宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。 藤田幸右(ふじたこうすけ) 管理人

小文集-2

2011年12月11日 | データ、転載など

●宮古市の港湾行政(5)

名前や呼称の問題がしまらない理由のその二は、宮古市の港湾行政の軸がぶれているからだと思います。
宮古湾や宮古港は宮古市の行政だけでなく、国や県の港湾行政が網の目のように入っています。事業展開や出先事務所は、国土交通省、県土整備部(恐ろしい名前だ!)、環境省、防衛省、検疫の関係は農林省ですか?税金は財務省?よく分かりませんが陸側より港湾部の方に外部行政機関は多いと思います。分かり易いところで浄土ヶ浜の環境省、ケーソンの国交省,港づくりのハード面は国と県が入っていますね。これからは復興庁が事務所を設けることになります。それぞれにはよい仕事をしてほしいですが、問題は宮古市が強いリーダーシップをとっているかどうかです。調整などという甘い立場ではなく、地元宮古市民の立場で、その広い意味での利益のために彼らを調教しなければなりません。追認や調整ではなく主体性をもって是々非々の立場をまわりの官に貫いてほしいわけです。宮古市の港湾行政の軸とはそういうことだと思います。そうしなければ名前一つも永久に更新できないわけです。
私は宮古市の津波災害の非の多くはこれら省庁の縦割り行政の非だったと思っていますが、ここでは、それについては述べません。ただ、それぞれの管轄で宮古港の整備計画や防災計画が国や岩手県によって進められる時、宮古市はただその計画の追従・追認に終始しているように見えるのです。計画を審議し承認する時の宮古市側の委員の人選は10年1日のごとく変化がなく委員に意見がなく「宮古市はこうしたい」という宮古市としての主体性が官にも民にも見えないのです。本題の港湾の名前や呼称が100年しまらないのはそのせいではなかろうか?と思います。 了(12/18)



●宮古市の港湾行政(4)

なぜここまで面倒になって来たかの原因はいろいろあると思いますが理由を二つ書いてこのシリーズを終わりたいと思います。その一──
大正昭和に海岸の埋め立て工事が始まり本格的に岸壁やふ頭がつくられるまで、宮古港は鍬ヶ崎奥の舘ヶ崎、龍神崎の絶壁に守られたせまい範囲の風待ちの水域のことであった。船は錨を下ろして沖合に停泊していたのである。明治黎明の宮古沖海戦も鍬ヶ崎の沖合のそのせまい範囲を歴史的戦場にしており、明治41年には石川啄木もその沖合から手漕ぎのはしけで鍬ヶ崎桟橋に上陸したのである。当時、現在の宮古港の範囲は、わずかに鍬ヶ崎が丸太組みの桟橋やはしけをそろえて港の態をなしていただけで見渡すかぎり閉伊川河口や松林や砂浜以外なにもない文字通りの一衣帯水の風景であったと思われる。宮古(町)と鍬ヶ崎(町)が合併する前、宮古湾のごく一部のこの鍬ヶ崎沿岸とその沖合が通称で宮古港と呼称されていただろうと推測できるわけで、どうやら、その頃の呼称のアドバンテージがそのまま現在に残っているように思われる。
100年以上前のこの事情が、宮古市鍬ヶ崎港(または宮古港鍬ヶ崎港、宮古港鍬ヶ崎、鍬ヶ崎宮古港、単に鍬ヶ崎港)を今だに宮古港と呼称する理由であるようである。出崎ふ頭が魚くさいという理由だけではないであろう、藤原岸壁に飛鳥や日本丸が係留し、藤原ふ頭では博覧会やイベントが頻繁に行われる現在では100年前の呼称体系は不自然なものに聞こえるのである。



●宮古市の港湾行政(3)

宮古湾や宮古港は大きな括りでそれはそれとして名称も呼称も有効ですが今時そこにあぐらをかいていてはダメだと思います。船舶も、漁業者も、港湾関係者も不便はないと言うと思いますがそういうことがばかやろうなのです。線で見ても面で見てもそれぞれの場所には特徴があり、使命があり、役割があるわけで、景勝地、産業地、商業地としても違うわけです。後背地の陸地も二つとして同じものはないわけで、細分化して呼称し理解することが急がれます。宮古湾と宮古港だけではまかないきれないわけです。宮古港や宮古湾はもう船舶の方、漁業者の方,港湾関係者の方だけの港湾ではないのです。
略称や俗称はしばらく避けて、細かく正式な基本名称を流通させなければ、将来の川井の修学旅行の小学生への対応ができないばかりか、、、、津波などの緊急時や現下の復興対策時に(宮古市役所庁舎内での対話やマスコミ等との対話で)意味が通じていないのでは?と心配するのである。「宮古港で3メートル…」と言ってももはや意味がない…
話は飛びますが釧路では釧路港巡回の観光船が運航されています。それこそふ頭や河川、橋や倉庫などを海側から観光するためです。



●宮古市の港湾行政(2)

例えば鍬ヶ崎の港は鍬ヶ崎港でいいのですかね?そこを宮古港という人もいますし、私のように鍬ヶ崎港という人もいます。そこに宮古湾と書いてあるものもあります(地区防災まちづくり会の資料3が全部そうなのです)。いずれにしても宮古港湾の基本施設,基本地区の呼称はめちゃくちゃです。宮古市は何十年もそれを改善していない。おどろいたのは高浜の漁港に宮古湾と書いてあったことです。
確かめるために、一番身近な線的な岸壁から聞いて行きます。日立浜雁木岸壁、鍬ヶ崎港旧魚市場岸壁、出崎ふ頭東岸壁、出崎ふ頭西岸壁または出崎ふ頭閉伊川岸壁,閉伊川左岸岸壁、閉伊川藤原岸壁、藤原港岸壁,磯鶏港岸壁,神林港岸壁、、、以上、これらは有るのですか無いのですか、それぞれの呼称はそれでいいのですか?
それから堤防・ふ頭の関係で、龍神堤防、さきほどの出崎堤防、出崎ふ頭、藤原堤防、藤原ふ頭、神林堤防は、、有るのですか無いのですか?あるとすれば呼称はそれでいいのですか?
最後に港(みなと)あるいは港(こう)の関係では、面的に考えて、宮古港鍬ヶ崎港,宮古港閉伊川河口港,宮古港藤原港,宮古港磯鶏貯木港、宮古港神林木材港は、、有るのですか無いのですか?呼称はそれでいいのですか?
港については時には略(りゃく)称で、鍬ヶ崎港,閉伊川河口(港)、藤原港、磯鶏港、神林港と言ってもいいのですか?



●宮古市の港湾行政(1)

龍神地区,出崎地区とは?分かりますか?鍬ヶ崎地区、日立浜地区というのもある。何でもかんでも「地区」をつければいいと思っているようである。鍬ヶ崎出崎埠頭というのもあった。分かったようで実は分からないのである。行政が分かってもらう努力をしていないのだ。これは分かりますか?「出崎堤防」は?それから「宮古港」これがどこかわかりますか?
宮古港は分かるけど出崎堤防は分からないですか? 答え、おどろいたです!出崎堤防は鍬ヶ崎のあの赤い灯台のある堤防のことなのだそうです。出崎埠頭とまぎらわしいですからいっそのこと鍬ヶ崎堤防としてもらいたいと思います。宮古港の方は、こっちのほうが、分かりそうで実は分かりにくいのです。宮古港、宮古港というけれどどこが宮古港か分かりますか?近年川井も田老も同じ宮古市になりましたが、川井の小中学生に宮古港が分かりますか?宮古市は教える努力をしてますか?自分たちも分からないから、怠っているのです。宮古湾はだれでも知っています。宮古港は、その範囲を漠然と知っているつもりですがあやふやですね。範囲だけでなく中味になるとまるっきり分からなくなるのです。範囲は市街地に近い範囲ですか?金浜や赤前、白浜をふくめますか?鍬ヶ崎から神林のあたりですね。範囲は、まあ教えてもらえば分かりますが、問題は中味です、宮古港のどこもかしこも宮古港では困ることです。神林も宮古港、藤原も宮古港、鍬ヶ崎も宮古港では何がなんだか分からなくなるのです。港湾行政の怠慢というしかありません。

 

 



●「津波の心配がないのが一番いい」(復興住宅村)
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