信仰を、『何かにすがる』ことと勘違いしている人々の多い事よ。
『鰯の頭も、信心から』と云う。本気で信じると、何かしらサイキックパワーが生じて願望が実現する。あるいは、所詮、信心は何でもかんでも信じ
さえすれば、それが信心ぐらいの意味であろう。しかし、『信じる』の意味は、その枕に『人の言うことを.....』を付けなくてはならない。だから、鰯の
頭を信じるというのは、本来マチガイ。アリエナイ。
信心とは、人の言葉に委ねてしまう心のことである。神を信じると云っても、神のことを言ってくれた人の言葉を信じると云うことである。例えば、
イマニエル・イエス(キリストと呼ばれている)の言葉を信じることである。仏教なら、コーダマ・シッダルタ(仏陀と言われている)の言葉を信じることであ
る。他にもある。モハメッドであったり、サイババであったり、出口 直であったりする。教祖がいない場合は、聖書であったり、仏典(お経)であったりす
る。
時には、社長の言葉である場合もあろう。牧師、坊主、教師、恩師......いろいろある。カミさんの言葉なんてのも、結構であろう。カミさんは、それ自体『山の神』であるのだから。
だからかどうか、聖書の書き出しに『はじめに、言葉ありき...』とある。
殆どの人は、霊能者でも霊覚者でもない。『霊能者か、霊覚者』である人に、言葉によって伝えられた事を信じることに由来している。『霊能者か、
霊覚者』は、見えたり、聞こえたりしているであろうが、伝えているのは言葉による。『霊能者か、霊覚者』の本物を、預言者といい、偽物をニセ預言者とい
う。何れも、言葉を預かると言う意味である。
人間の知恵・知識には限界というものがある。そこで、悠久の宇宙の真理をつぶさには知れない。存在の意味や、明日の我が身も、道理・法則も分か
ることと云ったら知れている。人それぞれに差もあろう。あろうが、ひっくるめて大差ない。専門は専門馬鹿になるし、男は結局、女というものを一方方向でし
か知らない。と言うことは、人間全部を知ることは難しい。亭主は『山の神』に訊くしかないのである。そのために結婚がある。
信心を持たない人間など、端からいないのである。気付きは別にして、人は、生まれながらにして、信心によって生まれ、信心によって生き、信心に
よって働き、信心によって死んでいくのである。信心とはそういうものである。ひょっとしてこの空気、毒ガスではあるまいかと、びくびくして息している輩も
いないし、生まれたての赤ちゃんは、一目散に母親の乳房にしゃぶりつく。
無信心だという人に言いたい。本性を忘れているか、勘違いしているだけだ。
信仰とは、その上に崇めることをいう。自分より尊いものを信じる心である。それを、神や仏と云っても良いであろうし、グレートサムシング(船井
幸男の造語)でもいい。只、それも人の言葉に依るほかない。感覚? それもあろうが、それとて確認するとすれば、言葉である。この感覚? 『神様?』それ
とも『悪魔?』。『あったかい?』『ぞっとする?』。言葉である。
中には、真に尊いものを信仰している向きはいいが、野卑なものを引きずっていながら、それを信仰と勘違いしている場合である。これを『妄信心』
という。盲信・狂信の類である。これは注意を要する。『山の神』を盲・狂信する程度であれば、混乱は少ないが、そうでない場合は、深刻である。テロの原因
はその典型的である。カルトはそれが狙いだ。テロのはじめに盲・狂信ありき。それは、マインドコントロールによって作られる。
正しい信仰を持つ秘訣。結局、人を観るしかない。言葉を吟味するしかない。聖書に警告してある。
<マタイによる福音書 / 23章 27節
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。>
要するに、偽善者を見抜くことである。偽善者の言葉を信ずると、盲信・狂信となる。そして、盲信・狂信に陥ると、あなたも偽善者となる。義人は少ないが、偽善者は多い。信仰に足る人は、少ないと心得よう。
<マタイによる福音書 / 23章 15節
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。>
ひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。それが、アシュケナジー・ユ○ヤであり、ハザール改宗13支族であり、サタニストである。
その手先が、ブッシュ(キリスト教福音派を自称しながら、タルムードを抱えている)であり、S学会であり、統○教会etc.である。
改宗ユ○ヤ人が、9.11事件を自作自演し、世界終末戦争を自作自演しようとしている。