開いたり。
“子供は宝だから”が口癖でした」(摩弓さん)
だが、1983年12月5日、一家を悪夢が襲う。当時小学2年生だった舞子さんが下校中、
ミキサー車に轢かれて亡くなった。奇しくも現場は、今回事故のあった交差点の至近だった。
「母は泣き崩れましたが、父は人前で涙を見せなかった。ただ、心も体もボロボロだったはずです」
酒が入るといつも舞子さんを思い出し、こう嘆いていた。
「おれが代わってやりたかった。おれがこの年まで生きて、なんで舞子は…」
再生への転機は、摩弓さんの結婚と出産だった。
初孫を溺愛していたという三原さんは15年前、孫の小学校入学を機に、
地元・豊川小学校に通学する児童の「見守り活動」を始めた。
「“あの悲劇を繰り返しちゃいかん”って。朝7時に地域の児童8~9人と一緒に学校まで引率するんです。
片道30分を毎日。通学路に枯れ葉が積もっていれば、危ないからと軽トラックに積んで処分して。
あのトンネル歩道が危ない、横断歩道には信号機をつけたほうがいいって、
気づいたところは市にも進言していたんですが、聞き入れられなかった」(摩弓さん)
1月30日朝、三原さんはいつもどおり児童を引率して学校へと歩いていた。
「私も出勤する時に国道に出るんですが、あの日は珍しく渋滞していたんです。
なんだろうなと思ったら友人から着信があって。
嫌な予感がしました。電話口で『おっちゃんが!』って…」(摩弓さん)
気が動転しながら現場に駆けつけると、三原さんが道路脇に倒れていた。
とっさにかばった子供は軽傷で済んだが、児童らは衝撃のあまり泣きじゃくっていたという。
「救急車が来るまでの間、意識はありました。
激痛だったろうに、“子供は大丈夫か”って心配していたんです。
救急隊に名前を聞かれた際も、“三原です”と答えることはできたのですが…」(摩弓さん)
搬送先で意識不明に。左半身の骨が全て粉砕されており、
CTを撮るたびに、脳内の血の塊が拡大していったという。
母親と孫も病院に合流したが、家族の祈りは届かず、翌朝亡くなった。
「子供の未来のために、全力で生きた人でした」摩弓さんはそう話した。
2月2日、市内の集会所で営まれた三原さんの葬儀には、友人や学校関係者、県警幹部ら300人が参列。
棺を乗せた車は豊川小学校の前を通り、40人の児童が手を合わせて見送った。
※女性セブン2017年2月23日号
島根県益田市では交通安全員で札幌市では交通指導員となります。
自分も毎朝、交通指導として子供達(主に小学生)の見守りをしています。
亡くなられた交通安全員の三原董充(ただみつ)さん(73才)の事とても人ごとではありません。
昨今、高齢者の死亡交通事故が増えています。過失の事故では無く飲酒運転による死亡交通事故。
とても悔しいです。
飲酒運転による死亡交通事故がいつまで続くのでしょうか。
飲酒運転を心より憎みます。
私もそうですが、交通安全員(交通指導員)は目の前で小学生がひき殺される事は自分が車にひかれるよりも辛いですから・・・・・
私自身交通指導員として子供を守り殉職したとしても悔いはありません。
きっと交通安全員三原も、安堵の中で亡くなられたと思います。
庇われた小学生さん、あなたは悪くないですよ。
トラウマにならずに交通安全員さんの分まで命を大切に生きてください。
益田市の山本浩章市長、あのトンネル歩道が危ない、横断歩道には信号機を早くつけて下さい。
三原さんの命をかけて訴えを聞いて下さい。
私自身も交通指導に全力を上げます。
殉職された交通安全員三原董充さんのご冥福をお祈り申し上げます。
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