オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

コピー文化の警鐘

2007年07月26日 | Weblog

世の中あっちもこっちもコピーばかりである。

 あまりにもコピーに満ちあふれているので、オリジナルには厳正な断り書きが必要になるし、コピーしたものにも著作権は私にありますよと言う表示をしなければならない。コピー技術もひとつの芸術であるが、オリジナルに忠実にコピーしオリジナルと寸分も違わないと言うことは、ほとんどオリジナルと同じことである。しかし、それでは許されないので、オリジナルであることの証明する「鑑定士」なる職業が登場する。

オリジナルであることを鑑定するのと芸術を鑑賞するのは観点が別である。

 オリジナルであろうと、コピーであろうと、鑑賞する者にとっては関係ない。いい物はいいのであり、純粋に鑑賞することを楽しむ人には作家やましてや値段なんて全く関係ない。ところが、作者や値段を考慮に入れて鑑賞するとどういう訳か有名な作者の物や高価な物のほうがすばらしく見えてしまうようだ。私に言わせるとコピーがオリジナルに勝るものもあると思う。いくらオリジナルとは言え完璧ではないはずである。あとからこの不完全な部分を補正したコピーはオリジナルを越えることができる。

コピーが毛嫌いされるのは、偽物や贋作と同一視されるからである。

 本物とそっくりに作って、これを本物ですと嘘をついて商売することは許されない。これは人を騙していることになる。詐欺である。しかし、本物とそっくりに作って、場合によっては本物以上の作品を作って「これは私の作品です。」と売りに出したらこれは詐欺ではない。ただし、オリジナルの作者には事前に許可を取り、売り上げの一部はオリジナルの使用料として支払わなければならないだろう。コピーすることが全て悪いと決めつけてしまうのはどうかと思う。正々堂々と手順を踏んでコピーしたらいいと思うし、そのための取り決めを明確にすべきである。

「著作権」という概念は「金儲け」から生じている。

 「金儲け」にならなければ「著作権」は生じないし、「金儲け」にからんで「著作権」を主張する人が出てくるし、著作権の無断使用が生じる。考えてみれば、自分が苦労して作り上げたものを他人が勝手に拝借して、なおかつこれで金儲けを企む者がいれば著作者としては許せないし、自分の著作物がなければ商売はできないのであり、儲けの一部でもよこせと言うことになる。しかし、金儲けを企む人がいなかったら最初から商売は成り立たなかったとも言える。最初に作った著作者とこれを商売にしようと企む人は商行為上は同等ではないかと思う。そして、「著作権」は商売をする人に売ってしまうのが本筋だと思う。当然商売にしたくなかったら売らなくてもいいのである。

「著作権」を小出しにしていつまでも主張するからおかしくなる。

 商売人は「金儲け」が期待できれば高額で買い取るし、そうでなければ二束三文である。二束三文が将来「金儲け」につながることもあるかも知れない。いずれにしても最初の段階で「著作権」を売り渡すもしくは買い取るのが望ましい。著作者も安ければ売らなくていいし、高くなるまで待てばいいのである。商売にするのが嫌だったら永久に売らなければいいし、複製・加工をしない条件で売ることもできる。売ってしまったからには、どのように複製しようと加工しようと著作者には関係ない。それでも著作権が守られるというから話がややこしくなる。

本来、コピーは本物を越えるのである。

 本物と寸分も違わないコピーはあまり価値がない。形だけを真似しただけであり、これでは本物を越えることはできない。ところが、この頃のコピーは本物と寸分も違わないコピーばかりである。コピーにはコピーを作る人がいる。このコピーを作る人の個性が全く感じられないのである。ただの作業としてのコピーをしているだけである。本物の持つすばらしさを全て理解する努力をし、その作品の持つ「センス」や「イメージ」や「エネルギー」や「思想」や「主張」や「気」などを感じ取って、これを自分のものとして、さらに自分の表現方法で新たな作品として作り上げるのが本当の本物を越えるコピーではないかと思う。

本物を越えるコピーはもはや新たな著作物である。

 堂々と自分の名前で発表すればいいと思う。ただし、本物の発想を借用したことは宣言しなければならないし、事前に本物の著作者の了解を取らなければならないと思う。これが許されない行為だとなると、過去から未来への伝承はできなくなり、過去と未来が断絶してしまう。師匠と弟子、先輩と後輩、親と子などに伝承される手法は、まさにこのコピーの考え方であり、これを受け継ぐものは伝承者を越えていかなければ衰退こそすれ発展することはない。師匠と弟子、先輩と後輩、親と子などと言う関係がなくとも、技術や文化や芸術は伝承されて行くべきものである。そして、このコピーの繰り返しの向こうに新たなオリジナルなものが誕生し、発展して行くことができると思う。

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