『私のしあわせ』が下心にあって読む限り聖書は閉ざされた本である。その執着を捨てる時徐々に見え始める。宇宙の原理は”全ての事象は『平衡』に向かって遷移する”である。その”平衡の状態”とはどんなものかは創世紀の冒頭に書いてある、曰く”神これを善しと見たまへり”である。ここに茶々を入れたのがサタンなる存在でありそれがどういうものであったかは聖書のどこかに”ツロの王よ・・・”の記述で暗示されている。シェークスピアの描いたマクベスはこれの人間世界版だろう。つまり分限を超えた僭越、旧約聖書にあるアカンの場合もコラの場合も同様であろう。
ここで”罪”と言う言葉を使うとまた解らなくなる。人はこの言葉を聞くとすぐに所謂道徳的な違反、所謂国家の法に対する違反を想定し、思いはそれに固着し、意識はだんだんずれて行く。あるいはこれも”宗教の騙し”かもしれない。『瑕疵』と言えばピンと来る人が多かろう。つまり創造の第6日に人を創って地上の管理を命ぜられ、創造の全ての働きを終えて”甚だ善かりき”と満足し、第7日に安息に入られた。そこへ瑕疵が入り込んだ、最初の人がその片棒を担いだ。
”甚だ善かりき”に生じた”ゆがみ、キズ”は修復され元の平衡に戻らなければならない。僭越を以ってそそのかした者は処罰すれば済むことであるがそれによって生じた宇宙のゆがみ、キズはそれを来たした者、つまり人間によって修復されなければならない。ところが片棒を担いだ者つまりアダムでありエバであるが、その家族に資格は勿論、しくじったと言う性格遺伝によって的確者が一人も出ない、つまり十字架の死に至るまで忠誠、神の側からブレない、は不可能ということだ。
ここに人間が寸毫もエラそうな事を言えない”神の恩寵”がある。それが第二のアダム、イエス・キリストであった。イエスさんはあなたの極楽往生於天界安穏生活もしくは地上永遠安楽生活、或いは困窮生活脱出祈願受付けのために来られたわけではない。無論、”打ち捨てられた羊のような”人々に憐れみを感じて、”思いと心が現象化するのが神に創造された世界の原理、場の力学である”と手を変え品を変えて説明されたがだァーれも悟らなかった。わずかに百人隊長と”子犬も床に落ちたパンの屑をもらうのです”と言った女だけだったか。
神にとってはせっかくの創造世界に入り込んだ瑕疵を除かなければならないのだ。そのおこぼれにあずかるのが最初のアダムの子孫である我々人間なのだ。では何故イエスさんの時からもう2000年も経つのに何も変わらないのか?と誰か言うだろう。知恵の樹の実を食べた結果がそのようになるのかを骨の髄まで、身に沁みて味わえ、と言うことだろう。囲碁で”味を残すな”と言うがそれだろう。だからダニエル書12章に”国ありてより以来その時に至るまでかかる艱難ありしことなかるべし”と書かれている。
ここで”罪”と言う言葉を使うとまた解らなくなる。人はこの言葉を聞くとすぐに所謂道徳的な違反、所謂国家の法に対する違反を想定し、思いはそれに固着し、意識はだんだんずれて行く。あるいはこれも”宗教の騙し”かもしれない。『瑕疵』と言えばピンと来る人が多かろう。つまり創造の第6日に人を創って地上の管理を命ぜられ、創造の全ての働きを終えて”甚だ善かりき”と満足し、第7日に安息に入られた。そこへ瑕疵が入り込んだ、最初の人がその片棒を担いだ。
”甚だ善かりき”に生じた”ゆがみ、キズ”は修復され元の平衡に戻らなければならない。僭越を以ってそそのかした者は処罰すれば済むことであるがそれによって生じた宇宙のゆがみ、キズはそれを来たした者、つまり人間によって修復されなければならない。ところが片棒を担いだ者つまりアダムでありエバであるが、その家族に資格は勿論、しくじったと言う性格遺伝によって的確者が一人も出ない、つまり十字架の死に至るまで忠誠、神の側からブレない、は不可能ということだ。
ここに人間が寸毫もエラそうな事を言えない”神の恩寵”がある。それが第二のアダム、イエス・キリストであった。イエスさんはあなたの極楽往生於天界安穏生活もしくは地上永遠安楽生活、或いは困窮生活脱出祈願受付けのために来られたわけではない。無論、”打ち捨てられた羊のような”人々に憐れみを感じて、”思いと心が現象化するのが神に創造された世界の原理、場の力学である”と手を変え品を変えて説明されたがだァーれも悟らなかった。わずかに百人隊長と”子犬も床に落ちたパンの屑をもらうのです”と言った女だけだったか。
神にとってはせっかくの創造世界に入り込んだ瑕疵を除かなければならないのだ。そのおこぼれにあずかるのが最初のアダムの子孫である我々人間なのだ。では何故イエスさんの時からもう2000年も経つのに何も変わらないのか?と誰か言うだろう。知恵の樹の実を食べた結果がそのようになるのかを骨の髄まで、身に沁みて味わえ、と言うことだろう。囲碁で”味を残すな”と言うがそれだろう。だからダニエル書12章に”国ありてより以来その時に至るまでかかる艱難ありしことなかるべし”と書かれている。