

何気ない日常の話。
久しぶりに行ったホームセンターで、出会った親子連れ。
小さな男の子が駄々をこねる。
床に寝転がって泣きわめく息子を叱る母親。
堂々巡りのやりとり。
やがて無視。
放置。
男の子は状況を察したのか、起き上がって母親に食らいつく。
まあこういった場合、理由はだいたい子供のわがままである。
最近は、何とかその場を凌ぎたくて、結局子供の言うことを聞いてしまう親も多い。
でも、その母親はそんなことは気にしない。
ビンタ。
おうおう、やるねぇ~。
最近は、街中ではあまり見なくなった光景だ。
子供はさらに大声で泣きわめく。
周りの客にはいい迷惑だろう。
でも、それが、躾(しつけ)。
親と子供の真剣勝負。
親は、子供に我慢を教える。
どんな素晴らしい本も、それを教えることはできない。
一昔前の貧しい時代に苦労した親たちは、子供に少しでも我慢を教えようとしたのかも知れない。
それがいまやどうだろう?
今の御時勢、我慢することは「損をすること」だと思いかねない悲しい常識がある。
少なからず日本は豊かになった。
言った者勝ち、やった者勝ちで、誰もそれをとがめやしない。
許容範囲の広い社会。
我慢などするだけ損のようにも思える。
親は子供に、少しでも自分のようにならぬよう、貪欲に生きろと願うのだろうか?
もう後戻りはできない。
それがその世代の常識なのだから。

さらに最近は、親には考えなければならないことがある。
幼児虐待。
そんな事件が注目を浴び、欧米では裁判にもなるらしい。
子供が親を訴える。
ちょっと私の古い頭では考えられない。
きっと誰かの入れ知恵なのだと思うが。。。
でも実際には、日本でも悲惨な事例も多くなってきているらしい。
そんな欠陥を持つ親が起こす事件のために、
本当にきちんと子供を育てられる賢い親が裁判に怯えることとなる。
躾けられない親。
子供を叩けない。
世間一般の良識が、親を縛り付ける。
それを許容し、それでも子供が生きていける社会だから。
それは、一見この社会が成熟した証明なのかも知れない。
でもそこに残るのは、我慢を知らない子供たち。
いまや我慢を知らない人々で溢れかえった大人の集まり。
情報が溢れかえった世界で、知識だけは立派に詰め込まれた人たち。
みな一見、立派な一人前の大人の風貌。
なんでも裁判。
勝つことが正義。
それはまるで、かつてのヤクザの論法だ。
決して間違いではない。
でも、それが社会の常識になってしまうのだとしたら、それは悲しい世界だと思う。
そしてそんな彼らがまた、子供を育てる。
むしろ、その方が明らかに問題ではないのか。

私も、母にはよくビンタをされた。
あまりにも多すぎて、理由はよく覚えていない。
玄関から放り出され、家から閉め出されたこともある。
父はめったに手は出さない人だったが、たった一度思いっきり吹っ飛んでいくほど張り倒されたことがあった。
めったに怒らない人だったからこそ、私は泣きじゃくるのを忘れるほどに凄くびっくりした。
「かあさんに謝れ!」
張り倒された理由も覚えてはいないが、その言葉は、四十近くになった今でも頭に残っている。
そのときは、母が私をかばって間に入ってくれたように記憶している。
いろんなものが見えた。
いろんなことがわかった。
言葉ではなく、いろんなことを感じた。
今だからこそ、そう思える。
もちろん、今やそんなこと恨んじゃいない。
思い出と言うつもりも、毛頭ない。
ただ、それが良かったことだったのだと、私は自信を持って言える。
一番最小で、一番親密で、一番重要なコミュニティ。
それが家族。
親の存在価値。
そこで子供が学ぶことは、親が考える以上に大きいことだと思う。

法律は弱者のためにあるモノだ。
祈ったり、頑張ったり、泣いたり、笑ったり、
誰も”弱者にはなるまい”と思って生きていく。
それでも無数の人々が住む世界では、どうしても落ちこぼれたり不運な目に遭う事がある。
そんな人を助けるのが、法律であって裁判であると思いたい。
自ら弱者になりすまそうとは考えない。
善人を装って弱者を貶めようとは考えない。
思いたくない。
それは私がこれから生きていくための誇りとして。
それだけの生活を守るために、今をひたすら頑張るのだ。
まだ大丈夫。
まだ大丈夫。
笑って生きていけるだけのわずかなお金と、
笑って生きていけるだけの豊かな心と、
笑って生きていけるだけの誰かがそばにいればいい。
それは親が、これまで私に教えてくれたのだと思っている。
ただ、何気ない日常の親子の風景に感じたこと。。。
ただ、笑えないような悪意には戦うしかない。
悲しいけれど。
よくよく考えてみたら、世の中悲しいことだらけだ。
色の絵の具を混ぜ続けると、やがては真っ黒になるだけだという。
嗚呼、コモンセンス・ジレンマ。