うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

今日はバレンタインデー…というより「あの日」の翌日というイメージが…貰えないから言う訳じゃないが。

2005-02-14 00:36:48 | 雑記
タイトルにある「あの日」というのは、陰気な話で恐縮だが、今から26年前である1979年(昭和54年)に私の母方の祖母が急逝した日である。若い頃に結核を患うなど病弱だった祖母は、数日前から風邪を引いて自宅で寝込んでいたが、「あの日」すなわち2月13日の夕方に容態が急変し、57年の生涯を閉じた。
私は、生きている祖母を全く覚えていない。その代わり、この祖母の葬儀にまつわる色々なことは強烈に覚えている。今の私が思い出せる最古の記憶だ。当時はまだ3歳だったというのに、よほど衝撃的だったのだろう。
まず、この時にガムが嫌いになった。弔問客か親類か、誰からかは定かでないが、ロッテクールミントガムをもらった。とりあえず噛んでみたところ、口いっぱいにミント独特の香りと味が広がり…泣いた。3歳児にミントの味を理解するのはまだ早かったらしい。以来、ガム及びミント系の味がするものは舌が全く受け付けない。基本的には口の中がスーッとする系統のものが苦手なようで、コーラやサイダーといった炭酸飲料は嫌いである。飲めるのは、ビールやサワーとかの酒類ぐらいだ。
次に、線香の香りが好きになった。何だか心が落ち着くのだ。3歳にして一体何に目覚めてしまったのか。後に、お寺付属の幼稚園に通うことになるのだが、園長先生である住職が色々お話をしてくれる時間が好きだった。その時間はお寺の境内の阿弥陀堂でやるからである。畳の上に正座するのは苦手だった(今もそう)が、線香の香りがする阿弥陀堂で、園長先生の話を聞きながら仏像や不思議な仏具の数々を眺めているのがすごく楽しかった。
続いて「人の死」に関心を持つようになった。3歳にして恐ろしいガキである。この傾向は、先述の幼稚園で仏教的教育を受けたことで一層強まった。現在でも、新聞で一番最初に目を通すのはおくやみの欄であり、葬儀式場を通りかかると「一体どんな人が亡くなったのか。どうして死んでしまったのか。どんな人生を送った人だったのか」という関心が強く働き、中を覗きたくなってしまうから困ったものだ。
霊柩車を見ても血が騒ぐ。私にとって、祖母の葬儀で見た霊柩車は普段見たことのないゴージャスな車であり、不謹慎を承知で書くと「カッコよかった」のだ。レゴでや粘土細工で霊柩車を作ったことのあるガキなど、日本中どこを探しても私ぐらいなものだろう。
そして、一番強烈だったのは出棺前の最後のお別れである。棺の蓋を開けて、花で祖母の顔以外を覆い尽くす。ここで父方の祖父が私を抱き上げた。これで本当に最後だから、祖母の顔をよく見せようとして祖父は私を棺の中にゆっくりと近づけてくれたのだが、なんと私は「一緒に棺に入れられて、焼かれてしまう」と勘違いし、激しく泣きわめいたのだった。周囲の人々は「孫が、おばあちゃんが亡くなって悲しんでいる」と思ったかも知れないが、単に恐怖のあまり泣いたのだ。しかし、3歳児が「人間は死んだら火葬される」なんて知識をいつどこで仕入れたのか、当の私には記憶がない。全くもって謎である。
でも、あの時の祖父の行為は結果的に正しかった。死の恐怖と引き替えに、花に囲まれて安らかに眠っている祖母の顔を今でも鮮明に記憶しているのだ。ただし、祖母の頭側から見たため、上下が逆なのだが。
コメント (2)
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