世間には亡者が、と言うよりは殆ど亡者ばかり居るので甚だ面倒くさいが少し書いておこう。
キリスト教会に行くと(思い出したので少し脇道へ・・・高校時代、英語の先生がイヤイヤながらキリスト教会の礼拝に連れて行かれたらしい。牧師か神父か知らないが『汝罪びと』と言うので腹が立って途中で帰った。後から聞くと『迷える子羊』と言ったらしい、アッハッハ!)『天にまします父なる神』などと祈る。他にも色々言い方は違うが要するに『神とは天と言うところに居る父親のような存在』との認識であろう。
すると聞く方は『どこか空の上の方に余り会いたくない、或は強いて会いたくもない、ノが居る』と思う。・・・この時点でキリスト教は落第。イスラムは知らない。仏教には絶対者みたいな存在はない。禅に『仏に会ったら仏を斬れ』と言う表現がある。その意味するところは『如何なる真理も言葉で表現したらもう的が外れる』という事である。
日本人は食事の前に『いただきます』と言う。一体誰に言うの?キリスト教徒はやはり、『天にまします我らの神よ、日ごとに食事を与えられる事をなんとかかんとか・・・』と言う。
少し飛躍して長男のコメントを無断借用する。曰く『日本語は主語がなくても文章になる唯一の言語』である。・・・そうだな、『どこ行こうか?』を英語にしてみたまえ、主語なしで文章は出来ないから。
この、『日本語が主語なしで文章になる』と言う事には深い意味がある。主語がないから『いただきます』も『ありがとう』も宇宙に拡散して同様の波動と調和増幅する。この現象を『言霊』と言う。
その宇宙にどんな波動があるかと言えば、聖書の冒頭に次のように書いてある。『・・・神の霊水の面てを覆いたりき(創世記1章2節)』つまり我々は神の霊気の中に生きて居る。神道はそこを知っているが、神なるもを定義すればもう的が外れるので定義はしない。しないが神なる何かの『気』の中に生きて居るとのいわば仮説に沿って人生の様々な局面、地域共同体の行事等に於いて神事を行う。
ジーサンバーサンミーチャンハーチャンは何も知らないし考える力もないから『霊気』などと言うと却って解らなくなるのでご神木だのご神体などと言っている。それをキリスト教徒などがしたり顔にアニミズムなどとのたまう。チャンチャラ可笑しい。
ここのところの機微が判って来ると大根の一夜漬けでも非常に美味い、滋味豊かに感じる。天の恵み地の栄え、ありがとう! になる。
繰り返し言おう、神が在るか否かを考えると何もかも見えなくなる。人は創世記の冒頭に述べられた霊気の中で生きて居ると考えて生きる時、何かが姿を現す。やってみたまえ!