お墓か~・・・
先日の事、分家さんが本家さんの墓地の横に新たに墓地を建立されました。
御仏壇でご縁をいただいてからお納骨ということになりましたが、
いろんな思いがあるようで、墓の下での人間模様が気になられる様子でした。
今日の夕方、お荘厳を終えて冷たくなった手足を温めるべく炬燵に入ってテレビをパチリ!
「そうか、今日土曜日だったよな~。この時間ニュースないよな~」ってチャンネルを変えていきます。
すると、ド~ンと御遺骨が映るのです、「お~、何これ・・・」って途中からでしたが見入ってしまいました。
「報道特集」って番組で、入る墓なき遺骨ということで特集されていました。
こちらの田舎での墓事情というものはあまり建てるところがないということではありません。
勿論、いろんな事情で建てることが出来ないという方もおられますが・・・
むしろ墓はあるけど後を見る方がいなくなる問題があります。
亡くなる方があれば家もなくなる・・・
そして、墓も無縁となり草で覆われることになる。
里を離れた方々は、今の生活が大変なため墓どころではない。
でも、そんな方々もず~っと生きている訳ではなく必ず死を迎える。
「さあ、困った・・・」皆そんな顔で葬儀を進めると、番組の中で葬儀社の方がコメントしていました。
納めるところのない御遺骨を手に悩まれるのです。
何とか墓を建てることが出来たとしても超高齢化社会、後を見てくれる人がないとなるとここで又悩んでしまう。
自分の先祖の墓が草で覆われるように無理して建てた墓もそのようになることが分かるから・・・
結果、部屋の押し入れに幾つもの御遺骨があったり、葬儀社に預けたままになったり電車の網棚に・・・
切ない問題です。
決して遺骨に執着しなさいっていうことではありません。
でも、やっぱり縁ある方の遺骨・・・
粗末には出来ない現実、後を見る人のいない現実、生きていかなければいけない現実・・・
しんどい現実が見えてきます。
墓に「永遠の眠り」を見ていきます。
ご門徒の中においてもそのように見ておられる方が多くおられます。
墓に遺骨を納めなければ亡くなられた方が迷ってしまう・・・
そして、自分も終の住処としてそこに納められる・・・
中には、自分が生きてきた証として墓を飾る方もおられる・・・
そんなことを思い無理をしてでも建立されていかれる。
でも、それで終わってしまってはあまりにも悲しい・・・
本願寺の御影堂が大きいのは親鸞聖人の御廟(お墓)が成り立ち。
その時代、その時代の方々が親鸞聖人のご苦労を偲びつつ、
お陰で今この私が阿弥陀さまに出遇い、苦しき現実を抱えつつもこのままで救われる身とならせていただいていたことを感謝しつつ歩んでこられました。
あなたの死に出会い、変わり果てたる遺骨を抱え涙する。
苦しき現実は何ら変わらないまま・・・
「生きる」不安を抱えたまま・・・
涙する・・・
手を合わせる・・・
その涙となり、合わす手の温もりとなり、いつでもどこでも、今ここにおはたらき下さっていました。
お墓も又、そこに気付くご縁なのでしょう!
墓の下ではなく、今ここに・・・
一緒に・・・
お墓を求めることができなければ、浄土真宗本願寺派本願寺なりお近くの寺院に相談してみて下さい。