夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

オウム事件

2012年06月17日 09時49分27秒 | 日記
 実はこのブログは発言が力を持つ人々、例えば政治家、治安維持に携わる人々、例えば公安警察、幹部自衛官などに読んでもらえないかと思って書いている。蚕食にしか過ぎないしカルト教団に於ける学習を通じてではあるが”聖書の記述と時代の動きの関連”を考えるようになり、ふと”もしかしたら!”と閃いた事を覚えとして書き留めている。
 オウム事件は最後の逃亡者が逮捕されて一応の節目を見た。しかしオウム教団の残滓は未だ市中にあり、型を疎かにして論に奔る頭に血の上った人々の多い現在、油断はならないと思う。
 見えるものだけで解釈し、言葉に表現出来る世界だけであの事件を解明しようとしても不可能であろう。昨夜オウムの一連の記録映像を見て、あらためて黙示録12章13節以降が脳裏を去来する。少し長いが引用しよう。”かくて龍は己が地に落とされしを見て男子を産みし女を責めたりしが女が荒野なる己が処に飛ぶために大いなる鷲のふたつの翼を与えられたれば其処に到り一年、二年また半年のあいだ蛇の前を離れて養われたり。ヘビがその口より水を川のごとく女のうしろに吐きて之を流さんとしたれど地は女を助けその口を開きて龍の口より吐きたる川を呑みつくせり・・・”
 つまりあの組織は聖書に記載されている、”エバを騙して本来完全に創造されていた宇宙に瑕疵を介在せしめたある存在の始末とその瑕疵の修復の行程・計画”を反故にしようとの魂胆で、その計画に於いて重要な位置を占めることとなる日本と言う国を転覆する手段に使われた、と私は考えている。その”女”が日本ではないかと言うことはこのブログ中の何処かに書いた。
 これが馬鹿げた妄想と言うべきか、或いは!と思うかは読まれる人の自由である。しかし考えてみたまえ、昨年来この事件が急速に閉じられたではないか。これが或いは”油断させる意図”によるのではないかと邪推癖のある私は安心できない。

新約聖書

2012年06月17日 09時11分39秒 | 日記
 新約聖書の中のパウロの書簡は殆ど読まない。”何となく臭い!”と前々から感じているからだ。福音書の中でイエスさんが語る言葉の簡明さ、直接心臓をわし掴みにする言葉に比べて余りに晦渋難解で如何にも如何にも、と言う感じがする。哲学者風、宗教学者風だ。神のご意思をそのようにひねくり回すのは僭越だ。
 エデンに於ける神の言葉、申命記、レビ記、箴言、等、どれをとっても具体的且つ単純明快、サルにも解る言葉である。それが急にパウロになると所謂”学のある”者にしか解らないような難解な言い回しになる。”ここには何か怪しいものがある”と私は感じている。
 饒舌は饒舌であること自体が騙しを巧妙に内包することを白状している。ロマ書10章に言う”人は心に信じて義とせられ云々・・”と黙示録3章9節に言う”汝少しの力ありて我が言葉を守り・・”とは大分ニュアンスが違う。
 ”行い”即ち”形”を軽んじ”論”に走るところにワナが仕掛けられている。過日、街中でふと立ち止まった占い師が言った、”目と胸に飛び込むことは信用できるが耳に入る事は信じてはいけない”と。カルトとはそういうものだ。
 剣術の奥義書は要するに形を示している。相撲も四十八手と形がある。昔ある短距離走者が自分にとって理想的な動きをゆっくりゆっくり繰り返すのを見て咄嗟に閃いた。楽器の演奏も然り、指と脳に型を覚え込ませる。型こそ奥義である。
 人間の正しいありようもまたその通りである。私はこの点で”神道”を真の宗教の本来の姿を保っていると評価している。・・・ ”汝少しの力ありて我が言葉を守り・・”だ。難解な饒舌を弄せず単純明快に神居ますものとして型を守り続けているその様子をおそらくパウロに騙された人々はバカにするだろうが、まさにそこに知らせてはならない者共には知らせない宇宙の秘密が隠されていると思う。