草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」前12

2020-01-23 07:03:36 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前12

㈡吉田屋のおかみさん⑦

「タマをいつか捕まえて川に放り込んでやる」
 そう言い捨てて、弥助は通りの向こうに消えていった。番頭はあの時の弥助の狂ったような目が忘れられなかった。あれから三年が経ったが、弥吉の姿を見かけることは無かった。たぶんあれは思い過ごしだったのだろうと、番頭のほうも安心していた。

 辰三親分が、もの影から吉田屋の様子を伺っていた弥助を見かけたのは、三日ほど前だった。親分の長年培った岡引きの勘がピンと来たのだろうか、それとも見るからに何かをやらかしそうな目つきをしていたからだろうか。どうも気になる奴だとは思ってはみたものの、すぐには誰だか思い出せないでいた。そうこうしているうちにタマの鼠退治だ。

「あれは不思議な猫だね」親分はそう言いながら話を続けた。
 暇を出された奉公先に何の用があるのだろうか。念のため下引きの三吉に弥助のことをちょいと調べさせた。

 一旦奉公先をしくじると次からはけちが付くようだ。何度か奉公に出たものの、長くは続かずに、すぐにお払い箱になってしまう。挙句の果てに今では仕事もせずに、親や兄弟に無心をしては賭場通いらしい。


「今頃になって仕返しかい、タマはそんな間抜けじゃないがね」
 番頭に弥助の話を聞いたおかみさんは、そうは言ったもののなんだか気になってしょうがなかった。
「だんなの耳にも入れておかないとね。今日は早仕舞いにしょう。番頭さんはもうお帰り、ご苦労だったね」
 戸締りの終わった店の中で、番頭が帰り支度を整えていると、戸を叩く音がした。
「はいはい、ただいま」
 番頭が板戸に作り付けられた臆病窓を開けて、恐々(こわごわ)と外を覗いて見ると顔見知りの小唄の師匠がいた。稽古が長引いて、今頃米が切れているのに気がついて買いに来たのだ。

「お弟子さんが多くって、商売繁盛。けっこうじゃございませんか」
 こんな時分に来て申し訳ないと恐縮する師匠に、番頭は窓越しに米を渡し代金を受け取った。
「ああ、ちょっと驚きましたね。あんな話のすぐ後だったので」
 番頭はもう一度戸締りを確かめると、潜り戸から帰っていった。おかみさんは潜り戸にしん張り棒をして、奥に入っていった。

「おかみさん、坊ちゃんたらあんまりですよ」
 おかみさんが炊事場に行くと、お関が泣きついてきた。
「あたしはね、おかみさん。おなつが憎くって叱っている訳じゃないのですよ。それなのに坊ちゃんときたら、あたしに暇を出すなんて言うのですよ。あんまりじゃありませんか」

「おいら大きくなったら、おなつと所帯を持つんだ」と言っていた信二は、この春から手習いに習いに通うようになった。同じ年頃の遊び相手も出来て、昼間はほとんど家に居ることはない。だからと言っておなつのことがどうでもよくなった訳ではない。
 
  今も些細なことでお関がおなつのことを叱っているのを聞きつけて「おいらが大きくなって、吉田屋を継いだら、お関には暇を出す」と言い出したのだ。いつもなら笑って聞き流すお関だったが、今日はどうしたわけか信二の言うことを真に受けてしまった。

「信二、子どものくせに何を言うの」
 おかみさんは、お関とにらみ合っている信二に声をかけた。
 
   おなつは相変わらずの骨太の骨格に、しっかりと肉の付いた体つきであった。しかしこのところ背丈と一緒に手足も伸びて来たのだろう。少し滑稽にさえ見えていた体つきが、多少は娘らしく見えるようになっていた。今着ている縞柄の着物も、もう膝小僧が出そうなくらい短くなってきた。今度の薮入りに着せるお仕着せは、大人の寸法に仕立てなければと、おかみさんは思った。

 おなつはぐずり始めたお里を抱き抱えると、チョンチョンと足で調子をとりながら小声で子守歌を歌っている。歌いながら足の調子に合わせて、お里の背中をポンポンと軽く叩いてあやしている。歌いながら困ったように顔を伏せている。

「信二がそんなこと言うから、おなつが困っているじゃないかい」
  騒ぎを聞きつけたお糸が、見かねて信二に声を掛けた。お糸の方はもう十三になろうというのにいっこうに大きくならない。二年前にこしらえた着物が、上げを少し変えただけで、まだ着られる。それでも、病弱だった頃に比べると驚くほどか顔色が良くなり、なんでも食べるようになって、性格もずいぶんと明るくなった。

 おかみさんは赤ん坊だったお里が大きくなり乳が離れたので、おなつにそろばんを仕込もうとしたことがあった。ところがおなつは本はあれだけ上手に読むのに、そろばんのほうはからっきしだった。

 これはちょいと眼鏡違いだったとおかみさんはがっかりした。それでも女中の仕事には困らないくらいの金勘定は出来るので、それはそれで構わないと思った。ところがそれを横で見ていたお糸が、自分にもそろばんを教えてくと言い出した。 

 おかみさんはおかみさんで、体も丈夫になったとことだし踊りや裁縫、お作法とひと通りのお稽古事をさせようと思っていた矢先のことだった。ためしに番頭が教えてみると、めきめきとその腕を挙げた。
「さすがおかみさんの子どもだけはある」
 この頃では番頭の自慢の種である。
「これは見込みがある」と、おかみさんが帳面の見方を教えるようになった。今も丁稚たちと一緒にそろばんの稽古をしているところだった。

「お関すまないね。子どものいうことだからね、かんべんしてやっておくれ」
 信二にも困ったものだと思いながら、眠りかけたお里を抱きかかえた。ところがおかみさん抱かれたとたん、お里の目がパッチリと開いて、わっと泣き出した。慌ててあやすとますます鳴き声が激しくなり、反り返って泣き出す始末だ。
「やれやれ参ったね、おなつには誰も敵わないね」
 元のようにおなつに抱かれたお里は、嘘のように泣き止んでスヤスヤと眠り始めた。

 お里はおなつの背中で大きくなったようなものだ、この頃ではだいぶ手が離れるようになったが、それでも夜寝るときはおなつが居ないと寝られない。

   手代の弥助の一件以来おかみさんは、帳場のこまごましたそろばん勘定は番頭にまかせるようになった。おかげでその分子どもたちや使用人に目が行くようになった。

「吉田屋さんは丁稚まで小ざっぱりとした身なりをしている。おかみさんの気配りが行き届いているからだろう」と、最近では評判になっている。正直なところおかみさんは、帳場でそろばんをはじいているほうが性に合っているのだが。それでも使用人や子どもの世話は、人任せにはしないでおこうと思っている。ところが肝心の子どもたちが、おなつでないと承知しないのだった。

「さあさあ、今夜はだんなも寄り合いで留守のことだし、早仕舞いとしようじゃないか。お関あんたも、おなつをつれて湯屋に行といで。今夜はゆっくりお湯に浸かるといいよ」
「じゃ申し訳ありませんがそうさせていただきます」
 湯屋と聞いてお関の機嫌が良くなった。いつもは仕舞い湯に慌てて駆け込んでいるので、「今夜はゆっくり湯船に浸かれる」と思ったのだろうか。

「ああ、行といで。それからあんたたちも、今日はこれくらいにしてもうおやすみ」
 おかみさんはお糸と一緒にそろばんの稽古をしている、丁稚たちにも声を掛けた。 お糸はちょっと不満そうな顔をしていたが、丁稚たちは嬉しそうに片付けを始めた。その横で信二はまだ拳をにぎり閉めたまま、お関を睨みつけている。

「信二もいいかげんにして、もうお休み。まったく手習いから帰るとすぐに遊びに行ってしまうから、もう眠くなっちまって。しょうがないね。少しは手習いのおさらいでもすりゃぁいいものを。お関に謝りなさいよ、これ信二」
 信二はそれでもまだそのままの格好で、動こうとはしない。

「おっかさん、信二ったら寝ているよ」
 信二の顔を覗き込んだお糸が、呆れたように言った。
「おやまぁ、生意気なこと言ってもまだ子どもよ。お関、勘弁してやっておくれ」
「いえ、あたしも大人気無いことを申しまして。あらまあ、坊ちゃんたら怒りながら眠っちゃっていますよ」

 お関が信二を抱えて寝床に運ぼうとすると、信二は眠りながらも固くにぎった拳を振り回した。
「しょうがないね、おなつ頼むよ」
おなつはぐっすりと眠ったお里をおかみさんに渡すと、お関に抱かれている信二を受け止めた。とたんに信二はおとなしくなった。

「坊ちゃん本気ですよ、おかみさん」
 信二を抱えて寝床に運ぶおなつの後姿を見ながら、お関は小声でおかみさんに言った。
「冗談じゃないよ。おなつは子どもに好かれるだけだよ」
そうは言ったものの、ちょっと気になるおかみさんだった。

「おい、今日はやけに早仕舞いだな」
お関とおなつが湯屋に行こうとしていると、だんなが帰ってきた。
「おや、お前さんこそ早いじゃありませんか」

「今夜は遅くなる」と言って、米問屋の寄り合いに出かけただんなが、意外に早く帰ってきたので、おかみさんは驚いてたようだ。
「ああ、もう歳だね。急に酔いが回っちゃって」
 かなり酔ったのだろう、だんなは台所の上がり口に腰を下ろした。飲みすぎたのだろう、首から顔の辺りが真っ赤で、吐く息も酒臭い。両手を後ろについて上を向いて、フウフウと息をしている。

「だんなさん」
 おなつの差し出した冷や水を、ゴクゴクと旨そうに飲み干した。
「ああ旨かった、気が利くねぇおなつは」
 だんなはそう言うと、そのまま横になって眠り始めた。
「ちょいとお前さん、駄目じゃないかい、そんなところで寝ちゃ」
 おかみさんはだんなを寝床に連れて行こうとするのだが、六尺の大男を一人では抱えきれずにいた。
「おかみさん、行きますよ」
 おなつは押しつぶされそうになっているおかみさんに声を掛けると、酔いつぶれてしまっただんなの肩に手を回してひょいと抱えあげた。

「おや、おなつかい。腰が決まっているね。それに比べて店の者たち駄目だネ。腕の力だけで米俵を持ち上げよとするから、フラフラしちまうんだ。お前みたいに腰で抱える奴は居やしない。おなつ、お前は明日から米蔵でわたしと一緒に俵運びをしようじゃないか。わたしが一人前の人足に育ててやる。嬉しいねぇやっとわたしの跡継ぎが見つかったよ…」

「お前さん、しっかりしてくださいよ。何が後継ぎですか。ほらほら、もうしかたないね」
 三人がかりで、やっと寝床に運んだころには、もう仕舞い湯の時刻になっていた。
「すまないね、早仕舞いのはずだったのに」
おかみさんは、慌てて湯屋に向う二人の背中越しに声を掛けた。

「おやタマじゃないかい。おなつは今しがた風呂に行ったところだよ。そうかいお待ち、おまんまが欲しいのかい」
 ふと気がつくとタマがいた。このところ生まれた仔猫に付ききりで、めったに姿を見せなかったのだが。もう仔猫たちを連れて戻ってくる日も近いのだろう。おかみさんは残りものの冷や飯に味噌汁を掛けて、タマに出してやった。

―おなつも気が利くようになったね。
 そう思ったのは、タマに餌をやろうと水屋の中を探したときだった。底まで綺麗に洗われた釜や鍋はすでに伏せられて、その横のザルの中には研ぎ終わった米が入っており、上には濡れふきんが掛けられていた。

 おなつのことだからタマの飯の分くらいは取ってあるはずと、水屋を開けてみると、きっちりタマの分の飯と汁が入っていた。

 お関も今ではおなつを頼りにするようになっていた。奉公に来た当初は何も出来ずに突っ立ってばかりいて、いつもお関に叱られていたのに。この頃では気働きが出来るようになっていた。これもお関が厳しく仕込んだおかげだろう。今はまだお関が怖くて仕方ないようだが、いつかお関に感謝するときが来るだろう。  

 タマは仔猫のところに行ったのだろう。おかみさんに向かって一声静かに鳴くと、すぐに姿が見えなくなってしまった。空っぽになったタマの餌皿を見ながら、おかみさんは番頭から託った飴をおなつに渡しそこなったことを思い出した。

─さてどうしたものか。
 明日になったら渡してやろう思いながら、考えこむおかみさんであった。


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