ご予定通り、ご訪問!
いろいろな考え方もあるだろう・・・。
だが、先の大戦のけじめは
否が上ににも付ける事になる!
これには異論がないだろう・・・?!
戦争に対する想いは、複雑にして残酷だ。
それにまして、生き様、死に様の筋の通し方は重要である。
人は、生きて、死んで、又、生きるのである。
これはこの世からの見方である。
七生報国という言葉も、そこから生まれた。
間違いなく、
ペリリュー島の日本兵士の多くは、その思いで戦ったのである。
そして、
敵方のアメリカの兵士でさえ、母国や家族を思い戦ったのであろう。
その思いを、筋を持って弔ってこそ、
真の慰霊となろう。
又、新たに生きる必要があるからである。
戦争であるから、
さまざまな罪や穢れを体験したであろう。
好むと好まないに関わらずである。
戦争とは、常に非情で残酷である。
しかし、義に生きた事実は消してはならない。
ペリリュー島の冬眠が一緒に戦いたいと申し出ると、守備隊長の中川州男(くにお)隊長に「帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
と拒否された。
日本人は仲間だと思っていた島民は、裏切られ悔し涙を流した。
しかし、
島民を乗せた船が島を離れた瞬間、日本兵が全員、浜に走り出てきて、一緒に歌った歌を歌いながら手を振って島民を見送った。
先頭には、笑顔で手を振る体調の姿が・・・。
その瞬間、
島民は、あの言葉は自分たちを救うためだったと悟った。
日本の全てが否定されるような戦後論調は、許されてはならないのである。
【転載開始】
天皇陛下「すべての人々追悼」 パラオ訪問
パラオ国際空港で、地元の子どもたちの歓迎を受けられる天皇、皇后両陛下=8日(共同)
【コロール(パラオ)=水谷孝司】天皇、皇后両陛下は八日午後四時すぎ(日本時間同)、戦後七十年の節目に当たっての戦没者慰霊などのため、羽田 空港発の民間チャーター機で太平洋戦争の激戦地パラオに到着された。パラオ政府主催の晩さん会で、陛下は「私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追 悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います」とお言葉を述べ、国籍や戦場を問わず鎮魂したいとの思いを話した。
◆大統領「遺骨収集を加速」
パラオのレメンゲサウ大統領夫妻はパラオ国際空港の貴賓室で両陛下と面会した際、パラオ側が現地作業の許可を出している日本兵の遺骨収集を加速す る考えを伝えた。事故防止などのため戦後にふさいだ洞窟約二百カ所を、順次開けるという。陛下は「遺族は喜ぶと思います」と答えた。
天皇陛下は晩さん会で、パラオを含む太平洋のミクロネシア地域について、「日米の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、多くの人命が失われました」と言及。巻き込まれた島民らのことも「空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした」と振り返った。
厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、ミクロネシアの人々が戦後に慰霊碑や墓地の管理、遺骨収集に尽力してきたことに感謝の言葉を続けた。第一次世界大戦後、日本の委任統治領としてパラオに南洋庁が置かれ、交流があった歴史に触れ、さらに深まることへの期待も示した。
陛下は八日午前に羽田空港を出発した際、安倍晋三首相らを前にしたあいさつで「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深くしの ばれます」と表明。ミクロネシアでは「激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました」と述べた後、パラオ・ペリリュー島の飛行場をめぐり一九四 四(昭和十九)年に日米両軍が衝突したことにも触れた。
「日本軍は約一万人、米軍は約千七百人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と、当時を記憶することの大切さを訴えた。
慰霊のための外国訪問は、戦後六十年の二〇〇五年六月に米自治領サイパン島を訪れて以来。この際も出発時のあいさつで「先の大戦によって命を失っ たすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道をしのび、世界の平和を祈りたいと思います」と述べ、現在の日本が多くの犠牲の上に築かれていることを 常に心して歩みたいと話した。
天皇、皇后両陛下は九日、大きな戦闘のあった南部のペリリュー島を訪れ、日米それぞれの慰霊碑で戦没者を追悼するほか、島民との懇談などが予定されている。午後にパラオ国際空港から帰国の途に就き、羽田空港には夜に到着する。
【転載終了】