うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

シビビ~ン・ラプソディ

2005-02-20 12:22:50 | 雑記
昨晩、突然浴室のガス給湯器が故障した。ボタンを押しても全く反応しない。分解してやろうかと思ったが、素人がヘタに手を出して、感電だのガス爆発だので痛い目に遭うのもイヤなのでやめた。

感電は、一回やったことがある。去年、横浜の病院で病室備え付けのテレビカードリーダーが故障して修理に行ったのだが、壁から一旦リーダーを取り外し、一通りの修理を終えて再び壁にネジで取り付けようとした時のことだ。私は手先が不器用で、細かい作業をするときは必ずと言っていいほど手がプルプル震える。この時も、ネジとネジ穴が合うように、左手で慎重にリーダーを支えながらドライバーでネジを入れていたのだが、右手がプルプルする。「チェッ、まただよ~」と思っていたら、右手のプルプルがやがてカタカタに変わり、しまいにはガタガタと上下に大揺れしはじめ、右腕先から全体に「シビビ~ン!」としびれが来た。ここで初めて「ワチャ!これただの震えと違う!感電感電感電!!」と気がついた。慌ててドライバーから手を離そうとしたが、ピッタリくっついて離れない。うわ、どうしよう!?
人間、死ぬ間際には今まで送ってきた人生が走馬燈のように脳裏を駆け巡ると言うが、私の脳裏にも同じことが起こった。今まであったあらゆる出来事が次々とフラッシュバックする。最初は慌てたが「このまま死んじゃうのかも。ま、それはそれで運命だろうだからしょうがないか」なんて、妙に落ち着いた心境に至ったところで、ドライバーを持った手がフッと脱力し、離れた。助かったのだ。「現実世界」にやっとのこと引き戻され、冷や汗が出た。そして、あんな状態で「これも運命だろうから」なんて悟っている自分にビックリしたのである。
後から聞いたら、死ぬような電圧は流れていなかったのだが、あの時は本当に「もうダメか」と思った。ほんの数秒間で、病室にいた人は誰も感電に気付かなかったぐらいなのに、ものすごく長い時間に感じた。ある意味神々しささえあった「臨死体験」である。
臨死体験から悟りを得て宗教心に目覚めたという人は結構多いらしい。私も、感電して悟りを得る「感電教」でも開いて一儲けしたいところだが、死傷者が多数出てとっ捕まるのがオチだろう。

それはさておき、給湯器の故障は困った。しばらくは、近所の銭湯にでも行くしかなさそうだ。悟りで心は洗えても、体は洗えないのである。
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先輩、後輩。

2005-02-19 18:02:02 | 雑記
原田→本仮屋 朝の顔バトンタッチ
(スポニチHPより)

本仮屋ユイカといえば、映画「スウィングガールズ」やドラマ「3年B組金八先生(第6シリーズ)」にも出ている最近注目の女優である。珍しい名前ということもあって記憶の隅に残っていたのだが、この前町内の回覧板に挟まっていた中学校の機関紙を読んだところ、なんと後輩であることが判明した。世の中とは狭いものである。
母校出身の有名人がいると、知りあいでも何でもないのに、同士を見つけたようでちょっと嬉しい。私のようなあまり有名ではない学校出身の者にとってはなおさらのことである。いや、むしろ有名な学校でないからこそ嬉しいのかも知れない。

私のいた高校は、大して有名でない割に結構芸能人を輩出している。EPO渡辺美里などが出世頭だ。ググってみたら、ちょっと古いが「『ミルクホール』へ行ってきました」という記事を発見した。「MILK HALLでおあいしましょう」というタイトルの歌まであるという。まだあったのか、あのミルクホール。「1度は入ってみたい」と思いながらも結局1度も入らなかったのだが(爆)、あの古き良き佇まいは懐かしい思い出である。その他には、元アイドルグループ「ribbon」の松野有里巳が、私と入れ違いで卒業している。単なる偶然だとは思うが、歌手系統に強いらしい。

大学の先輩には故・荒井注がいる。コメディアンがなぜあんなカタい大学を出ているのか、あまりにも意外な取り合わせである。そしてもう一人、我々の世代(昭和50年前後生まれ)なら小学校時代にきっと学校のテレビで見たであろうNHK教育テレビ「たんけんぼくのまち」の「チョーさん」こと長島雄一も先輩だったことがついさっき判明した。あのテーマソングは「♪知らないことが~、おいでおい~でしてる~、でかけよう~口笛吹いてさ~ びっくりしようよあららのら?調べて納得、うん、そうか!おもしろ地図を広げよう~、探検~発見~ぼくのまち~!」と、今でもソラで歌えるぐらいだ。まさかあのチョーさんが先輩だったとは…世間はつくづく狭い。



肝心な人を一人忘れていた。ある意味国民的な大スターを。



うっかり八兵衛こと高橋元太郎も、何を隠そう高校の大先輩である。世間は、本当に、本当に狭い。
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超偏食的活字中毒患者のほざき

2005-02-18 21:44:25 | 雑記
「読書が趣味だ、なんてことを言ってちゃいけないよ」
大学時代、当時の文学部長だったヤマユキ教授(故人)が口にした言葉である。要するに「文学部の人間たる者、本を読むなんて当たり前の行為であり、趣味のレベルでとどめていてはいけない」ということだ。だから、大学在学中は読書が趣味だとはあまり言わないようにしていた。もっとも、趣味が読書といっても、本には純文学からエロ本まで色々な種類があるわけで、読書家だから頭が良いとかエライとかいうものではない。私を知っている人間なら、そのことをよくわかっているだろう。

私は長文を読むのが苦手である。途中で飽きてしまうのだ。そして、近代の純文学が苦手である。文脈は理解できても、読んでいてどうも肌に合わないのだ。まだ古典を読んでいた方が個人的には面白い。こんなのでよくも文学部に行ったものだと我ながら呆れかえる(それでも、法学部とか経済学部とかよりは面白そうだと思ったのだ)。
評論文アレルギーでもある。高校時代、特に泣かされたのが中村真一郎(故人)の書いた評論文だ。とにかく何を言っているのかさっぱり理解できなかった。現代文は得意科目だったが、中村氏の作品が出てくる時に限っては頭痛がしたものである。大学入試の小論文の題材にまで出てきたときには泣きたくなった。やけっぱちで解答用紙を埋めたが、文意が理解できずにまともな小論文など書けるはずがなく、その大学に落ちたのは言うまでもない。

こんな調子だから、私が読むジャンルはかなり範囲が狭い。長い作品をじっくり読むより、短い作品をサクサク読んでいく方が好きだ。最初に小説を読むようになったのはミステリーで、昨年亡くなった由良三郎の「運命交響曲殺人事件」であった(これは長編だが)。それからしばらくミステリーを好んで読んでいたが、中学校の頃にはショートショートの大家・星新一や「マンボウ」シリーズでおなじみの北杜夫の作品にハマりだす。高校では泉麻人清水義範が好きになり、以降、山下洋輔土屋賢二阿川佐和子など、笑いのある軽いエッセイにドップリ浸かって現在に至る。

面白いのは、ある作家にハマっている時期には、書く文章がその作家の文体と似てくるということだ。中学校の卒業記念文集「十五年後の私」には、「テレポーテーションの実験台になる」という、ベタベタに星新一ナイズドされた作文を書いていた。今読み返すと、当時の意気込みはわからんでもないが、ものすごく恥ずかしい。
以前書いた「世界平和について考える。(土屋賢二〔※注〕テイストで書いてみました)」も、ちょうどその時土屋氏のエッセイを読んでいたので実験的文章としてやってみたのだが、正直駄作であった。これまた恥ずかしい!
ブログはある意味毎日エッセイを書いているようなものだ。毎日不安定な文体で試行錯誤しているが、いずれは「これダ!」というような自分なりのスタイルを確立できれば、と思う。そのためにも毎日書いて書いて書きまくり、他の人の本やブログをたくさん読んで、お勉強だ!
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歯医者の言う「痛かったら言って下さい」とは「痛くてもやめない」という意味である。

2005-02-17 20:14:16 | 雑記
昔から、体も弱かったが歯も弱かったのである。以前「私のかかりつけ」で書いたように、普通の医者に行くのは好きだったが、歯医者は大の苦手であった。
ガキの頃、かかりつけだった歯科医院は商店街の途中を曲がったところにあったのだが、その角を曲がった途端に状況を察知して泣きわめき、診療台に上がれば大暴れして体にネットをかぶせられる始末で、医師側にしてみればさぞやりにくいガキだったことだろう。そのくせ、診療が終わるや否やケロッとして、家に帰って祖母相手に歯医者さんごっこをしては「ネットにしますか?」なんてぬけぬけとほざいていたのだ。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはまさにこのことを言うのだろう。
私は幼稚園にして入れ歯を経験している。上の前歯4本を相次いで虫歯で失い、使う羽目になったのだ。運動会でかけっこをした時、口を開けながら走っていたためか、入れ歯が外れて地面に落ちてしまい、慌てて拾いに行っている間にドベ(=ビリ)になったこともある。この頃から私の若年寄りぶりはその片鱗を見せていたようだ。

その後の永久歯の生え方が悪く、上下の噛み合わせが逆になってしまった。そこで、中学生の頃に矯正をすることになる。歯を上下2本ずつ抜いて移動スペースを確保し、全ての歯に器具を取り付けてワイヤーで締めることで歯を少しずつ動かしていくという…ああ、書いただけでもあの時を思い出して口のあたりが何だかムズムズする。事実、毎月1回歯科医院に通ってワイヤーを締めてもらうのだが、3日間は痛くて噛むことができず辛かった。また、器具に食べかすが付着しやすいので歯磨きは人一倍時間をかけてやる必要があった。取りづらいところに食べかすがひっついていることが多く、非常に苦労したものである。もっとも、丁寧に磨いていたせいか、長い間虫歯がなかったのは良かったが。

矯正から十数年間歯医者とは縁がなく、一昨年親知らずの抜歯で久々に歯科医院へ行ったが、昔ほど恐怖感がないことに気がついた。歯医者と言えば、診察室に入れば独特の薬品の匂いがして、それだけでも背筋がゾクッとしたものだが、そこの歯科医院はまるでそんな匂いがしない。診療台のデザインも洗練されていて、金属的で冷たいイメージがないのが良かった。もっとも、ドリル(ハンドピース)のあの「チュイーン」という音は、いくつになっても慣れないが。それでも最近は、昔に比べてドリルの音もより小さくなったというし、うまくするとドリルなしで治療なんてこともできるらしい。レーザー光線を使って治療している歯科医院も増えるなど、医学の進歩はめざましい。私の妹のように大病院で全身麻酔で親知らず4本摘出、という大がかりなこともたまにはあるが、基本的には患者の苦痛は昔より確実に軽減されているようで、めでたい限りである。まぁ、一番いいのは普段から歯のケアを怠らず、虫歯を作らないということなのだが。

最後に、一つ。東横線に乗っていると広告で必ず目にするのがここ、「顎関節回復センター」。HPは何だか爽やかに作ってあるが、車内のポスター(大体ドア付近の上部にあります)は、はっきり言って怖い。「全身の不調は顎関節症による体の捻れから来るもので、歯だけ治療してもダメ。そのままにしておくとアナタは大変なことに…」というような意味のことが、独特の文体で迫ってきて不安感を煽り立てる。うつ病や自律神経失調症も顎関節症が関わっている!とまで言うのだ。身に覚えがあるから余計にドキッとする。私は歯の矯正はしたが、昔から左顎だけがコキコキ鳴るのだ。親知らずを抜いてくれた先生には「この程度なら特に問題はない」とは言われたが、顎関節が普通ではないのは確かである。一度診てもらった方がいいのだろうか。でも、行ったら何をされるのかわからなくて怖い。もし、この医院にかかったことがある人が読者の方でいらっしゃったら、情報を下さい。
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戦え、スーパー戦隊!永遠に…!Part3

2005-02-16 17:29:37 | 雑記
先日、スーパー戦隊シリーズについて記事を2本(「戦え、スーパー戦隊!永遠に…!」・「戦え、スーパー戦隊!永遠に…!Part2」)書いたが、おととい本屋で「東映ヒーローMAX vol.12」「東映ヒロインMAX vol.1」という2冊の本を発見した。実にタイムリーで、さっそく立ち読みしてみた。そこに、2冊にまたがる形で歴代のJAC(現・JAE)出身ヒロインたちによる座談会が掲載されていたのだが、全員が全員、誰が誰だかさっぱりわからないほど、当時と見た目が変わってしまっていて、呆然とした。出席したのは「超電子バイオマン」の2代目イエロー・田中澄子氏、「電撃戦隊チェンジマン」のピンク(フェニックス)・大石麻衣氏、「超新星フラッシュマン」のピンク・吉田真弓氏、そして、これは私は見たことがないのだが「時空戦士スピルバン」のダイアナ・澄川真琴氏の4人。当時の写真も併せて掲載されているのだが、見比べても近影とさっぱり結びつかないのだ。確かに、放映から20年以上は経っており、皆それなりに美しい中年女性になっていたわけだが、昔しか知らない人間からすれば、現在の彼女たちの姿はかなり衝撃的である。興味のある方は、是非本屋で立ち読みするなり買うなりしてみていただきたい。

いつも見に行っているgazo-boxという掲示板の特撮板に、早くも「マジレンジャー」関連の動画がアップロードされていたが、出た!マジマザーの変身シーン!まさに「マジかよ…!?」てな具合である。マジマザー役の渡辺梓、メチャメチャ美しく、そしてカッコイイ!あえて白状しますが、一瞬惚れました(笑)。彼女を起用したのはきっと、視聴者である子供たちのお父さんをも番組に引き込もうとした、制作側の作戦に違いない。しかし、梓さんは今年でまだ36歳である。それが5児の母でもって一番上の子は24歳という設定…本人の年齢は一体どういう設定になってるんだ!?あ、魔法使いだから魔力で若さを保ってると考えればいいのか。納得。
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うえぽん的二日酔い強引治療法

2005-02-15 18:43:45 | 雑記
「酒は百薬の長」とは言うものの、それはあくまで適量を守って飲んだ場合に限られる。しかし、ひとたび酒に酔ってしまえば適量もへったくれもなくグビグビ飲んでしまうのはよくある話だ。それに、つきあいで断れずに飲んでしまう場合だって少なくはない。
かくて、ふと我に返れば時既に遅く、胃袋からは「ウチだってボランティアでやってんじゃねんだヨ!そんなに来たってもう受け付けられないんだから、帰ぇった帰ぇった」と反乱を起こされ、脳からは「キサマ、ワシがさっきから『これ以上はムリや』っちゅうてサイン出しとんのに、無視してガンガン飲みやがってからに。もう知らんわ、これでも食らえ!」と頭痛とめまいのダブルパンチを見舞われ、悔恨の朝を迎えるのである。あれほど惨めさを感じる時間というものはそうそうない。
私が二日酔いするのは、大概は向こうがガンガン飲ませてきて、断り切れずについムリをするというのがパターンだ。最近はそういうこともあまりなくなったが、自分の適量がわからなかった20代前半には何度か辛く苦しい思いをしている。その経験の中で、私はある二日酔い治療法を発見した。

あれは、大学3年夏のゼミ合宿のことだった。合宿自体はつつがなく行程が進み、問題の打ち上げである。我がアオチューゼミは酒豪が揃っていた。特に、落語研究会の連中4人は「毎日部室で酒盛りをしている」と言われるぐらいで、男子も女子もザルだった。私はその中の振込亭大吉(ふりこみていだいきち)という男になぜか目をつけられ「副ゼミ長~飲めよ飲めよ~!」とガンガン酒を注がれ、断り切れずに飲んでいたらすっかり悪酔いしてしまった。打ち上げが終了するや、私は部屋に戻って横になり、そのまま眠ってしまったのだが、翌朝目が覚めたら起き上がることすらままならないほど状態は悪化していた。世界がぐるぐる回る。頭が痛い。そして気持ちが悪い。今日は東京に帰る日だ。このままでは自腹を切ってもう一晩休ませてもらわねばならないかも知れない。最悪それは避けたいが、いかんせん動けない。困った。一体どうしたものか…。
耐え難い地獄の苦しみの中で、ふと、あることを思い出した。私は小さい頃から乗り物に酔いやすいタチで、長距離の旅行時には必ずトラベルミンを携行していた。そして、今回の合宿(栃木県・福渡〔ふくわた〕温泉)にも、いつもの旅行と同じくトラベルミンを持ってきていたことを。
「乗り物酔いに効くんだから、ひょっとして二日酔いにだって効くんじゃないか…?どっちも『酔い』に変わりはないんだし…」
私は枕元にあったバッグをまさぐりトラベルミンを取り出して、這うように洗面所に行き、必死の思いでその錠剤を飲み込んだ。
再びしばらく横になっていると、体が起こせるようになった。頭痛が弱まっている。吐き気も徐々に引いている。さっきより確実に状況が変わった。他の連中は既に大広間へ朝食に行っている。私も着替えてフラフラとした足取りで大広間へと向かい、朝食には一切手をつけず、お茶だけをちびちびと飲んだ。歩けたこと、そして飲み物を受け付けただけでも大進歩だ。そして、再び体を休めていたら、旅館を発つ頃にはかなり調子が戻り、帰りの電車では普通にゼミの連中と談笑していた。朝の惨状がウソのようである。自分でもビックリした。これは、まさしくトラベルミンの効き目だったと言うしかないだろう。
社会人になって、再びピンチに陥ったことがある。宴会で上司からガンガン飲まされ、這々の体(ほうほうのてい)で帰りのタクシーに乗ったが、乗るなり横になってビニール袋を握りしめている状態である。タクシーの運転手もいつ「時限爆弾」が爆発するか、冷や汗を流していたに違いない。幸い、車内では爆発せずに自宅のトイレで無事「処理」されたが、酔いはまだかなり残っている。この状態では間違いなく二日酔いになりそうだが、翌日は早番で5時起きだ。困った私は再びトラベルミンの力を借りた。すると、またしても翌朝、状態が回復しており大いに助かったのだった。

以降、ムチャ飲みするようなことはなくなり、乗り物酔い体質もかなり改善されたため、トラベルミンの活躍の機会は減ったが、飛行機や船に乗る時は不安を静める目的もあって飲んでいる。現在でも、我が家の常備薬なのだ。
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今日はバレンタインデー…というより「あの日」の翌日というイメージが…貰えないから言う訳じゃないが。

2005-02-14 00:36:48 | 雑記
タイトルにある「あの日」というのは、陰気な話で恐縮だが、今から26年前である1979年(昭和54年)に私の母方の祖母が急逝した日である。若い頃に結核を患うなど病弱だった祖母は、数日前から風邪を引いて自宅で寝込んでいたが、「あの日」すなわち2月13日の夕方に容態が急変し、57年の生涯を閉じた。
私は、生きている祖母を全く覚えていない。その代わり、この祖母の葬儀にまつわる色々なことは強烈に覚えている。今の私が思い出せる最古の記憶だ。当時はまだ3歳だったというのに、よほど衝撃的だったのだろう。
まず、この時にガムが嫌いになった。弔問客か親類か、誰からかは定かでないが、ロッテクールミントガムをもらった。とりあえず噛んでみたところ、口いっぱいにミント独特の香りと味が広がり…泣いた。3歳児にミントの味を理解するのはまだ早かったらしい。以来、ガム及びミント系の味がするものは舌が全く受け付けない。基本的には口の中がスーッとする系統のものが苦手なようで、コーラやサイダーといった炭酸飲料は嫌いである。飲めるのは、ビールやサワーとかの酒類ぐらいだ。
次に、線香の香りが好きになった。何だか心が落ち着くのだ。3歳にして一体何に目覚めてしまったのか。後に、お寺付属の幼稚園に通うことになるのだが、園長先生である住職が色々お話をしてくれる時間が好きだった。その時間はお寺の境内の阿弥陀堂でやるからである。畳の上に正座するのは苦手だった(今もそう)が、線香の香りがする阿弥陀堂で、園長先生の話を聞きながら仏像や不思議な仏具の数々を眺めているのがすごく楽しかった。
続いて「人の死」に関心を持つようになった。3歳にして恐ろしいガキである。この傾向は、先述の幼稚園で仏教的教育を受けたことで一層強まった。現在でも、新聞で一番最初に目を通すのはおくやみの欄であり、葬儀式場を通りかかると「一体どんな人が亡くなったのか。どうして死んでしまったのか。どんな人生を送った人だったのか」という関心が強く働き、中を覗きたくなってしまうから困ったものだ。
霊柩車を見ても血が騒ぐ。私にとって、祖母の葬儀で見た霊柩車は普段見たことのないゴージャスな車であり、不謹慎を承知で書くと「カッコよかった」のだ。レゴでや粘土細工で霊柩車を作ったことのあるガキなど、日本中どこを探しても私ぐらいなものだろう。
そして、一番強烈だったのは出棺前の最後のお別れである。棺の蓋を開けて、花で祖母の顔以外を覆い尽くす。ここで父方の祖父が私を抱き上げた。これで本当に最後だから、祖母の顔をよく見せようとして祖父は私を棺の中にゆっくりと近づけてくれたのだが、なんと私は「一緒に棺に入れられて、焼かれてしまう」と勘違いし、激しく泣きわめいたのだった。周囲の人々は「孫が、おばあちゃんが亡くなって悲しんでいる」と思ったかも知れないが、単に恐怖のあまり泣いたのだ。しかし、3歳児が「人間は死んだら火葬される」なんて知識をいつどこで仕入れたのか、当の私には記憶がない。全くもって謎である。
でも、あの時の祖父の行為は結果的に正しかった。死の恐怖と引き替えに、花に囲まれて安らかに眠っている祖母の顔を今でも鮮明に記憶しているのだ。ただし、祖母の頭側から見たため、上下が逆なのだが。
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お知らせ

2005-02-13 09:37:04 | 表へ出ろ
昨日、無事京都から戻りました。旅の詳細は、京都からケータイで送った各記事に「後日談」として付け足していきますので、どうぞご覧下さい。
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京都駅八条口バス乗り場(後日談あり)

2005-02-12 17:48:25 | 表へ出ろ
これから、大阪(伊丹)空港まで行って、飛行機で東京に帰ります。

後日談
バスは途中で渋滞に2回ほど巻き込またため20分ほど遅れたが、最初から時間に余裕を持って行動するのがモットーのうえぽん一族には全く影響なし。むしろ、予定通りに着いていたら約1時間半も空港でどうやって時間をつぶせというのか。
おみやげを物色し、20時20分発のANA040便で帰京する。機内放送サービスの11チャンネルで、みおさんの大好きなGacktの「Love Letter From Gackt」という番組をやっていて、思わずニヤリ。曲だけではなくちゃんとトークも入っている。ただ、東京-大阪間だと飛行時間が1時間足らずと短かかった上(番組は60分)、途中で気流が乱れたりするたびにフライトアテンダントからの放送がちょくちょく割り込み、あまりじっくり聴けなかったのがちと残念。

飛行機や新幹線で遠くを旅するといつも「機体(車体)は本当は動いていなくて、外をうまく隠して『セット』を組み替えているだけなんじゃないか?それどころか、実は世界全体が『虚像』で、自分のの周りだけうまく辻褄が合うように造られているんじゃないか?」というような妙な錯覚を覚えるのは、私だけなんだろうか。昔、そんな内容のショートショートを読んで「あれ、そんな錯覚、オレも感じるなぁ…」と意識して以来、頭の中から離れなくなってしまった。変な話だ。
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清水寺(後日談あり)

2005-02-12 16:14:47 | 表へ出ろ
舞台から飛び降りようと思いましたが、足がすくんで、ムリでした。

後日談
長楽寺のあと、豊臣秀吉の妻・ねね終焉の地である圓徳院を拝観し、高台寺の前を通って、清水寺方面へと抜ける。そこにある高台寺公園で高い木の枝を切る作業をしていたのだが、やり方がすごかった。なんとクレーンで作業員をつり上げて(当然、命綱をつけてます)枝の太い部分のところに下ろし、作業をさせていたのだ。ケータイで写真を撮ろうと思ったが、作業員が葉っぱに隠れてしまい、上手く撮れなかった。残念!
さて有名な三年坂を通り、今回の旅行最後のスポット、清水寺である。やはりこのあたりは有名スポットだけに人の数が違う。
実は清水寺は初めてだった私。「清水の舞台」から飛び降りても死ぬ確率は低いし、そんなに高くないという話を聞いていたが、いざ身を乗り出して下を眺めたら「これだけありゃ十分死ねるわ!」というぐらい高く感じた。名物「音羽の滝」で水を飲んでみたかったが、ズラーッと人が並んでいて時間がかかりそうだったので今回は断念。「旅ってのは少しぐらい心残りがあった方がまた次来ようって気持ちが強くなるんだい!悔しくなんかないもんね!」と負け惜しみを言ってみる。
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