どんこの空(そら)に 。

きっと何かが足りない~それを探す日記~

パワハラ騒動。

2018-09-03 | Sandstorm



これまでのパワハラ騒動とは少し角度が違う論点からの体操の宮川紗江選手の騒ぎで、ようやくここ数年のワンパターンの勧善懲悪を望む世論に押しきられる形の決着の中のモヤモヤしたままの部分が腹に収まるような気がしている。
権力を持つ者がはたして一方的に悪いばかりなのか。
師匠と弟子的な考え方は、日本と世界とでは違うように思う。
夫婦間の男と女の関係性の違いとでも言おうか。
利害関係と信頼関係の比重の違い。
日本的な考え方と世界基準の考え方。
突き詰めれば、どちらかが優れていて、どちらかが劣っているというものでもないような気がするが、とはいえ日本でも世界基準が叫ばれるこのご時世、古い日本的な考え方はもう通用しないのだろう。
ただ昔、親に殴られたりしたことで色々なことに気付かされたり、自ら成長することができたと感謝を感じる我が身にとっては、ここ数年のパワハラ騒動の中のあまりにも短絡的に思える世論の一方的な感情に「この国は大丈夫か?」とまで思ったほどだった。
確かに暴力は良くない。
横暴とも思える権力行使も認めてはならない。
ただしかし、人間だもの。
これまでも、もっとケースバイケースの着地点があっても良かったのではないか。
結局は権力者であれ弱者であれ、どこかの誰かの利己的な思惑がそこには下地にあるのは間違いないのだから。



今回の件。
どのような結果になろうとも、社会の在りどころやこれからの振る舞い方が明確になるような気がする。
メディアの視点。
それはイコール世論の視点。
弟子に対する師匠の暴力は、世界基準でパワハラとなる。
が、今回の話はそんな単純ではなく、弟子は利害関係よりも昔ながらの日本的な信頼関係が強く師匠はパワハラではないと主張。
むしろパワハラから救った“形”の中央権力の意図的な悪意のあるものであり、それがパワハラであったと主張する。
はたして・・・?
ただ思うに、そのあたりはすべて受け手側の感じ方次第である。
選手によっては、師匠の愛のムチがパワハラに感じる人もいるだろうし、逆に相手に意図されたものであれ中央権力の近くに所属できるのを嬉しく思える人だっているに違いない。

権力を行使した形の中央権力=協会とて、第三者的に世界基準の判断をしたといえばそうであろうし、また自らの利益のために作為的な行為であったと言っても全否定はできないだろう。
真意は探ってわかるもののではなく、どこもかしこもグレーであり、それがすべてである。



ただここで、メディアの視点が世論の正義になっていく。
まず誰が加害者か被害者かを決めたがる。
それを決めなければ、気が済まないのだ。
私が思うに、本当の答えは勧善懲悪ではないと思う。
宮川頑張れ、コーチ頑張れではなく。
弱者というのは誰?
本当の被害者は誰?
それぞれの思惑は?
この何十億の人が生きていく世界には万人共通のルールが必要だ。
ただそれは必要であるが、すべて正しいわけもない。
そこのところをすべての人が踏まえなければ、究極のところ無意識に強圧的な歪んだ社会になってしまうのではなかろうか。
正しいか間違いか、勝ちか負けかしかない社会としか考えられない人ばかりの世界になったら・・・、恐ろしい。
いやSNSなどに生まれた時から慣れ親しんでいる子供達はもう、そうなってしまっているのかも知れないとも感じる。
誰もが発言でき、それをメディアが作為的に拾って伝えられれば、それは闇の中の誰かの意図された大きな圧力となる。
私はそんな部分の恐怖を毎回感じる。
何度も言うが、絶対正義なんて世の中にありえない。
万人が生きていくためのルールがそこに必要なだけだ。



でもこれで、私のこれまでのパワハラ騒動のモヤモヤが腹に収まりそうなのはなぜだろう。
選手側、コーチ側、協会側、第三者とようやくすべての思惑が世間に晒されて議論が始まろうとしているように見えるからだろうか。
弟子と師匠も利害関係がある。
師匠と協会も利害関係にある。
弟子である選手と中央権力である協会が利害関係を争うなんてなかなか見えづらいものであるが、今回はそうなっている。
信頼関係を振りかざす選手側に世論は傾きやすいだろうが、
第三者委員会はどのような結論を出すのだろうか。
暴力はダメ。
権力の乱用はダメ。
それはわかる。
これまでは、そこまでの議論からの結論だった。
ただ今回はそれだけでは済まされない。
信頼というグレーゾーン。
この問題の本当のところはそこにある。
誰だって喧嘩はするさ。
生きていれば誰かを殴ることだって殴られることだってある。
自分が悪いこともあったし、全く自分にとって不条理と感じることもあった。
でも今思えば、そこは決してゴールでも決着でも終わりでもなく、次への糧になった。
そうやって人生を学んできた者として、私がこれからここで生きていく上で、社会がこの問題にどんな結論を出すのか知りたいところである。
ようやく今回初めて、そういった部分にまで議論の光が当たるように思う。
ただこの結論はひとつの結論であって、誰が正義という話ではないということだけは忘れないようにしたい。
これは「人はなぜ山に登るのか?」という話に似ている。






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